22京都・街の湧水、大寺の古井戸

78知恩院「紫雲水」

法然御廟真下の崖の中腹から高さ約3㍍の池に落ちる紫雲水
知恩院で一番古い建物「勢至堂」。この右横に紫雲水がある

 知恩院・勢至堂のすぐ右横、法然御廟(ごびょう)の真下に「紫雲水」の石標が建つ小さな池がある。御廟が崖(がけ)上にある。崖のやや中央に備えられた石製の樋(とい)から小さな滝のように約3㍍下の池に「紫雲水」がしたたり落ちていた。勢至堂は江戸時代前期の慶長年間、この地に移設されたという知恩院で最古の建物。

法然御廟の真下にある紫雲水

 崖の下の方は大きな岩盤がある。いくら樹木の茂る東山36峰の華頂山(かちょうざん)のふもとにあるとはいえ1000年近くにわたり、水が絶えず出続けていることは驚きだ。水は山腹から湧き出している。寺の背後にある華頂山(かちょうざん)に茂る樹木が育み、地下に浸透した水が湧き出した。
 山水だけに、霊水とあって寺では飲用させていない。石柵で囲われて水は飲めないし、さわることもできない。

法然御廟の真下にある岩盤と紫雲水

こじんまりした池

 「紫雲水」の池はこじんまりしていた。やや円形で広さは推定で60~10平方㍍。水深は10~15㌢程度とみられた。法然が1212(建暦2)年、この地で入滅の時、池畔に菩薩の聖衆に立ち並び水面に紫雲が映り、芳香が漂ったという言い伝えがある。
 池の周囲に小さな草木が茂り、毎年晩春から初夏にかけて天然記念物モリアオガエルが産卵するという。市街地のど真ん中にある寺の境内だから貴重だ。京都の寺は自然が豊かなところが多く、左京区岩倉にある「実相院」の池でも、体色が緑色のモリアオガエルの産卵が、あり、産卵後の木々の枝先には白い泡状の卵が見られる。


知恩院の三門

 知恩院は東山区林下町にある浄土宗の総本山で、正式名称「華頂山大谷寺(だいこくじ)知恩教院」。弟子の源智が小さな廟堂を構えたのが始まりという。
 法然が比叡山で学んでいたのは末法思想がまん延していたころ。鎮護国家に重きを置いた天台仏教に疑問を抱き、円山公園の上にある「吉水」に庵(いおり)を結んで修行した。ここに浄土真宗の宗祖、親鸞が訪れてともに修行したという話は有名だ。

法然像を祀る御影堂

 法然は「阿弥陀仏」を信仰。「南無阿弥陀仏」と唱え続けるだけで極楽浄土に行けるという専修念仏を唱えた。専修念仏は広く貴賤(きせん)に受け入れられた。徳川家康は信徒で、生母「於代(おだい)」の菩提(ぼだい)を弔うため知恩院に肩入れした。伽藍(がらん)は徳川第3代将軍家光ら歴代徳川将軍家が投じた財で整備された。

徳川家の庇護

 知恩院の「三門」は南禅寺、東福寺の山門、仁和寺の仁王門と並んで京都市の仏閣では最大級の門。一般的に寺の門は「山門」と書くが、知恩院では悟りに至る三つの境地、「空」「無相」「無願」をあらわす「三解脱門」である「三門」と呼ぶ。

参道わきにあるムクロジの巨木

 三門は1621(元和7)年、徳川第2代将軍・秀忠の命令で造営された。高さ24㍍、幅50㍍の二階建て。寺で最大の建物は法然像を祀る御影堂。1639(寛永16)年に徳川第3代将軍・家光が再建した。
 知恩院といえば大鐘楼。1678(延宝6)年に造営された。重さ70㌧という大きな鐘は1636(寛永13)年の鋳造。僧侶17人掛かりで突く除夜の鐘はテレビでも中継される。大晦日から元旦にかけての未明、円山公園にいると、公園上にある時宗・長楽寺の梵鐘など各寺の鐘の音が響く。知恩院からは「グゥワァゥーン」という大鐘特有の独特の響きが聞こえる。

79天龍寺[愛の泉」


別の場所の山水をひいた「愛の泉」

 天龍寺の霊泉「愛の泉」は庭園の中、平和観音の前にあった。チョロチョロと水が絶えず出て、カエルの置き物がある池に注いでいた。2023年3月30日昼ごろ、サクラ満開の庭に入った。地下80㍍の深層からの湧水をポンプアップしていると言うし、これを飲んだ人は「愛と幸を受けられる」とされるので行ってみた。

「愛の泉」前の池は「花いかだ」
「愛の泉」の由緒書き

 しかし、地下80㍍からの湧水は数年前からなくなり、ポンプアップしていないという。水脈が変わったのだ。後背地が斜面なので山の湧き水が少し出ている別の場所から引水しているという。水質検査もしていないので飲むことはできないという説明だった。飲むことはできないし、そばに近寄って直に水に触ることもできなかった。池の水面いっぱいに散ったサクラの花びらが「花いかだ」となって浮いていた。

