26京都・街の湧水、水神信仰

水神信仰

 科学、特に医療が未発達だった時代、病となれば厄払いや鬼門除け、占いやおまじないで穢(けが)れを払い、治癒を待つしかなかった。病は霊威のたたりとされた。身分や地位を問わず人々は祖先や自然の霊威を恐れた。心身の健康を維持するうえで信仰心が篤かった。
 祖霊は見た目が富士山のように三角錐(すい)形など姿、形の良い山や冬至、夏至、春分、秋分の二至二分の日の早朝に太陽が昇る山に上り、その山頂は天地の結界と信じられていた。信仰の山やうっそうと樹木が茂る自然には神々がいると信じ、斧(おの)や鉞(まさかり)などで樹木の伐採を禁じる斧鉞(ふえつ)の森、禁足の森として守られてきた。祖霊信仰と自然崇拝が一体となってきた。

祖霊信仰と自然崇拝

 禁足の掟(おきて)を破ると、流行病(はやりやまい)や天変地異の祟(たた)りがあると信じられてきた。疫病や流行病は霊水を飲むとたちまち治ると貴賤(きせん)の間で信じられてきた。霊魂のこもる森、山が育む水も霊魂そのものだった。
 山=森がまた果実や食肉をもたらすだけでなく、水も涵養することを古代人は学んできた。命をつなぐ水を養う山は神霊の宿る場だった。森は神奈備(かんなび)の山であり、山そのものが神である神体山だった。我が国の山岳信仰、水神信仰はこうして生まれた。
 ギリシャやアテネなど少雨の地で栄えた古代文明が滅びたのは、山の森を伐採し過ぎて飲料水の確保ができなくなったからというのが定説になっている。朝鮮半島から高温多雨で樹木が茂る日本に渡来した人々は、鉱物と同時に炭や薪の元になる木々を求めたとされている。

あちこちに神がいた

 祖霊信仰と自然崇拝の結果、あちこちに神々がいた。各家にもいろいろな神々がいた。八百万(やおよろず)の神々の中には、命をつなぐ大切な水の恵みをもたらす井戸神がいた。井戸も神が依る場所であり、水を得るたびに井戸神に感謝した。正月にはきちんとお神酒とお供えをあげて井戸水に感謝した。
   井戸水の水質を守るため、浅井戸にはコイを生かした。コイはエサを与えなくとも長生きした。鉄分が異常に多くなるなど水質が悪化するとコイが弱った。コイは人が飲むうえで水質を守るバロメーターだった。なぜかフナではなく、コイでなければいけなかった。
   コイは滝を登り龍になるという中国の故事「登竜門」にちなみ、名庭園にある池の滝づくりにこの故事にちなんで造られた。コイは龍と同じように水神の使いだった。だから、神聖な生き物として大事にした。上水道の普及で家々から井戸がなくなり、コイの姿も消え、井戸神も消滅した。
  太古からつい200~250年ほど前まで、地盤や地層、岩石など地学が発達する以前、人はなぜ、そこで水が湧き出すのか分からなかった。自然の神秘だった。だから、水が湧き出すのは神の恵みと受け止め、山と森,、井戸に水の神の存在を知った。

今も息づく水神信仰

 地下や天空に龍でもひそんでいると想像した。水をもたらす天のどこかに龍神や雷神が住んでいるのかと思ってきた。あらゆる生き物の命の存続に必要不可欠な水の恵みをもたらす水神=井戸神、龍や雷の水神信仰はこうして生まれた。科学が進歩した現在、こうした水神を祀(まつ)る家々はほとんどなくなってしまった。主に寺社でしか水神信仰が息づいていない。
 2011年3月、東日本大震災の大津波で、被災地の人々は水の確保に難儀した。「井戸があればー」という声をあちこちで聞いた。大地震で水脈が変わることもある。しかし、井戸があって水が出れば、どれだけ安心なのかということを被災地の住民は改めて思い知った。被災をきっかけに水の信仰が復活した。
 2023年3月28日に文化庁の一部が京都市に移転したから、文化財行政について一つ注文したい。文化財指定は建物や仏像、古文書、絵画に偏っていないかということだ。
 生活史や生活跡が軽視され過ぎていないかという点だ。京都市の古井戸で唯一、市の重要文化財指定は下鴨神社の閼伽井屋(あかい)だけ。井戸が古くても文化財には指定されないという。井戸の上屋、閼伽井屋、手水舎が由緒ある古い建造物でないと文化財には指定されないという。井戸そのものが古いだけでは文化財にならない。その考え方は誤りではないかと思う。
 神社が自慢の古井戸の水を売ろうとすると、神社庁が「水は共有財産だから売ってはいけないと注意する。水で儲けてはいけないと反対する」と聞いたことがある。こう言われた神社は水を入れるペットボトルを安く売って、水を欲しいという人に水を持ち帰らせている。寺社が自慢の霊水をくませているのは、あくまでも善意、厚意なのだ。
 貴賤を問わず、人の命をつないだ水、稲作など農作物に命を与える水を確保する古井戸、個人的には、特に古代から奈良、平安、鎌倉時代の古井戸は国宝級、国の重要文化財級だと思っている。

