【流鶯が花の名前を知る話】

※二次創作
※流鶯×都(流→都)




 昼前に窓を開けると、ぬるんだ空気と一緒に花の香りが部屋に入ってきた。なんとなく、どこかで嗅いだことのある香りだと思った。窓から首を出して辺りを見回してみるが、その出どころは見当たらない。見当たらないが、どこかで花が咲いているのだ。
 ロシアにもようやく、短い春がやってきた。


 外出用の服に着替え、誘われるように寮を出る。
 通りに出ると道路わきの街路樹がそれぞれに白や濃いピンクの花をつけていて、すっかり見慣れてしまった光景――幅の広い道路や、やけに低い位置にある信号機、馬鹿みたいにでかい石造りの建物――に彩りを添えていた。普段は寮の自室と、同じ敷地内にある学校のレッスンスタジオを行き来するだけで外出する用もないので、これほど外界が様変わりしているとは思いもよらなかった。あの香りを漂わせているのはいったいどの花だろう、なんという名なのだろう。そぞろ歩きしながら視線をさまよわせる。この花は? その花は? どんないきものなのだろう。
 ――こんなとき、都がいればきっとぜんぶ答えてくれるのに。
 かつて僕を魔女から救いだそうとしてくれた王子のようなお姫様の顔が浮かんだ。蔦の這うお化け屋敷のような洋館に僕が囚われていたとき、都がやってくると束の間外に出て庭遊びをすることもあった。魔女の庭に咲いた様々な野草や、ずいぶん昔に植えたまま手入れされていないのであろう花壇からはみ出した花の名を、都はなんでも教えてくれた。
「これはね、ツツジ。みつを吸うとあまいよ。ママにはおこられるからないしょね」
「ヨモギ、これは葉っぱをたたくといいにおいがするの。はいどうぞ」
 自分が暮らす家の庭に、これほどたくさんの遊び道具が隠れていたとは驚きだった。そして、ただ美しいと眺めていた花々の名を教えてもらうことで、その花を美しいと感じる感情ひとつひとつに名前をつけてもらったようだった。五代家に引き取られ、外に出るようになってからほんの1年ちょっと通った中学への通学路で見知った木や雑草を見つけるたび、「これは都に教えてもらったやつ」「これも都に教えてもらったやつ」と彼女を思い出した。たまに一緒に登下校できる日は、民家の庭に植わっている見たことのない植物の名前を教えてもらった。都が生川を辞めてからはたまにがほとんど毎日になった。「都はなんでも知ってるな」と言うと「普通に外出てたらこれくらい誰でも知ってるよ」と少し頬を紅潮させて手をひらひら翻した。「まあ僕は普通じゃないから」と仏頂面をしてみせると、「そういう意味じゃないって! ごめん!」と焦ったように更にぱたぱたと手を振った。僕の起伏に乏しい表情を正確に読みとれるのは都くらいのものだ。
 おばあ様は、バレエと関係のないことは全く教えてくれなかった。僕は自分の名前さえ正しく漢字で書くことができなかったほどだ。そのレベルの基礎的教養をすっ飛ばしているのだから、花の名前など教授してくれるわけがない。マティルダや、あの身勝手な母親にしたってあまり変わらないだろう。尋ねたところで、「そんなの咲いてたっけ?」と美しい唇を吊り上げて悪びれもせずに言うに違いない。その顔は想像に容易く、憎々しさに自然、歩調が早まった。
 あの頃、バレエ以外のことはぜんぶ都が教えてくれた。千鶴さんには怒られそうだが、僕は頑なにそう思っている。そして都がそばにいなくなった今、僕は花が咲いていても綺麗だなとぼんやり眺めることしかできない。
「(メッセージアプリで匂いも一緒に送れたらいいのに……)」
 〈この花の匂いはなに?〉と指先ひとつで送れたなら、僕は迷わず都に送信するだろう。音も写真も送れるのに、匂いは送れないのがわからない。それかもっと言うなら、僕は読んだことがないが、漫画の中では既に現代において開発されていたというくぐると好きなところへ行けるドア。都をここに呼び出してその体温に触れられれば、万事解決する。なのに。
 未発達なテクノロジーを呪いながらあてどもなく動かしていた両足を、僕はふと止めた。
 上を見上げると、1本の街路樹が、枝々からこぼれ落ちてきそうなほどみっしりと紫色の花をつけていた。それと同時に、濃密なかぐわしい香りが鼻っ面に降ってくる。あの香りだ。
 なるほど、これほどの芳香なら風に乗って香ってくるのも頷ける。きっと寮の近くにも同じものが植わっているのだ。
 それにしたってこの香りの強さなら、さっきのように、ここまで近づく前にもっと遠くからでも嗅ぎ分けられただろうに。思考に気を取られて注意力が散漫になっていたことに気づかされる。
 ポケットに入れていたスマートフォンで花の写真を撮る。そのまま都に送ろうとして、一瞬指が止まり、キャンセルボタンをタップした。四角い画面に切り取られた花の色彩は、目前の視界いっぱいに広がる実物のそれより何倍も色褪せて見える。
 上を向いたまま、香りとともに深く息を吸い込む。
 僕はこの国でなら息ができる。なのにどうして、僕らは今、はなればなれなのだろう。


