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離婚道#49 第6章「放念」

第6章 離婚後の人生へ

放念

 令和4(2022)年6月下旬の期日、東京家庭裁判所に双方の代理人が集まった。
 裁判は長らく電話会議だったが、この日は裁判官の提案で、法廷において和解についての協議が行われた。当事者は出廷の必要がなく、私は自宅待機。久郷弁護士からは「電話には出られるようにしていてください」と指示されていた。
 本訴の裁判官は、40歳前後の若い女性裁判官である。最初に原告側の弁護士が裁判官に呼ばれ、その後、入れ替わりで被告側の弁護士が呼ばれたらしい。
 3人の吉良まどか弁護団が入室すると、裁判官は見解を述べたという。
「原告の財産を明らかにできない点から、裁判所としても判断は難しいのですが、和解のラインとしては4000万円プラスαだろうと考えています。いかがですか?」
 久郷弁護士は裁判官に「本人に確認します」と返答。すぐに久郷弁護士から私に電話があった。
 裁判官は4000万円の内訳を述べなかったそうだが、久郷弁護士の解釈としては、不動産の京都マンションの売却額と金地金4㎏、美術品の能面をそれぞれ夫婦で分けた額が4000万円程度だろうと判断されたのではないかという。それに額が定まっていない雪之丞の隠し現金がプラスαで表現されたらしい。
「その額であれば、私は納得します。プラスαについては、先生方にお任せします」
「わかりました。隠し現金分をできるだけ取りたいけど、相手が蹴らない交渉可能ラインとして、まずはプラスαを1500万で出してみようと思います。まどかさんが貸した500万円のこともあるから、プラスαの最低ラインは500万でいいですか?」
「はい、お願いします」
 電話を切り、息を大きく吐いた。安堵していた。
 裁判官は京都マンションに関する雪之丞の虚偽主張を認定していなかった。嘘はバレるんだ、雪之丞。
 次なる連絡を待っていると、15分後、また久郷弁護士から電話。
「まどかさん、吉良が財産分与に納得してないんだって。向こうの弁護士が電話で説明してもまったくダメだったらしく、裁判官が吉良本人に裁判所の見解を直接伝えることになりました。来週、また期日を設定して、向こうの弁護士が吉良を法廷に連れてくるって。まどかさん、やっぱり和解は無理だと思うよ」
「そうですか・・・・・」
 
 そして次の週。
 法廷での期日――雪之丞が裁判官の説得を受ける日を迎え、自宅で待機していると、久郷弁護士から電話。
「裁判官と向こうの弁護士が説得したらしく、吉良が4000万円プラスαを支払うって言ってるらしいんですけど」
「え? 本当ですか?」
「うん。ただ、こちらがプラスαを1500万って言ったら、裁判官が『原告本人はそこまでは納得しないと思います。いま、原告代理人が500万円で説得中です』だって」
「先生、吉良がそれで和解してくれるなら、私は納得します。お願いします」
「わかりました」
 ――15分後。
「吉良がプラスαを渋ってるらしいです。それに、コロナで仕事が激減して生活の不安があるとかで、財産分与を分割払いにしてほしいと言ってるそうです」
「は? 吉良は私が知る限り、分割払いなんてしたことない人ですよ。京都マンションだって一括購入だったし。金庫にどっさりお金はあるし、数年前、マンションを5200万円で売却して、お金持ってることもバレてるじゃないですか⁈」
「いざ支払うとなってグダグダ言ってるんじゃないですか。ヤツはやっぱりケチな男ですよ。もう一回呼ばれるから、また電話します」
 ――20分後。
「2週間後にもう一度、期日が設定されました。それまでに、吉良にはよく考えてもらうことになりました。裁判官からは、分割払いの場合、頭金の額や支払期間についてどの程度なら納得できるかまどかさんに考えておいてもらいたいと言われました。吉良は2週間後も法廷に来ることになりましたが、まどかさんは出廷しなくていいそうです」
「そうですか。どうやら和解に向かっているようで、よかったです。養育費ならわかりますけど、夫婦で築いた財産を分ける財産分与で分割ってあるんですか?」
「和解ならありますよ。でも、きちんと支払われる保証はないから、離婚協議書の中に、『2回支払いを怠ったら、残額を一括で支払う』など期限の利益喪失条項を設けないとダメですね」
 なるほど・・・・・。
 雪之丞は説得され、財産分与に渋々応じたものの、大金を支払わずに済まそうと分割払いを提案したのだろう。
 しかしながら、和解すれば裁判は終わる。やっと人生がはじめられる。
 次回期日までの間に、「上野さくら法律事務所」を訪れ、久郷、醍醐両弁護士と簡単に協議した。裁判官が提示している「4000万円プラスα」のプラスα部分の最低ラインは500万円、分割になった場合、頭金はせめて半額、数年のうちに完済してもらうという期限の利益喪失条項を設けることで意見がまとまった。
 和解で決着するかもしれないことについて、久郷弁護士は終始「信じられない」といった感じだった。
「今回の和解協議で3年ぶりに吉良氏を見ましたよ」
「どうでした?」
「いきなり私にガン飛ばしてきてヤツらしいと思いましたけど、いやぁ~老けたよ。ものすっごく。3年前、弁護士会館で会った時は、それなりに凄みはありましたけど、もう年取って、見る影もないって感じ。あの様子だと、藤田奈緒も去って行ったんだと思います。だから吉良は、まどかさんへの憎しみを増大させてると思う。おそらく家で洗濯とか家事をするたびに、『まどかは勝手に出て行った』と腹を立ててるんだろうね。別居から3年、吉良はいまも過去を生きてる。不幸なことですよ」
 そうか、雪之丞はもう73歳か・・・・・。
〝過去を生きている〟か・・・・・。
 私は今を生きているだろうか?――
 
