子供らしさと大人らしさって何だろう/小津安二郎監督「長屋紳士録」
noteを始めて3ケ月がたち、
この投稿でようやく20記事目です。
始めたときは「まずは100回の投稿だな」なんて浮かれたことを考えていましたが、100なんてまだ果てしないですね。
毎日は書けないけれど、「何かを書きたい」「何を書こうかな」と常に考える様にはなったこの3ケ月。それだけでも進歩かな。
ただ、そんな私の拙い記事を見てくださる方がいることがとても嬉しいし励みになります。ありがとうございます!
これからも大事に書いていこうと思います。
さて、
最近は、小津安二郎監督の「長屋紳士録」が面白くて何度も観なおしています。
公開されたのが1947年。
脚本は小津さんと池田忠雄さんの共作です。
1947年といえば日本は敗戦後の焼け野原時代。
一般庶民は映画どころではなかったんじゃないか?と思える時代ですが、そんな時に作られた映画とは思えない脚色ぶりがさすがです。
戦前や終戦の頃というと、えらく昔のことの様に思ってしまいますが、
これを観ると、モノの有るなしや物価の違いはあれど、考えていることや趣向などは、今となんら変わらないことが良くわかります。
初見の印象は、孤児がずいぶん酷い扱われ方をしていて、まるで厄介者。
しかし何回か観ていくうちに酷いのは言葉尻だけで、
今を生きる私たちより、ずっと子供への対応が大人らしいものにも観えてきます。
まだ"子どもファースト"なんていう造語もなかった時代ですが、
子供はめちゃくちゃ可愛いし、大人はちょっと怖いけどとても温かく描かれています。
小津監督はどんな意図で何を伝えたくてこの作品を作られたのか、
確かな真意は解りかねます。
しかし76年の時を経た今でも、心惹かれて鑑賞する人が後を絶たないということは、時代を先読みした何かがあると思えてならない。
とにかく観るほどに難解で、なおかつどんどん面白くなるスルメみたいな作品だと思えます。
(これは小津映画全般に言える)
時が流れ、古くなればなるほどスパイスが効いてくるというか、なんというか….。
とにかく、こういうところが小津監督の特異なセンスなのでしょうか。
迷子になって連れてこられた坊や役の青木放屁さん。
愛おしさとペーソスに溢れていてめちゃくちゃ良い。こういう感じの子役は私は観たことないような。
(思えば「坊や」ってしばらく聞かない呼び方だよね)
演技の上手さなのか地なのか解らないあたりが、究極のリアル感を醸し出しているのでしょう。
長屋のみんなから押し付けられ、仕方なく坊やを泊まらせることになったおたね(飯田蝶子さん)ですが。坊やとのかけあいが実に面白い。
飯田さんの怒った顔がマジで怖かったりもします。
湘南の海岸で置き去りにされそうになったり、
おねしょして叱られたり、しまいには干し柿泥棒の濡れ衣を着せられるはで、すっかり厄介者呼ばわりの坊や。
最初にこの映画を観たときは、ホントに観ていて痛いほどかわいそうになりました。孤児に対する扱いが酷すぎて、、、
しかしこの時代(終戦のどさくさの時代)こんなものだったのかなと一旦は腑に落としたのですが、何度か観ていくうちにそうじゃないことが解かってきます。
この飯田蝶子さんと吉川満子さんのやり取りの場面でも、
ちょっと興味深い会話が交わされるのも見どころです。
釘を拾ったり、たばこの吸い殻を拾う坊やを、
「近頃の子供はちゃっかりし過ぎて子供らしくないよ」という飯田さん。
自分たちの子供ころは、鼻水垂らして遊んでいたものだったと言うのですが、「鼻水で袖をパリパリにして遊んでいたもんだ」という話は、私も父親からもよく聞かされていました。
ちなみに私の父親は、ちょうど子供役の青木放屁さんと同年代だと思われます。
こういう事からも、日本人の行いや風習みたいなものは、ちょっとやそっとの時の流れでは、簡単に変わるものではないことが解かります。
私も、親も、そのまた親も、みんな同じことを言われて大人になった訳です。
「長屋紳士録」
大人らしさって何なのか。
いろいろと考えさせられながらも、ホッと心が温かくなる作品でした。
これこそが、今の日本人が観るべき映画なのかも知れませんね。
最後まで見てくださりありがとうございました。
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