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「バガヴァッド・ギーター」より読み解く奇跡講座

まず「バガヴァッド・ギーター」とは?

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『バガヴァッド・ギーター』は、700行 の韻文詩からなるヒンドゥー教の聖典のひとつである。ヒンドゥーの叙事詩『マハーバーラタ』第6巻にその一部として収められており、単純にギーターと省略されることもある。ギーターとはサンスクリットで詩を意味し、バガヴァンの詩、すなわち「神の詩」と訳すことができる。
『バガヴァッド・ギーター』はパーンダヴァ軍の王子アルジュナと、彼の導き手であり御者を務めているクリシュナとの間に織り成される二人の対話という形をとっている。兄弟、親族を二分したパーンダヴァ軍とカウラヴァ軍のダルマ・ユッダに直面したアルジュナは、クリシュナから「躊躇いを捨てクシャトリヤとしての義務を遂行し殺せ」と強く勧められる。このクリシュナの主張する戦士としての行動規範の中には、「解脱に対する様々な心構えと、それに至るための手段との間の対話」が織り込まれている。
ウィキペディアより

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神クリシュナと、王子アルジュナの対話形式で物語が紡がれています

神クリシュナが語る言葉に奇跡講座の「赦し」について理解の助けとなることが書かれています

信仰なしに供物をくべ、布施をし、苦行をし、行為をしても、それは「サットではない」と言われる。アルジュナよ、それは現世においても来世においても効果がない。(第一七章(二八))

バガヴァッド・ギーター/岩波書店

※「サット」とは「実在」「善」という意味や「讃えられる行為」について用いられると同じ章で書かれています

供物を捧げる場所は内なる神聖な心の祭壇のことと捉えると「赦し」についての理解として受け取れることができます

あなたが行うこと、食べるもの、供えるもの、与えるもの、苦行すること、それを私への捧げものとせよ。
かくてあなたは、善悪の果報をもたらす行為(業)の束縛から解放されるであろう。
放擲のヨーガに専心し、解脱して私に至るであろう。
(第9章・27-28)

バガヴァッド・ギーター/岩波書店

私が外側ですることは全て神の捧げ物にできるそうです
それによって「解脱して私に至る」とは神に至る=贖罪の完了という意味と捉えて間違いないですね

それには、初めの引用文に書かれている
「信仰心」を持って行うことの大切さを語られています

私は奇跡講座を学び始めた目的は
「私」を助ける為でした
「私」を苦しみから解放したい
「私」を幸せにしたい
「私」が悟りたい
「私」が目覚めたい
でした

この世界にうんざりし
今の自分を助けてあげたいという湧き上がる思いからこの道に入りました

でも「私」を何とかしたいでは
「私の為」に何かを得たい自我意識の中からは出られません

神を信じる信仰なしに形だけの行い(赦し)をしても現世でも来世でも効果は無いと言われています

そんな赦し(意味のない赦し)についてコースにはこう書かれています

「赦しは、訂正を伴わない限り、空虚なしぐさにすぎない。 それがなければ、本質的に、それは癒しをもたらすどころか、裁くものとなる」(T-2.Ⅴ.A.15)

奇跡講座上巻/中央アート出版社


神への信仰心だなんて仰々しいと思われるかもしれませんが
神への信仰心=自分自身への信仰心
ということです
だって私達は神(神の子)ですから

ただ日本人には信仰という言葉にあまり馴染みがなくて身構えてしまうのも分かります
私は、自分自身を大切にしたい思いや信じる思い、愛する気持ちといったものがその言葉になっただけだと思っています

バガヴァッド・ギーターは神からのメッセージを受け取る本として読みやすいです
奇跡講座ほど難解ではありません
ただ耳慣れないヨガ哲学の言葉が出てきますがそれでも一元論を語る神の言葉なので引き込まれます
とても興味深い話もあります

自我が作り出した幻想について神クリシュナは
万物は創造の時に既に迷妄に陥っていると説明されています

万物は神のプラクリティ(物質原理)に由来するもので

神は低次のプラクリティ(自我意識・物質的な性質)と高次のプラクリティ(生命・実在・精神的な面)の側面を持ち
自我の知覚は神の低次のプラクリティしか知覚できないしそれを信じてしまうことを無明や無知な状態と言います

そして低次と高次のプラクリティを「ヨーガ」しなさいと説かれています

ヨーガというサンスクリット語の言葉には「つなぐ」「調和」「統合する」という意味です

低次と高次のプラクリティをヨーガするとはまさに「赦し」を表す言葉と言えます

古来人間の元々の役割は神への祭祀の為でした
人間の行為は神への捧げ物という重要な役割を持っていましたが
文明が発達するに従って自我意識が肥大化しそんなことはすっかり忘れ去られてしまいました

今の私たちも神の化身という存在には変わりはありませんが自我という人間意識で生きている限り高次のプラクリティとの統合は簡単ではありません

クリシュナは
ありとあらゆる行為を絶対神(最高神)に捧げる祭祀として行うこと
行為の結果(果報)を顧みずひたすら行為を行うことを何度も何度も語ります

ただ自我意識でいる以上
行為に執着したりその結果を期待して行為に束縛されてしまうので

行為のヨーガ(調和と統合)
知識のヨーガ(調和と統合)
親愛のヨーガ(調和と統合)
の必要を説きました

親愛のヨーガにより
愛する神(自分)の為に祭祀として行為(赦し)したいという祈りの思いが神聖なものへと昇華する必要があります
親愛のヨーガ無くして行為のヨーガは無意味で無価値となってしまうからです

神聖な祈りの思いが内から湧き上がる助けとなる為に私達には知識が与えられています
それが「バガヴァッド・ギーター」や「奇跡講座」という書物やその他のたくさんの神からのメッセージが書いてあるスピリチュアル関連の本や、一元論の道となって私達の元に届けられています

信仰心を勧めているのではありません
それは誰かに言われて持てるものでもありません

赦しを個人的なものとするのか
赦しを大いなる神のためのものとするのか
その意図によって全てが違ってくるということをバガヴァッド・ギーターというインドの古い聖典により学ぶ機会となりました

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