 そうして2週間後。
 和解日となる予定の令和4(2022)年7月半ばの期日を迎えた。
 法廷の開始時間は夕方4時半だが、5時を過ぎてもなかなか連絡がない。ヤキモキしていると、5時10分、久郷弁護士からの電話が鳴った。
「まどかさん、吉良が和解に応じないって」
「え? だって前回、吉良は分割払いとまで言って、和解する意思をみせたじゃないですか」
「いざ支払うことになって、嫌になったんじゃないですか。裁判官は『原告は和解に納得したと思いましたが、どうやらこちらの見通しが甘かったようです』と肩を落としていました。吉良は最終的に、若い女性裁判官に自分の言い分をまくし立てたようです。女性蔑視。そういうヤツですよ。詳しいことは、醍醐が後から報告書をメールで送りますね」
 その日の夜間、醍醐弁護士から届いた報告メールである。
 
《報告書
1 本日、弁論準備手続期日があり、原告本人が出頭しました。
2 期日開始後、裁判官は個別に話をすることにした上で、まずは原告側と話をしました。
 その後、裁判官は当方を呼び出しました。
 裁判官の話では、前回の期日の際に検討を指示していた和解案について、原告本人が応じる見込みが乏しいとのことでした。原告代理人も相当程度原告本人の説得を試みたようですが、原告本人が頑なな状態であり、和解の続行は難しいとのことでした。
 原告本人としては、雪花堂の役員報酬として一定程度の支払いを被告に行っていたにもかかわらず、別居時点での被告の預貯金が少ない点に疑問を有しており、この点を評価していない裁判所の和解案に納得していない様子とのことでした。
3 和解期日が打ち切りになったため、今後は、追加の主張を行い、陳述書を提出の上で当事者尋問を経て判決の流れになる予定です。
 裁判所からは、次回期日までに、人証の準備及び追加の主張を行うようにとの指示がありました。》
 
