豆腐に鎹(かすがい)

古い商店街の一角に、小さな豆腐屋があった。店主のケンジは、祖父から引き継いだこの店を心から大切にしていた。彼の作る豆腐は評判で、近所の人々に愛されていた。しかし、商店街全体が少しずつ衰退し、店の客足も年々減ってきていた。

そんな中、ケンジには一つの悩みがあった。それは、息子のタクヤとの関係だった。タクヤは都会の大学に進学し、そのまま大手企業に就職して、今では都会で忙しい生活を送っていた。豆腐屋を継ぐつもりは全くなく、実家にもほとんど帰らない。

ある日、ケンジはタクヤに手紙を書いた。商店街の衰退と店の存続に不安を感じていることを正直に伝え、少しでも力を貸してほしいと頼んだ。タクヤはその手紙を読んで悩んだが、仕事の忙しさにかまけて、返事を先延ばしにしていた。

時が経ち、ケンジは息子からの返事を待ちながら、黙々と豆腐を作り続けていた。ある晩、店の前でふと立ち止まり、夜空を見上げた。父が築き上げたこの店をどうしても守りたいが、どうすることもできない自分に無力感を覚えた。

ある日、タクヤが突然帰郷した。ケンジは驚きと嬉しさで胸がいっぱいになったが、息子の顔には深い疲れが見て取れた。タクヤは静かに言った。「父さん、話があるんだ。」

タクヤは、都会での仕事のストレスから体調を崩し、一時的に休職することになったことを告げた。「だから、少しの間だけだけど、手伝わせてほしい」と言うタクヤに、ケンジは深く頷いた。

それからの日々、タクヤは父の豆腐作りを手伝いながら、二人の間の溝を少しずつ埋めていった。しかし、都会の生活に慣れたタクヤには、豆腐屋の仕事は簡単なものではなかった。豆腐を作る過程で何度も失敗し、父に迷惑をかけてしまった。

ある日、タクヤが失敗続きに落ち込んでいると、ケンジは優しく肩に手を置き、「豆腐に鎹(かすがい)」という言葉を思い出させた。「タクヤ、昔からこの言葉があるんだ。豆腐に鎹を打ち込んでも意味がないって。無理やり何かを変えようとしても、なかなかうまくいかない。でも、だからこそゆっくりと時間をかけて、お互いを理解していくことが大事なんだ。」

タクヤはその言葉を胸に刻み、焦らず少しずつ豆腐作りの技術を学んでいった。父の背中を見ながら、その技術と愛情を少しずつ理解していった。

数ヶ月が経ち、タクヤは再び都会に戻る日が来た。彼は父に感謝の言葉を述べ、「これからも時々手伝いに帰ってくるよ」と約束した。ケンジは微笑みながら息子を見送り、その背中にかける言葉は少なかったが、心の中で深い絆を感じていた。

ことわざから小説を執筆 #田記正規 #読み方

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