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離婚道#22 第3章「父よ母よ!」

第3章 離婚前

父よ母よ!

 浮気の容疑がかかって4カ月後、雪之丞は寝室に隠しておいた大金がなくなったと騒ぎだした。
「金を盗ったのは、まどかしかいない!」
 雪之丞は盗まれた金を出せと迫った。盗まれた金額を訊いても、教えてくれない。「いいから出せ!」「渡した男に返してもらえ!」と気色ばんで責めるのみだ。
 雪之丞の中では、私が浮気相手と自宅の寝室で不貞行為をし、そこに置いてあった金を盗んだという設定のようだ。さらに浮気相手と結託して、雪之丞の飲み物に薬物を混ぜ、殺そうと企んでいるというのだ。
 新たな容疑がかけられる度、私は自分の限界点を超えた辛抱を強いられてきた。だが、荒唐無稽な殺人未遂はともかく、ドロボー呼ばわりされたことでプチンと切れた。
 もう我慢ならない。もうやってられない。
 私は荷物をまとめて、初めて実家に帰った。
 予告なく突然、実家に戻った私が、親の顔を見るや、泣き入る姿に、両親は仰天した。そして私が初めて、自分が置かれた状況を説明すると、親はさらに驚愕した。
 なにしろ、私は結婚してから10年以上、親と疎遠になっていたから、親は私の生活を全く知らなかった。雪之丞と出会ってから、取っつきにくくなった娘に対して、いつか元の娘に戻ってくれると信じ、いま娘に会えないのは、結婚して外国へ移住しているからだと思うようにしていたという。
 父は「先生って、そんな性格だったっけ?」と最初は信じられないという風だったが、話をきくうち、娘が不憫に思えたようだ。
「妄想なんて治んねえぞ。帰ってこい」
 もともと雪之丞に不信感を抱いていた母は、
「そんな酷いことを疑われて、よく一緒にいられるね」
 と呆れた。
「あんなに自由で束縛されるのが大嫌いで、親の意見もきかなかったまーちゃんが、10年以上も家の中にじっとして、ただただ先生に尽くしていることが、お母さんは一番信じられない。そんなのお母さんの知ってるまーちゃんじゃない」
 さらに父は、「先生は仕事がうまくいってねぇんじゃねぇか? だから焦っておかしくなったんじゃねえか」と生活の心配もした。
 たしかに、弟子や教え子は高齢化し、かなり減っている。雪之丞の病気も影響し、月謝収入は結婚当初からは半減した。古武術の吉良流操法の方は、相変わらず次々と著名人が口コミで学ぶにくるが、雪之丞の性格に苦手意識を持つ人もいて、長続きする人は多くない。
 しかし、顧問料などは安定しているし、舞台の仕事は現状維持ではある。一向に舞台革命が実現する気配はなかったが、父が言うほど、仕事がうまくいっていないとは思えなかった。
 両親とも私に離婚をすすめたが、私は雪之丞に憤慨しつつも、自分は絶対に逃げないと意地になっていた。
 結局、父が雪之丞の事務所まで出向き、話し合った結果、雪之丞は「まどかとは離婚したくありません」「もうまどかを疑ったりしません」というので、私は家出3日目に家に戻った。
 私としては、雪之丞の一時的な妄想だと信じたかった。何事もがんばってきた自分なら、乗り切れると思った。それに、雪之丞には私が必要とわかっていたから、私が去ったら、雪之丞が可哀そうだとも思った。そして生活のこと、雪之丞の仕事のこと、いろいろ考え、離婚できないと思い込んでいた。
 家出の一件があってから、私は頻繁に母に電話をするようになった。結局、頼るべき人は血のつながりのある両親しかいない。雪之丞の評判を落としたくない気持ちから、誰にも相談できずにいたため、つくづく親のありがたみを感じていた。
 親との復縁は、雪之丞から責められる過酷な日常が生んだ、ありがたい副産物であった。
 