90名水「柳の水」・「黒染の水」

 水神信仰の典型は京の名水として復活した「柳の水」。別名「黒染の水」の井戸は西洞院通り沿いの「馬場染工業株式会社」の店舗内にあった。5代目の女性当主から紙コップを手渡されて、通路をはんで井戸そばにある蛇口から水をいただいた。柔らかく、口当たりが滑らかで、うまい水だった。

「柳の水」は本来、浅い井戸だった。井戸は深さ3㍍強で底に土がたまっているという。当主が井戸の蓋を開けてくれて中を見せていただいた

 当主が丁寧に説明してくれた。「この辺り、古くから柳水町と言って、かつて町内に3カ所の井戸があった。3カ所のうちどれが柳の水か不明だが、ここに1本だけ井戸が残っていた。柳の水として大切にされてきたから残ったと思います。それで柳の水と名付けました」。

店舗内にある「柳の水」の井戸
店舗内にある「柳の水」の水くみ場

 孟宗竹で編んだ井戸蓋(ふた)を開けて見せてくれた。井戸の中は円筒形だった。「深さ3㍍ぐらいのところに土がたまっています。一時、水が出なくなったので50年前に地下90㍍までボーリングしました。30㍍ぐらいの場所で水質が良く、きれいな水がわきだした。これが今の水。硬水と軟水のちょうど中間ぐらいの水質です」。ボーリングは水神信仰の復活だった。

馬場染工業がある場所の由緒書き

 江戸時代半ば、元禄時代に入る直前の1686(貞享3)年に安芸国(広島)浅野家に仕えた儒医で歴史家の黒川道裕がまとめた山城国(京都)の地誌「雍州(ようしゅう)府志」にも「柳の水」が記されている。「この水、いたって清冷なり。千利休、この水を沸かしてもっぱら茶の水とす」。
 茶人・利休が好んで茶の湯に用いた。直射日光の日よけのため柳を植えたことから「柳の水」と命名されたという。近くに焼失した旧本能寺がある。馬場染工業のある場所は織田信長が天下統一を成し遂げた安土桃山時代、信長の子ども・信雄(のぶかつ)の屋敷があった。
 平安時代末期には鳥羽天皇の皇子とされる崇徳(すとく)天皇が退位後の崇徳院の御所だった。その後、信雄の屋敷が建ち、信雄が転居した後は肥後国(熊本)加藤家の屋敷となった。江戸時代の貞享(じょうきょう)年間からは紀州(和歌山)の藩邸があった。

室町時代の茶人、村田珠光の名も刻まれて古蹟の石標

 同社ビルのわきにこの地にちなんだ人として室町時代の茶人、村田珠光らの名を刻んだ石標がある。石標に利休の名はなかったが伝承として残っていいるという。

信長も「柳の水」で茶会

 信長は京の都に入る上洛の際、信雄の屋敷に近い本能寺に宿泊。側近の1人・明智光秀の軍勢に急襲され、不慮の死をとげた。いわゆる「本能寺の変」=1582(天正10)年=だが、急襲される前日に信長は茶会を催した。推測だが、利休が好んだ「柳の水」で茶をもてなしたと思った。
 「水は出しっ放しです。水を止めると砂がたまって、水に混じってしまうので出しっ放しにしている」という。砂を除去するのにろ過装置が必要となり、装置の設置や交換でカネがかかる。地下水は水質検査など維持・管理が大変なのだ。

小さな石臼状の蹲踞がある同ビル入り口わきの水くみ場
「柳の水」案内板

 柳の水は店舗内の蛇口を利用できるのは同社の営業日、営業時間内だけ。しかし、同社ビル入り口わきに小さな蹲踞(つくばい)がある水くみ場は午前6時から午後9時まで自由に水をくんだり、飲んだりすることができる。店舗内の水は「近くの飲食店や近所の人たちがポリタンクやペットボトルを持ってくみに来ます」という。水くみの利用料は維持費として1㍑当たり20円。
 かつて西洞院通りに近い四条通りの南に西洞院川が流れ、水が湧き出していたという。西洞院川は中心市街地を東西に延びる四条通り一体の開発で暗渠(あんきょ)排水路となってしまった。

