【ブランコとオルガが出会う話:SIDE O】

※二次創作
※ブランコ×オルガのNL
※今後正史が出た場合削除予定
※N面→O面の時系列





 最初はいけすかない男だと思った。


「オルガ・クズネツォワよ」
「ニコラス・ブランコだ。よろしく」
 優男風の見た目で口元には軽薄そうな笑みを浮かべているが、値踏みするような、あるいは睨みつけるような圧のある目が気になった。少し前にここのプリンシパルであるイタリア人女性と破局したのだと他のABT団員から聞いている。
「(絶賛女性不信期って感じかしらね……それは構わないけれどこっちにまで女への八つ当たりを向けないでほしいわね)」
 仮にもこれから舞台の上で愛し合おうという相手だ。こちらもボリショイの名を背負って来ているぶん、目の肥えたニューヨークのお客様がたに下手なものは披露できない。せめて全日程をこなすまでは険悪になるのは避けたい。
「(メンタルのほうは大丈夫かしら? スランプなんかに陥ってないといいけど)」
 この見た目と雰囲気ならさぞモテて、女なんて選び放題だろう。実際、長年交際相手がいながらも女遊びが激しかったことまで同団員から併せて聞いている。そんな彼の悪癖も、ハートブレイク以降ぴたりと止んでいるという。こんな男でもやはり本命に逃げられれば落ち込むものなのだろうか。この男が誰かを本気で愛するときというのはどんなふうなのだろう。少し興味が湧いた。


 稽古が始まると、スランプ云々が勝手な杞憂であったことがわかった。彼のテクニックはいつも通り冴えわたっていたし、これまでの彼のイメージとは少し違うのではと思っていた2幕のアルブレヒトもニコラスは非常にアカデミックに表現してみせて、周囲の人間を驚かせた。現在上演されるバレエ演目の中では最古の部類である『ジゼル』、その時代の空気感を纏ったニコラスの表現は、当時の風俗画や歴史画を観るような気持ちにさせた。その上、役に入り込んだらしい彼は2幕ラスト部分の練習で涙を零して私の手を濡らした。
「やだ、泣いてるの?」
「すまん、拭いてくれ」
 彼は自分の目元を改める前に、自らのタオルを手渡そうとしてきた。汗と目元をシャツの肩口でまとめて乱暴に拭う彼を見て、私も
「大丈夫よ、これくらい」
とレオタードで手の甲を拭いた。そうしているうちにディレクターの指導が始まったので、集中して耳を傾ける。早口の彼の言葉は、英語が母国語ではない私にとってまだリスニング能力がついていかない瞬間があるので、真剣に聞かないと指示を取りこぼしてしまうのだ。
 その後、指摘された部分を直しながら何度か軽く通して、その日の稽古はお開きとなった。時差もあって空腹だったがニューヨークに不案内なため、壁際で帰り支度をしているニコラスに声をかけ、日本料理を食べに連れていってもらった。彼の行きつけらしいその店のテンプラはとてもおいしく、この食事で多少は仲も深められたと思っていた私は、彼の悪態ともとれる唐突な質問に思わず笑ってしまった。どうやらロシアとアメリカのコミュニケーションにおける文化的相違によって、行き違いが起こっていたらしい。国際コンクールに出場する必要がなかったためろくに国外へ出たこともなく、生徒も教師もロシア人だらけのスクールでバレエ漬けの毎日を送っていた私にとって、自国の習慣というのはなかなか自覚しづらく、また抜けづらい。プリンシパルになって世界を飛びまわるようになり、少しずつ他国の習慣も理解できるようになってきたが、まだ色々と苦労が多いところだ。気を付けないといけない。
 誤解、というほどでもないが小さなわだかまりが解消したらしいニコラスは、酔いも手伝って自分のこともよく話してくれた。故郷アルゼンチンのこと、彼をABTへと繋げてくれた大切なパトロンのこと、まだ10代半ばだった少年が単身アメリカへ渡ってきてからのこと――。我々は舞台上でいいパートナーシップを築けそうだった。