 雪之丞は、父の進に「もうまどかを疑わない」と約束したのに、それは1週間ももたなかった。
 ある晩、雪之丞は夕食を終え、寝室でなにやらゴソゴソした後、
「京都のマンションの権利証がない。まどか、男に渡したのか! 権利証を出せ!」
 と、リビングに戻って大騒ぎした。
 もう我慢ならず、私は受話器を取り、実家に電話をかけた。
 父が「ちょっと、先生に代わってくれ」というので、録音ボタンを押して雪之丞に受話器を渡すと、わずか数秒で雪之丞は「ガチャン!」と電話を切ったのだ。
 何が起こったのかと思い、録音を再生した。
 父が雪之丞に対して、
「先生、まどかは泥棒なんかする人間じゃありません」
 と話したところで、雪之丞は一方的に電話を切っていた。
「まどかは泥棒なんかする人間じゃない」――
 父の顔が浮かび、(お父ちゃん……)と涙があふれた。
 私はその言葉がほしかった。証拠にならない証拠、やっていないことの証明。そんなくだらないことで何カ月も振り回されている。もう嫌だ。
 ただ一言、「私はそんなことをする人間じゃない!」と大声で叫びたかった。
 私は白痴のように、雪之丞を信じ、尽くしてきた。
 もし、雪之丞が痴漢で逮捕されたら、「夫は痴漢なんかする人間じゃありません」と私は警察署で、裁判所で、堂々と主張するだろう。
 一方の雪之丞は、私を信じるどころか、疑う。そのうえ、私を信じている父親をさげすむ。非常に醜いことだと思った。
 結局、京都のマンションの権利証はその日のうちに自宅で見つかった。
 雪之丞は、唯一の所有不動産が私の浮気相手に取られないように、権利証を自分のクローゼットの引き出しの中に隠していた。自分で隠したことをすっかり忘れ、元あった机の引き出しにないと騒いでいたのだ。
 権利証が盗まれるかもしれないという雪之丞の不安は継続し、その後、マンションの共有名義を自分ひとりに1本化すると言い出した。
 納得できない私は、数日間、雪之丞と問答したが、結局、平成27(2015)年2月に名義変更をし、雪之丞の単独名義となった。
 私をとことん疑い、薄汚れた人間扱いし、京都マンションの名義人から私の名前を外した。無実の人間に対して、あまりに酷い仕打ちであった。
 京都にマンションを所有していることは、この一件で初めて両親に話した。私は自分の華美な生活ぶりを両親には言いたくなかったからだ。
 母妙子は言った。
「お母さんなら、浮気や覚せい剤、窃盗まで疑われたら、自分のプライドがあるから、そんな相手と暮らせない。でも、まーちゃんが自分の考えで、どうしてもそこから出ないというなら、先生の言うことを尻に聞かせて暮らすしかないよ。じゃないと、ストレスでまーちゃんが病気になっちゃう」
 私の心身を心配する母は続けた。
「本当によく考えた方がいいよ。どんなに贅沢な食事をしても、自分を疑うような相手と食べたって美味しくないよ。どんなに貧しくても、まーちゃんを信じてくれる人と一緒にいる方が、毎日が楽しい。その方が人生は豊かだよ」
 母の言葉はもっともだ。
 でも、私がこだわっているのはお金じゃない。華美な暮らしを手放したくないわけじゃない。
 私は新聞記者をやめて、結婚した。雪之丞の仕事にかけたからだ。途中で投げ出すことはできないと意地になっていた。
 雪之丞が私を疑うのは、私を手放したくないという執着と不安のあらわれだ。雪之丞には私しかいない。どう考えても、私が出て行くことはできないと思っていた。
 ・・・・・いま考えると、当時の私はどうかしていた。
 結局、雪之丞が私を執拗に疑い、責めさいなむという日々は、丸々2年も続いたのである。

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