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自我の解釈は葛藤と恐れを生む 二人のマリアの強さ

実はブログ記事は書いてはいますが投稿できずにいます‥
何を書いても結局自我を咎めている気がする(私の解釈です)
私は咎めたくて書いているのでは無く、どうしようもなくそうなってしまう自我に寄り添いたい‥
でも投影してやはり責めたい自我の自分に気づく‥
この繰り返しがほんとうに今しんどい

今の葛藤は
自我である部分を手放してしまうならこの世界の「普通」ではいられなくなる(と思っている)恐れ
でもイエスに対する信仰心に制限をかけたくない恐れ
きっと思い込みが激しく頭がおかしいくなっているように見えるかもしれません

奇跡講座を学び真の自分と繋がった人なら私と同じ葛藤を経験しているはずです
(いるならメッセージください‥)

今、遠藤周作さんの「聖書の中の女性たち」を読んでいるのですが、
やはりこの本の中でも私が惹かれるのは二人のマリアです
聖女マリアとマグダラのマリア
彼女たちからは心に動揺と恐れがあってもキリストに従っていく強い意志を感じます
この時代キリスト以外にキリストの真の役割や彼の見ている視点(罪のなさ)を理解できた人はいないでしょう
ということは二人のマリアも自我的な見方しかできなかったはずなのに自我に従わない強さを感じます

それはきっとイエスや神に対する強い信仰心からでしょう
キリストへの強い信仰心は命取りになる時代でありながらそれができる強さに感服してしまいます

今のこの時代だからこそ、迫害に遭うことも殉教することも無く、真のキリストの教えを理解するタイミングにきているからキリスト教信者でもない普通の人達にその視点(キリストのビジョン)が与えられているのだと思います
むしろ特別さは無く普通に社会の中で苦悩し闇に彷徨っている人こそ、その視点が与えられるのかもしれません

それでいても、自我的な自分を捨て去ることの強い抵抗と葛藤を覚える自分をダメな奴と裁きたい
赦しをしたいのに赦しを恐れている葛藤に対するすぐネガティブな反応に「私はそっちを選びたくない」と反発したい
自我には時代など関係ありません
ただいつも恐れています

テキストを読むとイエス(聖霊)はそんなことはもちろん承知だということが書かれています
私はテキストを積極的に読むということを何故が避けてきました
でも、ようやく読む必要を感じるようになっています
この強い葛藤と恐れがが必要だったのかもしれません

先日私の中に湧き上がってきた言葉が思い出されます

「今自分にできない事が起きている
今それが完璧なタイミングで起きている
それを赦すために起きている
人生は赦すために全てが起きている」

起きていることに自我的な解釈をして、できない自分責めも
視点を上げて見るなら、今完璧なタイミングで起きている全ては完璧な贖罪への道なのだと理解することができますね

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