17京都・街の湧水、井桁が残る名井

 京都市内で歴史の古い寺社などでは古井戸が残る。井桁、井筒だけ残されて井戸が埋められてしまった井戸や、井戸そのものは残るが水が出ないという古井戸もある。

井戸水に長寿を願う

 地下水は言わずと知れた公共財産。各地の井戸水をくみに来る人に聞くと、そろって「高齢の親がここの井戸水でないと飲まないと言う。井戸水は炊飯など日常的に使う。健康で長寿を願い、水をくみに来る」と言う。幼いころ、井戸水を使っていた高齢者にとって、井戸水は健康を保つ必要条件の一つとなっているようだ。
 井桁だけ残る古井戸跡は水は涸(か)れているが、深くボーリングすれば、まだ水は出る。しかし、整備には資金がかかる。「災害用井戸」以外に古井戸復活に行政の支援はなく、まず資金づくりから始めなければならない。
 寺社だけの意向ではなく地域住民の総意があり、恒常的な維持管理費を調達できて日常的な管理も行き届き、井戸水そのものが水質基準に適合していれば、住民のだれもが地下水の恩恵に預かることができるような仕組みつくりが必要だと思った。京都の市街地で使われていない古井戸、井桁だけが残る古井戸跡を追った。

59観世水

 観世水の古井戸は京都市上京区今出川大宮西入にある京都市立西陣中央小の校内の南東隅にあった。

観世水のある観世稲荷社
観世稲荷社いわれ書き

 学校に電話で「見学したい」と連絡すると、職員が対応して親切に古井戸の扉(とびら)を開けてくれた。井戸に盛り塩が供えられていた。「毎日、塩を供えます」と職員。観世稲荷社は観世家の鎮守社だった。年に一度、観世家関係者が集まって参拝するという。

観世水の石碑

 京都御苑(ぎょえん)を挟んで北側を東西に走る今出川通り沿い、南側を走る丸太町通り沿い、それから御苑の西側を南北に走る烏丸通りと、西に約2㌔離れた千本通りとの間には、名のある古井戸が多くある。観世水の井戸もその一つ。

塩が供えられた観世水の井桁

 ここら一帯は平安時代から京の都のほぼ中心部。智恵光院通りを挟んで同小の真向かいには西陣の名井「桜井」があった首途(かどで)八幡宮があり、西陣の名水スポットが多い。
 観世水の井戸にまつわる伝説がある。空が急に黒い雲に覆われると龍が下りてきて、井戸に入ったという。観世家の仕舞扇、観世流謡本の水巻模様は、龍が入った井戸の水面の波紋をかたどったといわれている。

普段、鉄製の扉が閉ざされている観世水

 観世水の井戸があった場所はかつて観世家の屋敷地だった。室町幕府の第3代将軍足利義満から観阿弥が拝領したと伝えられている。観阿弥の息子、世阿弥はここで生まれ育ったとみられている。観世家の屋敷があったことで、小学校の近辺は観世町という地名になった。

60浄福寺の井戸

東門(赤門)のすぐ右手にあるクロガネモチの古木

 浄福寺の東門(赤門)から入ると右手に弁財天のお堂があり、わきに手水舎があった。門を入ってすぐ右手にクロガネモチの古木がある。お堂はかなり傷みがひどく、手水舎も管理が十分行き届いていないたたずまいだった。古井戸の隣に水盤があるが、水はなく、井戸水も出ていない。

弁天堂わきの古井戸
水が出てなく、水盤にも水がない古井戸

 本堂の左側にもきれいな手水舎がある。蛇口をひねると水が出る。2023年2月下旬に訪れて、蛇口をひねった。冷たい水で井戸水なら浅井戸だが、水道水のような感じだった。

蛇口から水が出る本堂わきの手水舎

 西陣のど真ん中にある。恵照山浄福寺という浄土宗の寺。別名、村雲(むらくも)寺ともいわれる。桓武天皇が平安京に遷都した延暦年間(782~802)、御所から東北の方角の地に鬼門除(よ)けとして創建された。市街地にあってたびたび火災に遭い、各地を移転。鎌倉時代の1276(建治2)年に一条村雲に移った。

浄福寺の本堂

 室町時代後期の1525(大永5)年、浄土宗を兼ねるようになった以後、浄土宗に改宗して知恩院に所属した。現在地には、徳川家康が天下を平定して戦乱の世が終わった1615(元和元)年に移転した。大寺で立派な伽藍(がらん)。本堂など今の堂宇(どうう)は1733(享保18)年に再建された。

