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SS5

ああ、そうだった。今日一日まだお世話があるんだ。二輪の排気音で目が覚めた。
四方に伸びた髪のまま財布を捲ってカードを見る。ポイントで買えるな…
カッターシャツに着替えて髪をまとめる。
スーパーに寄り、奥様のお気に入りの無糖ヨーグルトを買った。
満員バスで一円を落とした方がいて、落ちましたよと声をかけた。その人は受け取ってありがとうと言ったけれども、一円はなぜか床の上に戻っていた。
そっと自分の財布を見たが何もとられてはいない。…??

「次は出羽町です、お降りの方はボタンを押してください 次、止まります」

宅まで15分。雑念を追い払いながら歩く。
合鍵を出してドアを開ける。
台所へ向かい、冷蔵庫からヨーグルト用のシャインマスカットを出して夏の手捻硝子器に盛り付ける。
盆にシルバーのスプーンと乗せてお部屋まで運ぶ。
ドアをノックする。返事がない。
もしやと思い、部屋に入る。嫌な動悸を感じながら、器を奥様のサイドテーブルに置いた。

「…おはようございます。吉村です。ヨーグルトをお持ちいたしました。召し上がられますか。」

「………………」

彼女は窓際で目を開けたまま微動だにしない。
心配になった。いけないとは思いつつ、そおっと鼻に手をかざした。

「まだ、生きとる」


しゃべった。
びっくりして持っていた盆を落としてしまった。
カンカラカラカンウワンウワンと盆が回る。

「大変失礼いたしました!!!」
あわあわしていたら上から声が降ってきた
「あんた、わたしがくたばっておればいいと思って手をかざしたんか」
「め、滅相もございません!お、お返事がございませんでしたので心配になって」
「ふん」にやりと笑う。
「…はは悪かった、夢を見ていてな。さっきこちら側に帰ってきた。すまなんだ。」
ほれ、シャキッとおし、と手を差し伸べてくれた。

彼女は時折、心臓に悪い遊びをなさる。

齢87にして、口は達者、お花、書道、料理もする、散歩も大好きな方だが、こんなに沢山ご趣味はあっても、たまに私をおどかしては遊んでいる。旦那様は既に鬼籍に入られた。ただ本当にお年だし、いつどうなるかわからない上、こういう「お遊び」は本当にやめてほしい。
どうやら今日はその日らしい。はあ。
生き血を吸われた。来年は米寿のお祝いなのに。

「ああ、マスカットか。納税したら送ってきたんやな。夏らしい綺麗な盛り付けや。あんやと」

バチーンとウインクを繰り出す。
ご本人はふふふふと笑ってまだ大ウケしている。
私の生気を吸って肌がツヤツヤだ。

「今日は、坊に御祝届けるさかいな。お重箱出してくれるか。5寸の小さいやつや。黒やのうて溜の小花ね。わたしも台所に立つから。あと熨斗と水引買ってきて。ああペンもスカでなかったわ。それから何か一品考えて。昨日お品書き考えていたら眠ってしまって献立が足りん 花に水はやったんか」

目覚めたら立板に水で、ヨーグルトをさっさと召し上がって一気に私に指示をだす。思いついたまま仰るので、頭の中で文具店、奥様の割烹着の準備、メニュー、スーパー、出がけに花の水遣り、地袋の優先順位をつける。

「お花とお重、文房具ですね。直ちに。」
「たのむ」

一気に言ったせいで気が緩んだのか、また彼方に行きかけていた。
まだ涼しいですからお散歩なされては如何ですか、と提案した。
失礼いたします、と食べ終わった器を回収しドアを閉めた。

9:00AM
クソ暑い。馬鹿言って奥様に涼しいなどと宣言してしまった。
御宅に勤めている手前クソなどと発したくはないが、なんじゃこの坂は。のけぞって背中がやられる。いくらアブゾーバー付きのソールだとはいえ、硬いコンクリートがじわじわと体力を奪っていく。今年38になるが、たった20分でこんなにも消耗するものだったか。17の体育の時はなんともなかったのに。トシがにくい。この暑さだ。印房の店はスキップしよう。

スーパーの自動ドアまで辿りついた。
ああ、人に優しくない、商品を守るためのクーラーが脳天に染みる。
まるくて素敵なしましまスイカがこっちへおいでと手招きするが、頑張って無視する。文房具コーナーで熨斗と毛筆ペンをカゴに入れ、冷蔵庫になかった牛蒡、人参、蒟蒻、玉子2パック、鶏肉、麩、食用花などを求めた。レシートよし。二度見して財布に入れる。