 そして迎えた本番で、私は星が爆ぜるのを見た。
「(何……!? ゲネと全然違う……!)」
 ――ニコラスのことは、実は以前から知っていた。16歳でABTに入団した際、熱心なバレエファンある友人が彼の出演した公演のビデオを貸してくれた。その高い身体能力と音楽性に、「きっと将来トップスターになるよ」という言葉を添えて。
 そのビデオは当然端役での出演であったが、一見した感想は「テクニックが強い」。テクニックがずば抜けて秀でたダンサーというのは実はキャラクテールに多く、彼もダンスール・ノーブルではなくそちら側のダンサーの道へと進むのかと思った。王子役には立っているだけで見て取れるノーブルネスが必要だが、駒のように回って弾ける画面上の少年がそれを持っているとは思わなかったからだ。しかし入団後、少年から青年へと成長するとともに彼はみるみるエレガントさを身につけ、友人の予言通り、弱冠20歳で名門ABTのプリンシパルへと昇格した。今考えるときっと、彼の元交際相手のプリマの功績が大きいのであろう。今回ABTにゲストダンサーとして呼ばれたとき、いよいよあの少年の踊りが生で観られるのね、と内心少し楽しみだったのだ。
 結果として、私は本番中の舞台上で恐ろしい強度のエネルギーを喰らうこととなった。
「(まるで堰き止めていた血が一気に巡っていくみたい……!)」
 思わずジゼルとしての自分を見失いそうになる。引きずられる、見入ってしまう、中てられてしまう。物語の最たる人物はジゼル――舞台の中心は私で、いかに王子役であってもPDDではバレリーナのサポート役であるべきなのに、彼が一足で高く跳び上がると、その瞬間に彼が舞台の中心、どころか宇宙の中心のようになってしまう。観客の注目も思わず彼に移ってしまうのがわかる。私はそのブラックホールに飲み込まれないよう、なんとか同じ強度のエネルギーでもって返そうとした。
「なんで……っ、最初から! 練習でっ……! やらないのよ……っ!」
 舞台袖に捌けた瞬間、整わない呼吸のままニコラスに食ってかかる。
「本番ではっ……、120%、狙うだろっ」
 ニコラスもはあはあと肩で息をしながらにやりと笑ってこっちを見た。
「ジゼルより目立つっ、アルブレヒトなんてっ! 聞いたことないわよっっ」
「あんたのせいだよ」
「……っは、」
「ほら、先に出るからな」
 絶句する私を残して、出番の彼は先に舞台へと戻っていった。それを呆然と眺めながら私は思った。やはり、いけすかない男だ。


 数日間の公演を終え、なんとか楽日を迎えた。舞台上で万雷の拍手を浴びた後、そのまま写真撮影へと移った。ちらりと横目で隣に立つニコラスを盗み見る。疲弊してはいるが、つらくはなさそうだ。
「(よかった……)」
 ニコラスのアルブレヒトは本当に毎回が全力で、ウィリやミルタに踊らされている体は、跳び上がった瞬間に四肢がバラバラになって落ちてくるんじゃないかと思うほど、”無理やり支配された体”だった。あんな踊り方をしていてはきっといつか大きな怪我をする。どうか健康で、いつまでも舞台上であのビッグバンを起こし続けてほしい。私はもはや、彼の行くすえを心配するお節介なただのいちファンだった。
「? なんだ?」
 私の視線に気づいたニコラスがこちらに流し目を寄越す。舞台メイクのままなので、僅かな視線の動きだけでも目力がある。
「いえ、なんでもないわ。……ねえ、連絡先交換しない?」
 カメラマンに聞こえないよう声を潜めた私の提案に一瞬驚いたような顔をした彼は、例の軽薄そうな笑みを浮かべて、「いいぜ、後でな」と言った。そしてカメラ目線はキープしつつ私の肩に手を回してきたので、私は撮影用スマイルを保ったまま、静かにその手をはたき落とした。
 全く、いけすかない男だ。


<引用・参考文献>
佐々木 涼子・瀬戸 秀美(1996)『これだけは見ておきたいバレエ』新潮社

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