世相を表している。という言葉が理解できるような歳になりました。

こんばんは。
本日も戦った皆々様お疲れ様です。

東京に来て丸4ヶ月になりました。早いものであっという間に1年が経ちそうです。
(その割には新しい出会いや新しい友達は増えていません。)

でも、街並みが全て新鮮なので、まだまだ行きたいところは沢山あり飽きは暫くこなさそうです。

先日東京に来て2回目のバスケに行きました。1回目はすーーーーごくレベルの高いチームで右足の親指に血豆ができたのでしばらく行きたくありません。先日行った2回目のバスケは例えるとするならば体育の授業のようなレベルでした。2023年NBAドラフト1位のビクターウェンバンヤマさながら無双できて楽しかったです。

そのウェンビーバスケを招待してくれたのが、高校の時の部活の後輩でした。高校時代には共に好きなAVを語り合い、話すこともできないのに各学年の女子をランク付けしたり、童貞を謳歌した仲で好きな後輩でした。

彼は東京に来て3年ほど経っておりましたが、そのウェンビーバスケの運営側の人間でした。バスケ前に体育館利用のルールや注意点をみんなの前で説明している時の彼は、標準語でした。

東京がそうさせたのか。と感じました。

ただ、昔の自分であればそんな彼を東京に染まったな、関西の心忘れたなと揶揄していたかもしれないですが東京に来た僕には分かります。

彼は東京で、東京人を演じているのだと。

そう思うと全ての人間に対しての嫌悪感が薄れました。みんな心の中では素の自分がいるのだけれど、見られている意識があることによって演じている。

有名人に街中で会った時、勇気を振り絞って声を掛けたが冷たくあしらわれてしまった時。テレビの中でその人が愛想良く元気良くロケしているのを見て更にがっかりした時。僕にもありました。

ただ、彼らも演じていると東京に来て分かりました。素の状態で人前に全員が出ていたらお金は発生しない。発注があるからそれに合わせた振る舞いをする。

これは有名人、一般人に関わらず全ての人が仕事、プライベート問わず、人間関係を円滑にする上で必要なことである。

本日、芥川賞受賞作品の発表があった。初の重度障害者の受賞である。

もちろん作品自体が素晴らしいことは前提の話ではあるが、芥川賞もある種演じている。

この多様性の時代、重度障害者であっても良い作品を創る。それを評価するのが芥川賞である。文学賞において最も知名度のある芥川賞が発注に応じないでどうする。

といったところだろうか。

みんな演じている。

あらした。

※あくまで個人の見解です。

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