小説無題#11ハンチング帽の男
電車に乗った後も動悸が収まることは無かった。今頃店主の死体が発見され、中年女性は警察に通報しているに違いない。そして女性の証言から柳を重要参考人として捜査を進めるだろう。柳は品川駅で一度降り、量販店でマウンテンパーカーを買い、それまで着ていたウィンドブレイカーを脱ぎ捨てた。ズボンと靴も色味の違うものに着替え、ニット帽を脱ぎサングラスをかけた。キャリーケースは宿泊先まで郵送にした。
どこまでこの変装が通用するかは分からない。なんと言っても柳は保釈中の身だ。身の潔白があったとしても分が悪過ぎる。
柳はまるで悪夢にうなされているかのような錯覚に襲われていた。何故昨夜の夢と同じ光景が現実で繰り広げられてるのだろうか? 確かに昨日の夢の中で柳はあの喫茶店に居て、いつものカウンター席で煙草を吹かしながら熱々のブラックコーヒーを啜っていた。それは柳にとって数え切れない程繰り返してきた平凡な日常風景だ。しかしそこにロシア帽の男が現れ銃を乱射したのだ。その出来事は今まで辿ってきた平凡なラインを大きくはずれ、既知の航路から未知の海域へと流されてしまった孤独な帆船の様に柳を何処かへと運んで行く。非日常というものは予告も無しにやって来て心構えの猶予を与えてくれないのだ。
──背後に気を付けろ──
殺された店主はそう言っていた。
確かに人間の視野角というものは哺乳類の中では特に狭い。脆弱な肉体を持ちながら背後は余りに無防備なのだ。
待ち人は正面からやってくるが、招かれざる客は背後から近づいて来る。まるで蛙を捕食しようとする蛇だ。柳も気を付けなければならない。さもなければ丸呑みにされる。間抜けな蛙の様に。
柳はまた品川駅に戻り、京急線に乗って羽田空港まで向かった。
乗客の殆どが大きな旅行カバンを抱えて空港に向かっている様だった。その多くが出張に行くサラリーマンか冬季休暇で旅行を楽しんでいる大学生だ。
同じ車両に乗り合わせた人々は、各々の事に集中していたが、柳は誰かに後をつけられているような気がしてならなかった。周りを見渡してみても物陰からこっちを見ている様な人は居ない。タブレット端末で電子書籍を読んでいる人やスマートフォンで自撮りをする人、友人同士で楽しそうに会話している人など誰も柳の事を気にしていない様だった。きょろきょろと見回している柳に対して、向かいの席でノートパソコンを開いていたスーツの中年男がちらっとこちらを見たくらいだ。
もっと普通を演じなければと柳は思った。それは普段から柳が気をつけている事だった。周りと同じ事をして周りと違う事をしない。ルールはとてもシンプルだ。柳はまだ監視の目が気になったがあまり挙動不審になるのは得策では無い。柳はポケットからスマートフォンを取りだしSNSを開いた。特段SNSを見たい訳では無いがそれくらいしか気を紛らわす方法も無い。
しかし結果として柳を余計に落ち着かない気持ちにさせた。そのSNSのトップニュースにこのような事が書かれていたのだ。
─速報:池袋駅近くの飲食店で男性射殺。殺害されたのは飲食店経営者か?──
文字を読んで直ぐに画面を閉じた。身体中の筋肉が強ばっているのが自分でも分かった。柳は自分の両隣に座っている人を見た。左隣は作業着を着た若い男で、窓に頭を預けてふんぞり返る様に寝ている。右隣は化粧直しをしている若いOLだ。どちらも柳の事など気にもしていない様だった。柳はもう一度スマートフォンを開き、ニュースの続きを読んだ。
─今日午前七時過ぎ、池袋駅近くの飲食店で人が倒れていると通報を受け警察が駆けつけたところ、男性一人が倒れているのを発見しその場で死亡が確認された。現場からは銃撃によるものと思われる痕跡が多数見つかっており、警視庁は何者かが銃を乱射したとみて捜査を進めている。尚、死亡したのはこの店を経営している高橋翔吾さん(四十九)と見られている──
ここまで読んでもう一度スマートフォンを閉じる。それから目を閉じて深く息を吸う。余りに早すぎる。柳が例の喫茶店を後にしてからまだ二時間しか経っていない。恐らくは喫茶店で出会わせた中年女性が通報したのだろう。それとも他に目撃者がいるというのだろうか?