「火除けの赤門」と呼ばれる東門

 浄福寺の東門は「火除けの赤門」と語り継がれている。門全体が朱塗りで、西陣の人たちは「赤門」と呼んできた。1788(天明8)年に大火が起きた。「天明の大火」の火炎が浄福寺にも迫る中、赤門の手前で火が止まったという伝承がある。鞍馬山の天狗が降りてきて、赤門の上で大きなうちわをあおいで火を防いだといわれている。

浄福寺いわれ書き

 戦国時代の後奈良天皇から贈られたという阿弥陀如来坐像が本堂の本尊として祀(まつ)られている。釈迦堂は、嵯峨野にある清凉寺の本尊・釈迦仏(国宝)を鎌倉時代に模刻したという釈迦仏を安置。方丈には室町時代の阿弥陀如来立像がある。いずれも柔和なやさしい顔立ちで美しい姿をしている。

61東北院の古井戸


弁財天堂わきにある手水舎

 吉田山の南麓(なんろく)にある東北院の弁財天堂のわきに「雲水井(くもみずのい)」の手水舎があり、井桁が残っている。弁財天守護の水であり、禍(わざわい)をはらうという。寺地は移転を繰り返す中、移転の先々で井戸水が湧出したという。弁財天のご加護と伝えられている。

手水舎の古井戸の井桁

 寺伝などによると創建は平安京遷都前の長岡京のころの784(延暦3)年。桓武天皇が最澄に「鎮護国家の守護神」を聴くと弁財天であることを教えた。桓武天皇はさっそく弁財天像を彫り、御所の鬼門にあたる北東の方角にお堂を設けて祀(まつ)ったという。

弁財天堂

 かつて東北院は現在の廬山寺(ろざんじ)境内にあった。蘆山寺にも古井戸「雲水井」がある。東北院は平安時代中期、三代にわたる天皇の曾祖父として権勢をふるった藤原道長が建立した法成寺(ほうじょうじ)の寺域の北東すみに別院としてあった。廬山寺の近くにある清浄華院(せいじょうけいん)に、火災で廃寺となった法成寺の大きな礎石が置かれている。
 寺は室町時代に荒廃。16世紀末に時宗の僧が復興して時宗に改宗したという。

「軒端の梅」が満開の東北院

 江戸時代半ばの1692(元禄5)年の大火事で焼け出され当時、寺町通今出川下ルにあった真如堂などをともに現在地に移転した。東北院が吉田山の南に移って、歌人の和泉式部が出家後、東北院の小さな堂にこもり、前庭に「軒端(のきば)の梅」を植えた。「軒端の梅」を題材に室町時代、世阿弥が能の「東北(とうぼく)」を創作した。
 東北院は京都市左京区浄土寺にある時宗の寺。法成寺に属していたころは天台宗の寺だった。時宗の宗祖・一遍が初めて庵(いおり)を構えた神奈川県相模原市にある当麻(たいま)無量光寺を訪れた際、先代の住職が言った「一遍の教えを忠実に生きる時宗の寺はみな貧乏」という話が耳にこびりついている。現在の東北院も寺を整備する資金が乏しいように見えた。
 和泉式部ゆかりの「軒端の梅」の後継の白梅が満開だった。

62法然水の井桁


住宅地にひっそりある法然水の井桁、わきに地蔵尊がある

 法然が「閼伽(あか)水」をくんだとされる井戸跡の井桁が、京都市上京区中之町通り中之町(旧松鷗軒境内)にある。浄土宗大本山の1つ、百万遍知恩寺が発祥した旧地で、水盤に「法然水」と刻まれた井桁のみが残る。相国寺の元塔頭寺院跡とはいえ、周囲は閑静な住宅地にひっそりと古い井桁があることで有為転変の長い歴史を感じた。

法然水の井桁

 平安時代後期の1175(承安5)年に比叡山を下りた法然。かねてから上賀茂神社の賀茂明神を尊崇していたことから、神社の要請で、「賀茂の河原屋」「賀茂の禅坊」と呼ばれる賀茂明神の草庵に住んだ。小さな池があり、ほとりには仏に水を供する「閼伽(あか)井」があり、法然はこの水を神と仏に供したという。

いつも鉄扉で閉ざされている法然水跡

 鎌倉時代の1212(建暦2)年に法然が死去。弟子の源智は法然が住んだ上賀茂神社・神宮寺を「知恩寺」とした。後醍醐天皇の命で、「知恩寺」の住職が宮中で7日7晩にわたって百万遍の念仏を称(とな)えたことから「百萬遍」の尊号をたまわったという。

法然水いわれ書き

 南北朝時代の1382(弘和2)年、相国寺建立に伴い、神宮寺は現在の知恩寺付近の一条通小川に移された。相国寺の創建で井戸は相国寺塔頭・松鷗軒(しょうおうけん)の所有となるが1872(明治5)年、松鷗軒が廃寺となって井桁だけが残された。(続く)(一照)

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