天龍寺方丈
無窓疎石が作庭の曹源池庭園と借景の嵐山

 天龍寺の寺伝やホームページによると開山は無窓疎石。無窓疎石は室町幕府初代将軍・足利尊氏の帰依(きえ)を受け、京都・苔寺(こけでら)を中興し、天龍寺を開山した。平和観音は中国伝来とされている。夢窓疎石は母が霊夢によって授かったとされる観音菩薩を信仰し、念持仏とした。夢窓疎石が南北朝時代の和平に尽力したことから平和観音と呼ばれるようになったとも言われている。

80大覚寺「閼伽井」



「閼伽井」のある閼伽堂

 大覚寺の閼伽井は大沢池畔にあった。特別公開中だったが、井戸は戸のカギがかかった「閼伽堂」の中にあって見ることはできなかった。寺の説明では「阪神大震災の影響を受けて水量が減少し、現在は電動ポンプで汲み上げている都合上、通年開放は難しい状況」とという、しかし、特別公開期間中の2023年3月下旬に訪れた際、電動ポンプは作動していなかった。

閼伽堂の正面

 水が出ているなら、ぜひ飲んでみたいと思い、電話で問い合わせた。応対した男性が「円筒形の浅い井戸。大人が立って頭が出るぐらいの深さ。底に少し水がたまっているぐらいで、水を飲めるという状態ではない」という話だった。

閼伽堂の由緒書き

 仏に供える水の「閼伽(あか)」がわく井戸で、「閼伽井」としているが日常的に仏前に供えることはしていないという。空海が「錫杖(しゃくじょう)や独鈷(どっこ)で地面を突いたら水が出た」という伝承は各地にあるが、「空海自らが掘った」との言い伝えの井戸は寡聞(かぶん)だけれどもほとんどない。

大沢池。閼伽井はこの左にある

閼伽井は水涸れ

 「将来、寺の行事に使ったり、飲めるようになるかもしれない」との話で、そうなるとありがたいことだと思った。池のそばなので10㍍もボーリングすれば、容易に水脈にあたると推量される。でも、それでは空海自らが掘った井戸の水にはならないし、不特定多数の観光客らが飲用して、もしも腹痛など体調の変化があった場合の心配もあるのに、井戸掘削の費用を掛けることもないというのが寺の考え方だと思った。まあ、それが妥当な考えでもあると思った。
 「閼伽井」の由緒書きによると約1200年前、大覚寺の前身「離宮嵯峨院」時代、大沢池を造営したのと同時代のころに設けられたという。嵯峨天皇の命で空海が建立した持仏堂「五覚院」の閼伽井として、空海が自ら掘った井戸とされている。
 空海が井戸掘り用具を自ら持って掘削したかどうかは分からないが、「ここらあたりを掘ってみよう」ぐらいのことは言ったかもしれないと空想が飛んだ。

閼伽堂。カギがかかって井戸は見ることができない

 寺の説明によると、「閼伽(あか)は、仏教において仏前などに供養される水のこと。地中からジワジワと浸み出した水だ。サンスクリット語のアルガの音写で、功徳水と訳されているという。
 寺のホームページや寺伝によると、空海を宗祖と仰ぐ真言宗大覚寺派の本山。 正式には「旧嵯峨御所大本山大覚寺」。嵯峨御所とも呼ばれる。 平安時代初め、嵯峨天皇が檀林皇后と結婚。新室として大覚寺の前身となる離宮嵯峨院を建立した。

門を入ってすぐ右手にある臥龍松

 嵯峨院が大覚寺となったのは、876(貞観18)年。 空海の薦めで嵯峨天皇が筆を執った般若心経が60年に1度開封の勅封として奉安され、般若心経写経の根本道場となった。また「いけばな嵯峨御流」の家元として知られる。

大覚寺の玄関

 794(延暦13)年、桓武天皇は「山背」を「山城」と改め、新都・平安京に遷都した。桓武天皇に次いで即位した平城天皇は、病身のため在位3年で弟の嵯峨天皇に譲位した。嵯峨天皇は809(大同4)年に即位。唐の新しい文化を伝えた僧侶たちにも深く帰依された。その代表が空海だった。
 空海には816(弘仁7)年に高野山開創を許し、823(弘仁14)年には東寺も下賜された。ここに真言宗が開宗した。嵯峨院が大覚寺として再出発することになったのは、876(貞観18)年だった。
  大覚寺の宸殿(しんでん)で気に入った襖絵(ふすまえ)があった。鶴が跳んだり、跳ねたり、生き生きと描かれた日本画。あちこちの大寺に群鶴画(ぐんかくが)があるが、どれも躍動感がない。最も躍動感があふれた優れた群鶴画があるのは岩倉の実相院。鶴が何羽もいて、すべて生き生きとして何度見ても最もお気に入りの日本画だ。次に躍動感があるのが大覚寺だった。(つづく)(一照)


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