シン・仮面ライダー
『シン・仮面ライダー』(2023)
映画を観終わって、映画館を出る時に、私はなんだかそわそわしていた。
それは、「やばい、どうしよう。面白くなかったんだけど」という思いで映画館を出たからだ。
劇伴の使われ方は秀逸だったし、オープニングからの流れで、仮面ライダーと緑川博士と、緑川ルリ子で話をしている時の光の入れ方とか、とても綺麗だったし、何よりライダーキックをカメラがパーンして撮っていくときの、これ以上ない、ださ格好良さ。格好良い映像というのはいくらでもあるが、ださいけど格好良い、その絶妙な塩梅が何度でも繰り返し見たくなるライダーキックにしていた。おそらく、コンマ何秒の編集で、あの中毒性のある、何度も見たくなるライダーキックは撮られているに違いないと思った。あれ以上短くても印象に残らないし、あれ以上長く観てたらださいになってしまうギリギリのライダーキック。何でただの飛び蹴りで怪人がやられるのかということに、納得感を与えるライダーキックだった。
しかし、ストーリーが…おざなりすぎやしないか? ほとんど、その世界の架空の専門用語で展開されていくストーリーは、『シン・ゴジラ』の政府の会議とシステム運用によってストーリーを展開させていく手法のようではあったが、架空の専門用語なので、説得力がない。
そもそも、ほとんどエヴァンゲリオンの人類補完計画の焼き直しのようなストーリーで、緑川ルリ子は実写版の綾波レイに見えてくる始末。さらにあろうことか、仮面ライダーと森山未來が戦っている時に、人類を異空間のようなところに送って争いのない世界を作ろうとする森山未來に対して、仮面ライダーは「世界と繋がるために自分を変えるんだ」みたいなことを言いだす。
おいおいおい、ちょっと待ってくれ。世界を変えるのか(森山未來)、自分を変えることで世界の見方を変えるのか(仮面ライダー)論争というのは、1995年に終わっていたんじゃなかったっけ?
自分の意識を変えようとして修行していたオウム真理教が、世界を変えようと地下鉄サリン事件を起こしてしまった時に、この対立しているかに見える問いは、実は同じところで繋がっていると皆が気づいてしまったんじゃなかったっけ?
そもそも、同じ1995年にテレビシリーズから始まったエヴァンゲリオン自体が、その対立項からどう抜けるのか?というテーマも内包していて、ようやく『シン・エヴァンゲリオン』で答えを出したんじゃなかったっけ?
様々な不満点を抱えたまま家路について、早速ツィッターで検索してみた。私は、自分が面白かったと思える作品を観た時は検索しないが、面白くなかった作品を観た時には、何かを自分が見落としているのではないかと思って、焦って検索をしてしまう。
その結果わかったのは、この作品は評価が分かれる作品であるということと、それなりにオタクじゃないと、面白さがわからないということっぽかった。ストーリーについて言及している人は、ほとんどいなかったと言っても良い。
その時、ふと我に返って、「あれ?俺は特撮に何を期待しているんだ?」と思った。重厚な心震わすストーリーがあっても良いが、それよりも、映像が、音楽が格好良いかどうかの方が重要じゃないか?そういう意味では、オープニングのダンプとバイクのカーチェイス、ショッカーライダーに追われて、無慈悲に頭を押さえられてマシンガンを乱射されるシーン。めっちゃ、格好良かったよな。
仮面ライダーと言えば、Tverでやってた仮面ライダーの庵野秀明セレクションと、アマプラの『仮面ライダーアマゾンズ』と、『仮面ライダーブラックサン』でしか予習してないんだから、色々わからなくて仕方ないよな…とすっきりして床に就いたのだった。
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