「柳の水」がある馬場染工業ビル

 馬場染工業は今年で創業153年を迎えた。純正の墨色・黒染で知られる有名な染物屋さん。「柳の水にわずかに鉄分が含まれている。この微妙な量の鉄分「黒染にピッタリ合っている」という。
 平安時代から湧き続ける「柳の水」。水神信仰があって現在があると思った。

91縁切りの水「鉄輪の井水」


釣瓶(つるべ)のある「鉄輪の井」の井戸

 水神信仰とたたり神がずっと受け継がれてきたのが「鉄輪(かなわ)の井」。
 井戸神様を祀る民間信仰が脈々と受け継がれている京都でも、代表的な存在が中心市街地にある「鉄輪(かなわ)の井」の井戸神様。古井戸のわきに台座の石に「鉄輪」と彫った小さな祠(ほこら)がある。

「鉄輪の井の井戸(右)隣にある小詞
「鉄輪の井」の由来書き

 鉄輪の井の祠近くに命婦(みょうぶ)稲荷の祠があった。

「鉄輪の井」と後から祀られた「命婦稲荷社」(左)

 鉄輪の井は室町時代初期、南北朝時代の能楽師、世阿弥の創作と伝わる謡曲「鉄輪の井」の舞台となった。謡曲に登場する「鉄輪の女」という女性の怨念、祟(たた)りを恐れて、井戸が大事に守られてきたかもしれない。
 重要なのは、命をつなぐ水を出す「鉄輪の井」を神とあがめ、祟りを恐れて小祠(しょうし)に祀り、永続して大切に守ってきたのは地元の住民たちだった。「鉄輪の井」だけでなく、西陣の岩上神社、観世水など住民の篤信で守られてきた井戸が京都には数多くある。だいたい稲荷神や地蔵、観音などを祀る小祠に併せて祀られていて、鉄輪の井のように単独で小祠を持ったのは珍しい。
 鉄輪(かなわ)の井戸の真向かいにある手水鉢にチョボチョボと水がしたたり落ちていた。ビル群林立の都市化と地下鉄工事の影響で、「鉄輪の井」は水が涸(か)れてしまったという。
 ここは私有地だった。私有地にあるので、一声あいさつするべきなのが筋だが、声掛けするのもなんとなく気が引けたので、申し訳ないと思いながら、場所を見つけたうれしさもあってアルミサッシの戸を開けて道路から黙って入ってしまった。

「鉄輪の井」の真向かいにある手水場

 水が涸(か)れているのに、チョボチョボ出ている水は何なのかと、つい備え付けの柄杓(ひしゃく)で受けて水を飲んだ。気のせいか、なめらかな水だった。水道水であっても、水が涸れても井筒と鉄輪の井の伝承が今に引き継がれて、地域住民によって保存されていることが重要なのだ。
 鉄輪とは火鉢や囲炉裏(いろり)に置いて鍋やヤカンをかける3本足の「五徳」のこと。かつては鉄輪と呼んだ。能の謡曲「鉄輪」の登場する「縁切り」で名高い古井戸。江戸時代、この井戸水を飲ますと相手との縁が切れるといわれ、有名だったという。
 謡曲「鉄輪」の大まかなあらすじは、夫が浮気相手の女を後妻にしたことを恨んだ女が貴船神社に丑(うし)の刻詣りをした。女は鉄輪を頭に乗せ、怒りの心をかきたてて鬼になった。かつての夫は悪夢に苦しみ、陰陽師(おんみょうじ)の安倍晴明の祈祷を受け、晴明の調伏(ちょうぶく)で女は息が絶えた。

「命婦稲荷社」

 「京都・伝説散歩」(昭和46年、京都新聞社刊)によると、家庭を持つ夫が外に別の女性を作った。嫉妬(しっと)深い妻は夫をのろい、貴船神社に丑(うし)の刻参りを続けたが、自宅の井戸のそばで息絶えた。
 付近の人は妻をふびんに思い、鉄輪で塚を築き、ねんごろに弔った。この井戸の水を飲むと縁が切れるとのうわさがたち、祈願者が遠くからも訪れた。地元の人たちは「これでは縁起が良くない」と、江戸時代後期の寛文8(1688)年、そばに伏見稲荷から勧請(かんじょう)した稲荷大明神を祀り、逆に縁結びの神とした。稲荷大明神の社は火災で焼け、昭和10(1935)年に夫婦和合、福徳円満の神として命婦稲荷社を設けたという。
 伝承によると、「命婦稲荷社」を再建した際、横にあった鉄輪井も霊泉として残すことになり、井戸枠を板から石に変えた。作業中、土の中から「鉄輪塚」の石碑が発掘されたため、「鉄輪社」の小祠を設けたという。

