30京都・街の湧水、水神信仰5

102伏見・月桂冠「さかみず」

 水神信仰と穀霊信仰が結びついた醸造、清酒づくり。日本では神々に捧げるお神酒といえば水の贈り物、清酒か濁り酒。京都の酒どころ、名水の多い伏見を訪ねた。

地下50㍍からポンプアップする大倉酒造「さかみず」

 伏見を代表する酒蔵「月桂冠」の発祥地にある「大倉酒造」大倉記念館の「さかみず」を飲みに行った。酒づくり道具や資料を展示する部屋から中庭に出ると、水が出ている井戸が2カ所あった。奥の方が創業以来の「さかみず」の源泉井戸。ここから水をひいて見学客が利用する井戸の水を出している。

煙突のある醸造所わき「さかみず」源泉の井戸

 「伏見の水は超軟水。ちょっと甘く、酒づくりに適しています。地下50㍍からくみ上げています」と係員の説明があった。入場料(600円)を払った際にもらった利き酒用のお猪口(ちょこ)で源泉の井水を飲んでみた。確かにやわらかく、のど越しがよかった。「さけみず」は「栄け水」と書き、「酒水」にひっかけた。

源泉から引水した資料館に近い「さかみず」の飲み場

 大倉酒造が地下50㍍からくみ上げたのは1961年から。都市化などの影響で地下水位の低下から自然湧水がなくなり、ボーリングしている。くみ上げている水量と水温を訪ねた。「酒蔵だから仕込み時期などによって使う水量が異なる。毎日出続けているが水量は一定でなく、仕込み時期など使用量が多い時期は水量が多くなる。だから、一定の水量、決まった水温はない」と言われた。

源泉の近くにある酒蔵の杉玉

 伏見の酒の大きな特徴はさらっとしてまろやかな甘み。いわゆる、もう一つの大きな酒どころ・灘(兵庫県)が辛口の「男酒」なら、伏見は「女酒」。伏見の蔵元は現在22カ所。江戸時代の1657(明暦3)年に酒造免許制の酒造株制度ができた当時、83軒の酒造元があった。
 江戸時代半ばには灘五郷(兵庫県)の醸造元が酒運搬用の「樽廻船(たるかいせん)」を江戸湊まで運航。明治時代半ばにかけて江戸まで酒樽を運んだことなどもあって、伏見の酒蔵は苦戦を強いられた。1889(明治22)年に東海道本線が全通し、伏見の酒もようやく東京市場に参入できた。

月桂冠の大倉記念館

 伏見の蔵元が減った大きな理由は、高度経済成長時代の宅地開発などで地下水の供給が減ったためとされている。次々と廃業する酒蔵がある中、大倉酒造は1961(昭和36)年に敷地を地下50㍍までボーリングして「さかみず」の水量を確保した。

資料館に展示されている酒を絞る道具

  伏見はかつて豊富な湧水があった。東山36峰と深草、伏見桃山丘陵の森が育んだ水は伏流水の水脈となって、宇治川とぶつかる伏見の地で湧き出した。黄桜酒造は自らの酒蔵から湧き出す水を「伏水(ふしみ)」とした。「神聖」「松の翠(みどり)」で知られる山本本家(鳥せい)は地元で古くから伝承される「白菊水」、京都御所の近くから移ったキンシ政宗は「常盤井水」と名付けた。
 伏見は豊臣秀吉が伏見城、指月(しげつ)城を築いた城下町として、淀川水系を利用した大阪と京と結ぶ物流船運の拠点となる人・荷物集散の宿場町として栄えた。
 

大倉記念館の酒蔵

 大倉酒造は江戸時代前期の1637(寛永14)年、旧笠置町(木津川市)の大倉治右衛門が伏見に創業したのが始まり。明治時代に防腐剤なしのビン詰が大ヒット。「コップ付き小ビン」が駅売りされ大躍進した。大倉記念館には現役の井戸水のほか、酒絞りなどの酒づくり道具が展示されている。

