今日も元気に無職をやった。

 小さい頃から優等生だった。先生の言うことを愚直に聴き、成績を伸ばすことに一生懸命だった。同級生にあまり興味はなかった。友達も、来るもの拒まず去るもの追わず形式を採用し、あまり頓着はしていなかった。でもいっちょ前に愛されたくはあった。大人の言うことばかり聞く子どもだったように思う。主体性はあまりなく、国語が大好きだった。作者の意図はいとも簡単に読めた。そういう子どもだった。だから、大学でつまずいた。主体的に研究していかなければならないことが苦痛だった。本来怠け癖があって、暇さえあればゴロゴロしていたい人間からすると、自分から資料を得、読み込んでいくという行為は苦行に等しかった。自分でも愚かだと思う。でも、本来の気質はどうすることもできなかった。社会に出てからも、主体的に動いていくことにネックがあった。言われたことしかやらず、ともすれば言われたことすらも満足にできないという単純な能力欠如によって、私は窮地に立たされた。そして今、療養中の無職という立場に落ち着いている。
 この立場になってやっと、あつらわれた競争に準じるという態度を改めることができるようになってきた。受動的に言われたことをやる、ということの恐ろしさも理解できるようになってきた。要するに、自分は何に満足するかということを探究し、そして実行せねばなければならないのだ。そうすることによって、外的動機づけから内的動機づけにチェンジでき、心の底から満足を得ることができるようになる。そのことに気づくのが早かったのか遅かったのか。いや、早い遅いはないのだ。各々然るべき時にそのことに思い至る。私は今日だった。そのことを記しておこうと思う。


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