「鉄輪の井」入り口と鉄輪跡の石標

 「鉄輪の井」があるのは下京区鍛冶屋町の私有地。五条通りから堺町通りを北に200㍍ほど歩くと東西に走る松原通りとの交差点から50㍍ほど手前の左手に「鉄輪の井」の小さな石標がある。私有地なのでアルミサッシの引き戸がある狭い路地の入口から入る。路地に民家があるので、うっかりするとチラッと見える朱色の社を見落として通り過ぎてしまう。

92キンシ政宗堀野記念館「桃の井」

  酒づくりも水神信仰と穀霊信仰が色濃く反映されている。

記念館の中にある初代の井戸らしい古井戸

 キンシ正宗堀野記念館には井戸が2カ所あった。1つは創業当初の井戸で、明治時代に建て替えた旧宅兼蔵の中。原木を粗削りした太い梁の下にあった。滑車がついて、水をくみ上げる桶と仕込みのコメを洗う盥(たらい)が4個置いてあった。浅井戸で深さ5㍍。現在、この井戸から水は出ていないという。

毎時3000立方㍍と豊かな水量の「桃の井」
「桃の井」の井戸

 2つ目が中庭、文庫蔵の前にある「桃の井」。かつて酒の仕込み用に使われた水が今でも利用されている。井戸のわきに桃の古木があったことから「桃の井」と名付けられた。深さ15㍍のところで湧水の水脈にあたり、毎時3000立方㍍の水をポンプアップしているという。

「桃の井」いわれ書き

 水温は平均して16~18度。「伏見の水より、ここの水の方が軟らかい」という。「桃の井」わきに、安心して生水を飲めるという証明の「令和5年2月の水質分析結果報告書」が張り出してあった。柄杓(ひしゃく)がないので、両手の手びしゃくで飲んでみた。口当たりが良く、なめらかでやわらかい感じだった。

水質検査に合格の検査票

 同記念館はこの水を用いてこの場所で地ビールを製造している。ここの水をくめるのは年会費1万2000円を納めた会員だけ。「月1000円でくみ放題」と従業員に言われた。維持・管理費がかさむので、有料なのは致し方ないと思う。店の営業時間なら、いつでも好きなだけくめる。地域の料理店や喫茶店なども会員だという。

旧堀野家を利用したキンシ政宗堀野記念館

 同記念館があるのは中京区堺町通二条上ル。江戸時代後期初め1781(天明元)年に若狭(福井県)出身の初代松屋久兵衛(堀野家)が造り酒屋を創業した地で、旧宅と蔵があった。堀野家の醸造酒銘柄は「金鵄(きんし)政宗」と言う銘柄だった。これが「キンシ正宗」となった。

「キンシ政宗」発祥の地を記した由緒書き

 旧宅兼酒蔵は明治時代に建て替えられた。江戸時代末期の1864(元治元)年に起きた禁門の変による「どんどん焼け」を免れ、屋敷や酒造道具類はほぼ当時のまま保存されている。店舗従業員の話によると、第二次世界大戦中、京都市内で酒造りができなくなり、奈良と伏見で酒造りを続け、終戦で酒造りを伏見に一本化したという。
 堀野家の酒蔵は以来、伏見に移ったが、京都市街地で酒造りを続けている現役の酒蔵が2カ所ある。上京区北伊勢屋町にある「佐々木酒造」と左京区吉田河原町にある「松井酒造」。
 創業は佐々木酒造が1893(明治26)年で、秀吉が自ら住むところとして設けた聚楽第の南隅の上京区日暮通椹木町下ルに蔵を設けた。松井酒造は江戸時代の1726(享保11)年の創業で鴨川の左岸にある。江戸時代末期に河原町竹屋町に移転したが、大正時代に現在地に戻った。昭和時代末、京阪電車が三条から出町柳まで延伸する地下鉄化工事が行われ、一時的に水が出ないとか水質の変化があって、伏見での酒造りを余儀なくされた。
 秀吉が京の都に入って都守備の土塁「お土居」を設けて洛中洛外を位置付けてから、上京区と下京区が設けられ、洛中の定義づけについて「北は北大路通りから南は九条通り、東は東大通りから西は西大通り」の内側となった。だから、両酒蔵とも「洛中の酒蔵」と自負している。

「檜皮(ひわだ)」を板壁代わりにした旧堀野家の酒蔵

 室町時代に献上米が三条室町の米場に集積された。この米があって酒造りが盛んになった。室町時代、京の酒蔵は300余軒あったとされている。まだ白酒、濁り酒だったが、それだけ酒の需要はあった。
 ちなみに清酒は1600(慶長5)年ごろ、たまたま大阪・鴻池家で誕生した。使用人がカネを使いこんで追い出された腹いせに酒樽に灰を入れて逃げた。酒は澄んで、味がきれいでまろやかになったという。鴻池家の当主はこの知見から酒に灰を入れて清酒を作り上げたとされている。(つづく)(一照)


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