あの坂を戻る。リュックで正解だった。
宅のある町内を通り過ぎ、水引きを買って来た道を戻る。御宅に着いた。
ゼエハアいいながら花に水をやる。
割烹着…割烹着…
ぶつくさ唱えていたら後ろからぐいと引っ張られた。
「背中」
「おかゲホ…えりなさいませ」
「背中。私のことはどうでもいい。背中曲がりすぎや。顔拭きなさい」
和光のかわいいリスが刺繍されたタオルハンカチを惜しげもなく私のおでこに当てる。ふわふわや。思わず心の声が漏れる。
「お花の水…」
「充分や。時間ないさかい、先台所行っとる」
カッカッカと草履を擦って入って行かれた。
ハッとした。のんびり水やりしてる場合ではない。あわててホースを手繰って栓を締めた。
ばたばたと靴を脱いで寝室を横切り、和室へ向かう。地袋を探って、桐箱を引っ張り出して中身が変わりないかチェックする。よかった。大丈夫だ。

お重を洗っていたら、着替えを済ませた奥様がやってきた。
「おお それや。合うとる。頼んだ一品考えたか?」
「奥様割烹着あったんですね…」
メニュー。あんたちゃあんと洗濯していつものとこにかかっとったわ ぼけとるの〜私より若いのに 大丈夫か」
「…ああ、よかったです。ええと、治部煮は如何でしょうか」
「はあ……入っとる」
「えっ」
「だから……献立に入っとる」
「あのですね。洋風の治部煮なんです」
「あそう ほんで?」
「今年坊ちゃん15でしょう。食べ盛りですからいつもと違う味もいいかな、と。お肉たくさん買ったんです」
「ほうか ま、最下段やさかい、ほかの料理とはケンカせんわな。コンソメ味でもアルパチーノ味になってもアレは何でもよう食べるし構わんやろ 思うたようにしさっし」
「ありがとうございます。鶏面倒なので私が処理しますね。お野菜お願いしても宜しいでしょうか。」

ふん、いつものことや、と予め下処理しておいた人参を乱切りし始めた。どうやらご自身で治部煮を作りたかったらしい。少しむくれている。

黙々と作業しているうちに全体の3分の2ほど仕上がってきた。
お昼ごはんは余りを御相伴に預かった。
あとは盛り付けるだけだ。

トマトと枝豆の炊き込みご飯に、イタリアン治部煮、だし巻き卵、赤豆煮、インゲンのしぐれ煮、車海老の串焼き、甘鯛、紅白蒲鉾、栗の甘露煮、寒天菓子に果物…

坊ちゃんがうらやましい。一体誰がこんなに作ってくれるんだろ。ああ、残したら罰当たりだ。

盛り付け以降は奥様の仕事なので、お任せする。
手早く熨斗に御祝と書いて重にかけ、津田水引で締める。風呂敷に包んだそれを抱えて、ほいたら行ってくる吉村さんご苦労様、と日傘を差して出掛けられた。こちらも、坊、心してお食べよ。大人になったんやからね、と念じながら奥様をお見送りした。

台所を片付けて、ガスをチェックし、戸締りをする。玄関を閉めた鍵はポストに入れ、一礼して本多の御宅を後にした。今日がお勤めの最終日だった。

終わったんだと、寂しい気もしたが、存外5年は呆気なかった。彼女は来月からホームへゆく。あの黒瓦と杉皮塀の御宅にはご家族が住まわれる。
ぐいぐいと振り回されつつ、貴重なお時間を共有させて頂いたのはほんとうに幸せだった。

メールに坊ちゃんが若干嫌そうに料理を食べている写真が送られてきた。長い間あんやとね、おおきにとあった。何パターンか返信を考えたが、結局こちらこそありがとうございました。お気をつけてお帰りください、とだけ返した。

バスに乗ったら、まだ一円が落ちていて、あの人もいた。明日からいつもと変わらない異常さと共に生きて行かねばならない。泣こうが喚こうが、エンドはエンドだ。

携帯が鳴った。

人が心配しとる時はきちんと返しなさい -橙子

そういえば奥様の名前は知らなかった。
知らないうちにヘマをするのを、我慢して見守られていた事に今更ながら気がついた。
バス特有の匂いが鼻をついて、涙で、画面が滲んだ。

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