【中村先生とある女子生徒の話】

※二次創作、ただしオリキャラメイン
※notBL、not夢
※摂食障害表現あり



 便器に吐き出したものの量を確認して『流す』のボタンを押す。
 よかった。全部出せている。
 そもそもそれほどの量を食べなかったので、吐き戻すのも楽ちんだ。うっかり食べ過ぎたり消化の良くないものを食べると後がきついと学習してから、食べる量もより減らすことができた。その僅かな内容物であっても、全部出すと得られる達成感、満足感。消化吸収される前の、固形の状態を見ると安心する。
 個室から出て誰もいない手洗い場で口をゆすぐ。手を洗いながらじっと鏡を見る。
 少しは痩せただろうか。
 近頃は食べるとすぐ体全体に薄い脂肪の層がつく気がする。きっと第二次性徴期というやつだ。保健体育の教科書に書いてあった。『卵巣から女性ホルモンが分泌され、丸みを帯びた体つきになっていきます』――空になったはずの胃が再び疼いて反射的に口を抑えた。周りの人は私のことを細い細いと言うけれど、まだまだだ。もっと細い子なんてたくさんいるし、私は身長が低いぶん、より細くないと手足を長く見せられない。身長も低くてデブなんて最悪だ。今のレッスンのクラスには私より太ってる子たちもいるが、どうして平気な顔して踊っていられるんだろう。痩せることもできないなら踊らなければいいのに。
 タオルで口元をぬぐいトイレから出たところで、誰かとぶつかった。ふらついた足元では衝撃に耐えきれず、よろよろと2、3歩後ろに下がった。
「おっと、すまん。大丈夫か?」
 この人は、確か中村先生だ。男子のSSクラス担当の。私は男子でもSSクラスでもないから普段接点はないけれど。
「大丈夫です。すみませんでした。ぼうっとしてて」
 とっさに伸ばされたのであろう中村先生の手から距離を取りつつ、口元にタオルを当てたまま答える。
「……。そうか、よかった」
 先生の視線が一瞬で私の体をなぞった気がした。気持ち悪い。
「じゃあ私、クラスあるので。失礼します」
 早くこの場を去りたくて、一礼し、中村先生の横をすり抜けようとした。しかしそれより早く、ぱしり、と中村先生が私の腕を捕らえた。
「ちょっと手を見せてくれるか」
「……嫌です」
「見せなさい。……これ、吐きダコだろ」
 有無を言わさぬ力で右手を取られ、手の甲を先生に見せつけるような形をとらされる。
「先生に関係ないじゃないですか」
「ここまではっきりついてるってことは最近じゃないだろう。いつからだ?」
「だから関係ないじゃないですか! 私痩せなきゃいけないんで!」
 上目遣いでねめつけるような眼光から逃れるため、必死に手を振りほどこうとするがびくともしない。
「関係なくない。いいか、今は体を作る大事な時期だ。素となる栄養がなければ身長にしたって伸びるもんも伸びないし、何より体を壊す。踊りたければ吐くんじゃない」
「私の担任でもないのに勝手なこと言わないでください! 太ったら踊れたって意味がない!」
「……」
「先生だって無駄な筋肉つきすぎじゃないですか? それ、踊るための筋肉じゃないですよね? バレエのためじゃない肉なんか乗ってて恥ずかしくないんですか? 足だって短いのに、どうしてもっと細く長く見せる努力をしないんですか?」
「……」
「私は恥ずかしいです、この体が。もっと上手くなりたいし、綺麗に見せたい。そのためなら何だってします」
 中村先生をまっすぐ見据えたまま、感情の昂りとともにわずかに滲んだ生理的な涙を、握られているのとは反対の手の親指でぬぐう。私の言うことを黙って聞いていた先生が口を開いた。
「……確かに俺は無駄な外筋もつきやすいし、日本人体型で足も長くない。だが現役時代それで苦労したぶん、君に教えられることもある。いいから今は、まず吐くことをやめなさい」
 怒っているトーンではなかった。しかし強く、諭すような声音が、かえって私の心に重みをかけてくるようだった。もう私とは目を合わさず、先生は私の利き手のみっともない赤みを見つめていた。さっき吐いたばかりだからまだ少しひりひりしている。伏せられた先生の目は静かで、何を思っているのか読み取れなかった。気持ち悪い? 痛々しい? かわいそう? 愚か? それとも――?
 私はさっきとは別の気持ちで、もうこの場から消えてしまいたかった。
「……あの、ほんともうレッスン始まるんで。失礼します!」
 力が緩んで添えられているだけになっていた手を振りほどき、私は今度こそ中村先生の横を小走りですり抜けた。
「待ちなさい! 親御さんにご相談してもらうよう言うから名前を――」
 背後から声が聞こえたが、私は無視して歩調を更に早めた。私の名前すら知らないのに、あの人は一体何を教えてくれるというのか、何をしてくれるというのか。おさまりかけた怒りが、また腹の底でぷつぷつと沸き立つのを感じた。


 何事もなかったかのような顔をして、レッスンに参加する。ウォームアップが不十分だったかもしれない。少し体が鈍いような気がする。
 頭は働かない。近頃はいつもそうだ。踊っていると頭が空っぽで何も考えられなくなる。脳みそを置き去りにして、体だけが動いていく。
 わかっている。ブドウ糖とやらが足りていないのだ。体を動かすためのカロリーも足りていない。空の燃料の代わりになるべく、私の脂肪や筋肉が溶けていくのだ。
 ああ、もっと激しく踊りたい。そうすればいっそのこと肉だけじゃなく、骨も、皮膚も、内臓も、溶けていってくれたりしないだろうか。踊っているうちに溶けてなくなってしまうなんて、なんて理想的だろう。ずっと子どものままでいたかったのに。持ち主の意思に反してぶくぶくと勝手に膨張する体なんて要らない。こんな体は早く全部使い果たして、使い捨ててしまいたい。そうしたら神様、次はもっとバレエに望まれる体に生まれさせてください。
 心と体は空っぽのまま、私の手足だけは、まるで操り人形のように音楽に合わせて踊りつづけた。


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