キザクラカッパカントリーの「伏水」はコロナ感染防止のため閉鎖中だった
「伏水」の説明書き

 キザクラカッパカントリーも酒づくり道具が展示されている。しかし、黄桜の酒造りに使った古井戸の水は井戸のある小屋にかぎがかけられていた。「コロナウイルスの感染拡大を防ぐ」ためで飲用できなかった。
 伏見では藤本神社「不二の水」▽御香宮神社「御香水」や、キンシ政宗「常盤井水」▽鳥せい本店(山本本家)「白菊水」▽キザクラカッパカントリー「伏水」▽月桂冠大倉記念館「さかみず」の蔵元4軒などの名水10カ所のスタンプラリーを実施している。
 ラリーに参加する料亭・清和荘「清和水」から▽キンシ政宗▽大黒寺「金運清水」▽鳥せい本店▽キザクラカッパカントリ―▽月桂冠大倉記念館▽長建寺「閼伽水」はほぼ南北の延びる直線状にある。

長建寺の「閼伽水」

 東山36峰の南端から伏見桃山丘陵に続く森が育んだ水が地下に浸透して、南北に延びる水脈となって流れているとしか考えられないような位置取りだ。京阪電車の中書島駅に近い長建寺や大倉記念館の井戸水は宇治川や宇治川派流「濠(ほり)川」伏流水の影響を受けているかもしれないが、丘陵からの伏流水が源泉と見た方がいいのかもしれない。

103伏見・本成寺「妙榮水」

 妙榮水(みょうえいすい)がある伏見・本成寺(ほんじょうじ)の井戸水を飲んだ。5月中旬だというのに気温25度以上の夏日、地蔵堂前にある蛇口をひねったら、勢いよく水がでた。水はなめらかで冷たかった。

地下50㍍からポンプアップの妙榮水

 「井戸水です。毎日20人ぐらいがくみにきます。ポリタンクを持ってくる人もいる。深さ50㍍からポンプアップしています。井戸はすぐ左手にあります」と、37世となる現在の住職が説明してくれた。

「妙榮水」の水質検査結果書

 蛇口のわきに飲料に適合した証として、水質検査結果書が張り出してあった。近くにある伏見板橋小の白菊水など伏見の名水と同じ水脈。伏見のこの辺り、桃山丘陵の森がはぐくんだ伏流水が地下に流れているらしい。水質検査やポンプアップ、砂利除去などにカネがかかるが、水くみ代は無料。

本成寺の本堂

 寺にはもともと古井戸があり、湧水があった。しかし地下水位の低下で湧水がなくなった。寺の先代住職が1991(平成3)年、江戸時代に建てられた本堂を建て替えた際に井戸の復活を図って地蔵堂のわきをボーリングしたら地下50㍍から清水が湧き出した。名水の復活だった。山号「妙榮山」にちなんで「妙榮水」と命名された。

半夏生がある「妙榮水」の蹲踞(つくばい)。この奥に旧本堂の鬼互がある

 地蔵堂の左手に大きな鬼瓦がある。これは建て替える前の本堂の鬼瓦だという。鬼瓦の前に池がある。池のわきに半夏生が少しばかり化粧していた。
 本成寺といえば「痰(たん)切り地蔵」が有名。法華宗なので本尊は十界曼荼羅。安土・桃山時代の1597(慶長2)年、織田信長が明智光秀の軍勢に急襲された1582(天正10)年に起きた「本能寺の変」で本能寺が焼失した後、本能寺を中興した日逕(にちきょう)が伏見区上板橋中之町に創建した。

本成寺の山門

 江戸時代の1636(寛永13)年、信者の1人が法華経千部読誦を機に、初代の伏見町奉行だった旗本の水野忠貞(ただきよ)の協力で現在地に移した。1870(明治3)年に木造地蔵菩薩立像の痰切り地蔵が伏見区三栖の大亀谷地蔵院から移された。

104壬生寺「弁天水」

 壬生寺(みぶでら)の手水に注意書きがあった。「弁天堂の地下から引いた水です。飲用ではありません」。水源が弁天堂地下の井戸なら、飲めないはずはないと思ってきた。飲用不可の理由は弁天堂のすぐ裏手にある池の水が地下水に混入しているせいかとも思ったが、比較的近くに住んでいるので何度も寺に通うたびにこの水を飲んできた。