 和解決裂――。
 別居から3年。2年以上が経過している長い離婚裁判は続くことになった。
 裁判官と相手方弁護士が、繰り返し懸命に雪之丞を説得した。
 一度は応じる構えを見せていたにもかかわらず、雪之丞は裁判所の和解案を蹴った。その理由は、私が17年間の婚姻中に受け取った給与総額約6000万円の割に私の預貯金が500万円と少なく、そのことを裁判所が判断していないということ。つまり雪之丞は、私が財産を隠していると主張している。
 しかし、私は浮気を疑われ、雪之丞から500万円を取り上げられているから、本来の預貯金は1000万円にはなるはずだ。それに、高価な着物をいくつも買ったし、習い事もした。生活費も補填していた。それなりに使っているから、貯金額が極端に少ないわけではない。なにより私は銀行預金派だし、金庫も保有していない。現金を隠していない。
 雪之丞の論理で言えば、そのままその疑問はブーメランになって自分にかえってくる。婚姻中に雪之丞が受け取った給料3億4000万円。ところが別居時の雪之丞の預金残高は1000万円だ。不自然に少ないのは、4つの金庫の存在とあわせて考えれば現金を隠しているからにほかならない。
 こちらから、1000万円単位で定期的に銀行預金をおろし続けている雪之丞の通帳コピーも金庫の写真も証拠提出した。裁判所はそのことを考慮し、和解案として「プラスαを協議せよ」と提示したのだ。
 別居前はあれほど離婚を急いでいながら、裁判で早く解決しようとしない雪之丞。久郷弁護士が言った通り、藤田奈緒も離れ、私への憎しみを募らせているのだろう。しかし公的機関をこれほどまでに煩わし、自我を通す雪之丞には、もう呆れ果てて言葉もない。
 雪之丞から「一銭もやらない」と言われ続け、私の中にはずっと雪之丞に対する恐怖と離婚後の不安があった。しかし裁判所が財産分与の常識的な和解案を提示したことで、恐怖と不安は無用だとわかった。
「閉店ガラガラ」――
 私の中で明確にシャッターが下りた。
 雪之丞の一切を、私は放念しようと思った。
 ――そう、「放念」だ。
 私はこれまで、放念ができなかったから苦しかったのだ。
 私はひたすらに思い込む「一念」が強い。
 新聞記者になるという一念もそうだろう。幸運にも、その一念は天に通じたが、「吉良雪之丞の舞台革命を支え、吉良雪之丞物語を書く」という一念は実現しなかった。
 人生は、どんなにがんばっても、一念が実らないことがほとんどだ。
 目標達成のためには「一念で突き進む」ことも必要だが、人生を豊かにするためには、それと同じくらい「放念する」ことも大事なのだ。
 早く放念すればもっと有意義な生き方ができたのに、私はそれができず、結婚生活を17年間も続けてしまった。
 別居後も雪之丞のことを放念できないから、雪之丞に期待し、雪之丞への恐怖が消えなかった。
 久郷弁護士は雪之丞のことを「過去を生きている」とあわれんだ。しかし、一方の私もこの3年、雪之丞と同じく、過去を生きていたのかもしれない。
 私は雪之丞を放念する――そう心に決めた時、私はやっとそのことに気づいた。
 すると視界が変わった。
 裁判書面に踊る相手の虚偽主張になんか、もう心動かされない。財産分与の金額も私の意識から外れた。そんなもの、ぜんぶ弁護士に任せてしまえ――と。
 もう、こうしてはいられない。自分の人生をいますぐ始めなければならない。
 過去ではなく、私はいまを生きなければならない。――
 
 令和4(2022)年7月20日、53歳になった私は、本書を書き始めた。
 雪之丞という巨大な怪物の下で、暗中模索しながら、どんどん落ちていった自分。そんな私自身が「もう一度生き直したい」と強く願った時、法制度と離婚弁護士が手を差し伸べてくれた。
 離婚はきつい。
 離婚裁判になると、なおつらい。
 夫婦関係が破綻して離婚するというだけで心が傷ついているのに、裁判では、当事者同士が公に自己正当化と相手への攻撃の応酬をする。
 虚偽主張を重ねる夫の醜悪な面を見せつけられ、人生をかけてその男と結婚した自分自身への落胆が止まらない。心のキズは深まるばかり。ネガティブ思考の沼に落ち、私はなかなか這い上がれなかった。
 いま、そんな離婚の現実と、それでも当事者がもがきながら生き直そうとする姿を書きたいと思った。生き直したい私を懸命に引き上げてようとしてくれた離婚弁護士の仕事についても書きたい。
 何度もいうが53歳、書くことが仕事になるかわからない。がむしゃらに書いて、ダメだったら諦めればいい。
 とにかく私は新たな信念で、自分の人生を再び始めたい。

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