柳が顔を上げると向かいに座っているスーツの中年男が鬱陶しそうにこちらを睨んでいた。その男はノートパソコンを膝の上に置き、ビジネスリュックを膝下に挟んでいる。目の下には大きなくまがあり、その冷ややかな視線からは生気があまり感じられなかった。柳は何事かと中年男を見返したが、自分の左足が貧乏揺すりをしている事に気付いて止めた。中年男は眉間に皺を寄せたまま首を軽く横に振り、ノートパソコンへと視線を戻した。柳はそれとなく周りの様子も窺ったが、他の人々は柳の事を気にしている様子は全く無かった。
電車が羽田空港ターミナル駅に着き柳は電車を降りた。予定よりも大幅に遅れたので一本後の飛行機に乗ろうかと諦めていたが、飛行機のチケットをよく見るとフライト予定時刻まであと三十分余裕があった。どうやら時間を勘違いしていたみたいだ。一安心するとともに柳は無性に煙草が吸いたくなった。早めにチェックインを済ませ、ゲートラウンジ内の喫煙室へと向かう事にした。手荷物検査をパスし、長い長い通路をひたすら進んで搭乗口近くの開けた場所に着いた。ガラス張りになっていて発着する飛行機の様子がよく見える。柳はぐるりと辺りを見回し喫煙室と書かれた部屋を発見してそこに入った。
喫煙室の中には誰も居ない。柳は早速一本口に咥え火をつけた。部屋は薄暗く証明はひとつしか無かった。入り口側はガラス張りだったが、そのガラスには半透明のつや消しカッティングシートが貼られていてその向こう側の風景は霧がかかったようにぼやけている。この部屋の存在自体が腫れ物扱いみたいなどこか後ろめたさがある様に感じた。柳が吐き出した煙は行き場に困っているかの様にしばらくの間空間を漂った。部屋は無機質に静まり返り空調が無表情に回り続けた。そのリズムは乱れる事無く一定の周波を単調に響かせた。空気もどんよりと重い。この空間では全ての物事が停滞し、時間に取り残されてゆく様な錯覚を覚える。
そんな室内とは対照的に空は突き抜けるほど晴れ渡っていた。柳はカッティングシートの隙間から飛行場の上に広がる青空を眺めた。雲は全く無いと言っても差し支え無い。綿あめの食べかすみたいな雲が申し訳程度に浮かんでいるだけだ。昨日の雨に濡れたアスファルトが日光の直射を受け、冬の陽炎を作り出している。この部屋の情景とは天と地の差だ。この世界は相対的な均衡の上で絶妙なバランスを保ちながら存在している。絶対的正義も絶対的悪も無い。相対的正義と相対的悪があるだけだ。そして大抵の物事はずいぶんと後になってみないと善し悪しを測る事が出来ない。
柳が煙草を一本吸い終え、次の一本に火をつけたその時、一人の男が喫煙室に入ってきた。赤いハンチング帽を被り顎髭を蓄えた馬面の男だった。歳は四十代半ばくらいで黒いジョガーパンツに赤いウィンドブレイカー、その下から紺のセーターがはみ出している。
「もしもし? 貴方様は柳様でいらっしゃいますでしょうか」狙いすましたかのように男が問いかけた。
柳は微かに首を縦に振った。男は取って付けたような微笑みを浮かべ、ゆっくりと二回頷いた。言葉遣いといいひとつひとつの動作といいどこか不自然だ。
「良かった、人違いだったらどうしようかとひやひやしておりました。お会い出来て誠に光栄でございます。おやおやそんな怪訝な顔をしないで下さいませ。何も取って食おうなどとは思っておりませんのでご安心を。申し遅れたと申し出て名を名乗りたいのはやまやまでございますが名乗る名を持ち合わせてはおりません。ですが名が無いと便宜上不便ではござますので以後わたくしの事は『田中』とお呼び下さい」
自称田中はハンチング帽を脱いで胸に添え、深々とお辞儀をした。柳は特に反応せず煙草をふかした。
「ええ構いません。ではわたくしも失礼いたします」
田中はそう言って小物入れから真っ赤な煙管を取り出し刻み煙草をぎゅうぎゅうに詰めると口に咥えてマッチで火をつけた。甘ったるい匂いがつんと鼻を突く。田中は機嫌良く煙を吐いた。
「いやぁそれにしてもいい天気ですなぁ。これだけ晴れていたら絶好の狩猟日和というもんですよ。実はわたくし、猟師をやっておりまして農作物を食い荒らす熊や鹿なんかをズドンと仕留めているんですよ。罠を張ることも有ります。勿論猟銃の免許は持っておりますよ」そう言いながら赤いハンチング帽をアピールするかの様につばを摘んでみせた。