 アカデミーへ戻り、ふらふらと女子寮の方向へと足を向ける。いつもの子に部屋に入れてもらい、我が物顔で彼女のベッドへ身を投げ出した。彼女は慣れた様子でマットレスの端に腰掛け、伏せた僕の髪をくしゃりと撫でた。
「珍しい。外に行ってきたの?」
「うん」
 くぐもった声で僕は気のない返事を返した。
「花の匂いがして……、とてもいい香りの、紫色の花の木を知ってる?」
 正しいほうのロシア語の発音で彼女に問いかける。
 おばあ様にロシア語と英語を習っていた頃は、おばあ様の発音が最も正しいのだと思い込んでいた。それがおばあ様のいない間テープで聞かされる音声教材の発音と少し異なることに気づいてはいたが、テープの発音が間違っていて、おばあ様の喋る言葉こそが本物なのだと信じていた。否、「テープのしゃべりかたはおばあ様のしゃべりかたとちょっとちがうね」などと子どもながら言いだせなかったのは、それがおばあ様の逆鱗に触れる、言及してはいけない領域だと幼心に勘づいていたからかもしれない。おばあ様の教える通りにさえしていれば、痛いことからはともかく逃げられる。結果、僕は妙な日本語訛りの入ったロシア語と英語、そしてときどき日本語を操る歪なトリリンガルの子どもに成長した。
 都が来るようになってから日本語は見違えて上達したが、不思議なことに他の言語もそれに比例して前より話すのが上手くなった。セミリンガル寄りのマルチリンガルの子どもにはままあることらしいと、そののち千鶴さんが教えてくれた。そもそも学校に通っておらず発語の機会が極端に少なかったあの環境では、言語能力というよりまずコミュニケーション能力の発達に不足があったのだろう(これは今でも尾を引いている自覚はあるが)。
 そしてあばあ様からはなれた僕は、恐る恐る少しづつ、本来正しいと思われるほうの発音を使いはじめた。千鶴さんの教室でグリゴリエフに指導してもらうようになってからそれは更に加速し、ワガノワ・プリを経てロシアへ来てからはおばあ様譲りの奇妙な訛りはすっかり抜け落ちていた。僕は、僕を縛る数ある魔女の呪いから、ひとつ解放された気分だった。これでもっと深く息が吸えるようになる。
 そして充分な酸素を得て気づく。僕がネイティブと同じ発音で英語やロシア語を話したって、きっとおばあ様はその違いを聞き分けることができなかっただろう。なんて馬鹿馬鹿しい。
「紫で、いい匂いのする……シリェーニかな。今の季節よく咲いていて、他の色もあるの。いい香りよね」
 彼女が細く長い首を捻って言う。
「シリェーニ……」
 知らない単語だ。でも、なんだ。彼女でも答えをくれるんじゃないか。おばあ様でも、マティルダでも、あの女でもなくたって。都でもなくたって。
 僕はベッドから身を起こして立ち上がると、何も言わずふらふらとドアに向かい、他の女子生徒に見つからないよう足音を消して部屋を出た。