弁天水の流れる水盤には竹蓋(たけぶた)が置かれた
「飲用できない」と注意書きがあるが、水質検査をしていないだけだった

 「何で飲めないのか」と、寺の人に尋ねた。「手水は弁天堂の地下にある井戸からの引水です。飲めないことはないと思うのですが、飲んで体の不調はないという保証はできません。飲用ではないというのは、水質検査をしていないためです。水を煮沸(しゃふつ)すれば大丈夫だと思いますが、やはり保証はできません」と言われた。
 自己責任で飲むなら飲んでくださいと受け止めた。何度も飲んだが体の異常、変調は皆無だった。弁天堂は手水舎の斜め向かいにある。弁天堂の井戸は湧水だという。「昔から出続けています。涸(か)れたことはありません」と説明された。

水掛け地蔵堂(左)と弁天堂(右)
弁天堂の裏手にある弁天池

 弁財天は吉祥天(きっしょうてん)と結びついて、芸事や金運などのご利益があるとされる七福神の一人。弁財天堂のそばには必ず池とか井戸、沢などの水場があり、水神と深く結びついてきた。一般的に「弁天さま」と親しまれている。水神信仰と弁天信仰の篤信が結びついて、昔から「弁天さまの水なら飲んで安心」といわれてきた。神仏習合では弁財天は宗像大社(福岡県)の祭神・三女神の長姉である市杵嶋姫(いちきしまひめ)に付会((ふかい)されることが多い。
  壬生寺は江戸時代の幕末、京の所司代を務めた会津藩の家臣となり、都の見回り役として尊王攘夷・討幕勢力を取り締まった新選組ゆかりの寺として知られる。新選組は当初、壬生浪士組と呼ばれた。境内には新選組隊長の近藤勇の銅像が建つ。

壬生寺の本堂

 寺は中京区壬生梛(なぎ)ノ宮町にある。命からがら来日した唐の高僧、鑑真が開創した律宗総本山で奈良にある唐招提寺に属する律宗の大本山寺院。大津市にある天台宗系の園城寺(三井寺)の僧・快賢が、平安時代後期の991(正暦2)年に現在地よりやや東にあった五条坊門壬生に宝幢三昧寺として創建した。仏師・定朝作といわれる地蔵菩薩が本尊。
 11世紀後半に白河天皇が行幸。「地蔵院」の寺号を下賜されたといわれる。1231(建暦3)年に信者だった桓武平氏の流れをくむ平宗平によって現在地に移された。1257(正嘉元)年に伽藍(がらん)を焼失。2年後、宗平の子である平政平らが復興した。鎌倉時代、宗平は神奈川県小田原市に近い中井町辺りを拠点とした。末裔は源平の戦いで源氏側となった。
 中世に宗平と共に寺を再興したのが律宗の僧・円覚。この時から律宗の寺となり、円覚が1300(正安2)年に始めたとされる壬生狂言の「大念仏狂言」を伝える。鎌倉時代後期の作と伝わる寺の地蔵菩薩半跏(はんか)像は「壬生地蔵」、「延命地蔵」と呼ばれ、江戸時代は「延命地蔵」として庶民の信仰を集めた。1788(天明8)年の天明の大火で全山焼失して1811(文化8)年に本堂が再建された。
 新選組の拠点となった屯所(とんしょ)が、寺そばの八木邸に置かれた。屯所が本願寺に移転してからも境内は新選組の兵法調練場に使われ、武芸などの訓練が行われた。薩長藩閥の明治新政府になると廃仏毀釈を名目に、新選組に肩入れした寺として目の敵にされ、塔頭は衰微した。
 「延命地蔵」は1962(昭和37年)7月、放火で本堂などと共に焼失した。現在の本尊・地蔵菩薩立像は、火災後に本山の唐招提寺から移された。1967(昭和42年)に本堂も復興した。塔頭の中院は十一面観音を祀る。

壬生寺の節分会で演じられる壬生狂言の演目「焙烙割(ほうろくわり)」で使われる焙烙の売り場

 壬生はもともと水が豊かな地域だった。壬生川が流れ、一帯の田畑では野菜の壬生菜(みぶな)や染料に使う藍(あい)などが栽培されていた。藍の産地・徳島県の吉野川下流域の主な地質は砂礫層。壬生地域も水気の多い砂礫層だった。新選組のダンダラ模様の羽織の水色は藍染という。(つづく)(一照)

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