「あなたは何者ですか?」柳は率直に訊いた。
それを聞いた田中は目を見開くと、さぞ面白いというふうにけたけた笑った。よく見ると上の前歯が二本無い。
「わたくしが何者か? そんな貴方は一体何者なんです? いや別に答えを求めておりません。ついついちょっかいを入れたくなっただけですので。ですがわたくしがどういった仕事を生業とする人間かについて、一応説明申し上げますと、とある商品のブローカーでございます。そして先程も申した通り猟師でもあります」
「俺に用事ですか?」柳は煙を吐きながら聞いた。
「ええ用事がありますとも。実はわたくし、例のお方から柳様宛の商品を届けに来ました」
田中は煙管をひと吸いして欠けている前歯の隙間から煙を吐いた。
「商品ってのはなんだ」
「それは実際に見てみれば思い当たるでしょう」
そう言って田中は煙管の灰を灰皿に落とし、新たな葉を詰めてマッチを擦った。この男の周りには不穏な空気が甘い香りと共に漂っている。
「どうやらコイツの匂いを気にしてらっしゃるご様子で」
田中は煙をたてる煙管を軽く掲げる。
「この葉っぱはわたくしのオリジナルブレンドでして我ながらいい出来と自負しております。一口いかがでしょう?」
田中は自分の吸っている煙管を差し出したが柳はそれを拒否した。
「そうですか、貴方様は気難しい顔をしてらっゃる。そんな貴方様にぴったりただと思ったんですがね。いや何を隠そうコイツはただの煙草じゃねぇんでございます。銘柄の違う数種類の煙草とマリファナをブレンドして作っておるんです。ええ大麻の葉っぱちゃんです。大きな声じゃ言えませんがね。こいつにゃ何の危険もありません。現に欧米ではどんどん合法になっておりますから。ですが警察にチクるのだけはどうかご勘弁を。実はわたくしコイツの所持で既に執行猶予を食らっておりまして次見つかると懲役に行かにゃならんのです」
別に通報する気は無いと柳は言った。警察に言いつけたところで柳にメリットがある訳では無いし、この男やその周りに居るであろう仲間の恨みを買う方が危険だ。
「そう言って頂けるとわたくしも一安心でございます。さて本題に入りましょうか」
そう言うと田中はウィンドブレイカーのファスナーを開き、セーターを捲ってその下の腹巻の折り返しから茶色い包みを取り出した。クラフト紙にガムテープを巻いただけの粗い包装だ。
「こちらが商品になります」田中は煙管を口に咥えたまま言った。
「受け取って頂けない限りわたくしは報酬を貰えないのです。それからひとつご注意頂きたいのは決して中身を誰かに見られたりしてはいけないと言うことです。こうしている間にも誰かにこのやり取りを見られているかも知れません。今すぐ貴方様の肩に掛かってらっしゃるショルダーバッグの奥底にしまって下さい」
柳は包みを受け取った。片手で持てる大きさだがサイズの割にずっしりと重い。柳はそれを言われた通りバッグの底の方にしまった。
「心配せずとも時限爆弾の様にいきなり爆発したりは致しません。しかしくれぐれも扱いにはご注意下さい。先程も申した通り絶対に中身を見られてはいけません。この包みを開けるのであれば北海道の宿に着いてからが良いでしょう」
自称田中はにんまりと笑ってみせた。とても気味が悪い。
「確かに柳様にお渡し致しました。わたくしの役目はこれにておしまいです。ですがもし貴方様がわたくしを必要とするのであれば何時でも駆けつけましょう。もちろん依頼として、報酬は頂きますよ」
田中は煙管を灰皿の縁にカツンと打ちつけるとそれを大事そうにしまった。
「それではではごきげんよう。貴方様の幸運を祈っております」
くるりと踵を返して田中は去っていった。喫煙所のドアを出てすぐ曲がったので男の姿は一瞬にして見えなくなった。そこに情緒の隙間は全く無かった。その余韻の無さのせいでついさっきまでハンチング帽の男がここにいたのか柳は自信が持てなくなってくる。しかし確かに男がここに来て包みを柳に渡してどこかへ去っていったのだ。肩にずっしりとかかる茶色い包みの重さとバニラの様な甘い香りだけが男の痕跡として残った。
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