 男子寮に戻ると廊下で海咲と出くわした。格好から察するに、スタジオのほうで軽い自主練をこなしてきたようだ。休日だというのに信じられない勤勉さだ。
「お、流鶯やん」
 まだ引ききらない額の汗をふわりとタオルで拭いながら声を掛けてくる。無視して自室へ向かおうかと思ったが、ついでなので立ち止まってやった。
「……シリェーニって、日本語でなんて言うか知ってるか……」
「なんやいきなり。シリェーニ? ロシア語やんな? 聞いたことあらへんけど、ちょお待っとき」
 海咲はそう言うと持っていたスマートフォンを小刻みにタップした。なにをどう操作したのか全くわからないが、知りたい情報は見つかったらしい。今度は指を上下にスクロールさせながら、
「シリェーニ……日本語やと、ライラックやって。日本では北海道とかによう咲いてるらしいで。ライラック言うたらあれやろ。リラの精の、リラ」
と読み上げて、すっとスマートフォンの画面を僕に差しだして見せた。そこには先ほど見たのと同じようにこぼれ落ちそうな花弁を抱えた木の枝の画像が映っていた。
「リラの精の……、それは」
 どうりで、懐かしい匂いがしたはずだ。


 その夜僕は、都にメッセージを送った。昼間に撮ったシリェーニ――ライラックの画像を添えて。
〈リラの精の、リラ〉
 画像を添えてというより、画像にほんの短いメッセージが添えられているといったほうが内容としては正しい。
 ピーテルと東京の時差は6時間。夜の11時に送れば日本では朝の5時だ。しかし都からの返信は思ったより早く来た。
〈リラ? 本物の? すごいね、ロシアでは咲いてるんだ! きれいだね!〉
〈いい匂いがした〉
〈香りがするの!? 知らなかった~。わたしも本物見てみたいなあ〉
 そこで僕はやり取りをとめて枕元にスマートフォンを放り出した。
 もう都は、なんでも教えてくれる僕だけの先生でも、僕を救いださんとする王子でも、僕がずっと守るべきお姫様でもなくなってしまった。自分自身のバレエと向きあうことを選んだただの女の子だ。
「(自分でロシアに来ないって言ったくせに、なんで『本物を見たい』なんて、そんなこと簡単に言えるんだ! ……知らなかったなんて、なんでそんなこと言うんだ)」
 どうして僕がこの画像を送ったのかなど、都はこれっぽっちも理解していない。腹立たしい思いで、仰向けになって両腕で顔を覆った。
 都が「すごい!」と瞳を輝かせて小さな手で拍手してくれるだけでよかった、ほかにはなにも要らなかったのに。僕は薄暗い部屋から出て、あいつと出会ってしまった。バレエをもっとやりたくなってしまった。そしてこの国で、自分の力だけで立つことができてしまった。変わってしまったのは、僕も同じだった。
 投げ出されたスマートフォンがピコンと鳴った。
〈リラの精って、なんかおばあ様を思い出すね……〉
 既読がついても僕の返信がないのを気にしたのかしていないのか、画面に明かりが灯り、都の追加メッセージが表示される。
「……」
 僕は枕に顔を半分埋めたまま、その画面を眺めた。
 僕と都、ふたりだけが共有できる思い出や感覚がある。それは互いが海も陸も越えた遠い距離にあっても、ふたりの根っこを結わえつけているものだ。都がバレエを愛し、僕が踊りつづける限り、それはきっとほどけない。
 魔女の呪いはまだ幾重にもかかっていて、たまにがんじがらめになるけれど、この根っこの結び目に手を触れれば僕のからだは自由になり、踊ることができる。
 そのまますうっと瞼が落ち、僕は眠りについた。

 都と踊る夢を見た。王子役と姫役がころころとふたりの間で互い違いに入れ替わりながら、笑いながら回っている夢だ。しあわせだ、ずっとおどっていたい、と僕は夢の中で思った。
 翌朝目が覚めて、波が音もなく引くように、夢で得た多幸感が引いていくのがわかった。ロシアの春の朝はまだ寒く、手足の先は冷たい。寝るときに握りしめていたはずのスマートフォンが床に転がっているのが見える。布団の中で丸まって、ぎゅっと手のひらと爪先を擦り合わせた。薄く吐いた息が掛け布団の中を暖める。
 この先、踊ることが楽しく感じても、心底嫌いだと感じても、僕はまだ当分踊りつづけるだろう。踊ることだけが、都と、世界と繋がっていられる唯一の方法だ。だから今日も明日もその次の日も、嫌々、レッスンのためスタジオに向かうのだ。時々胸の奥の結び目に手を当てて、その固さを確認しながら。
 しばらく布団の中でもぞもぞやっていたが起こしてくれる人もいないので、とうとう僕は観念して、のっそりとベッドから這い出した。


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