【引退する中村先輩と鷲尾後輩の話】

※二次創作
※not夢、notBL


「中村さんっ、聞きましたっ。引退されるって」
 自主練後、着替えを終えた中村が薄暗くなったロビーを通ると、彼を待ち構えていた鷲尾が勢いづいて立ち上がった。暗がりから突如出現した長身痩躯の男にさして驚いた様子もなく、中村は頭を掻いた。
「あー聞いたか」
「聞きましたよっ。何でですか! ようやく腰だって治って、中村さんまだまだ踊れるのに」
「まあなんだ……座れよ」
 ずいずいと距離を詰めてくる鷲尾を手で制し、彼の座っていた長椅子に腰掛ける。バッグからペットボトルを取り出し、ひとくち口に含んだ。鷲尾にも何か飲むものでも、と思ったが、あいにく近場に自販機はなかったので放っておくことにした。当の鷲尾はおとなしく指示に従い、何も言わず椅子に座りなおして中村を見つめていた。何も言わないが、『さあ説明してくれっっ』という圧を背中にしょっている。物理的な声もでかいが、心の声もたいがいうるさい男である。
「まー……あれだよ。ちょうどいい頃合いってやつだよ。ダンサーとしての限界とかさ」
「中村さんはもっといけますよっ! あと少しやればプリンシパルだってっ」
「あーそれはな、やっぱり無理そうだ」
 「この前、暗に綾子さんにそう言われたよ」と手元のペットボトルに視線を落とす。鷲尾も倣うように中村の手元を見た。
 プリンシパルはバレエ団の顔だ。その名前によって客を呼び込まなければならない。「このダンサーが踊るから観に行こう」、ファンにそう思わせられなければ公演は興行として成功しない。そういったいわばカリスマ性がなければ、いくら技術が一流でもプリンシパル足りえないのだ。そして歯噛みするほど悔しいことに、それは技術と違って鍛錬を積み重ねたからといって必ず手に入るものではない。中村の名前が筆頭に印字されたポスターで、各日2000枚を超えるチケットを捌けるか。非常にシビアで、しかし単純明快な判断基準だった。
「ほら俺、前から教えのほうもやってるだろ? やっぱり自分も現役だと余裕なくて生徒を見きれないこともあるしな。もう指導一本にしようと思うんだよ」
「……」
「綾子さんもそっちのほうは向いてるって言ってくれたよ」
 華がないブサイクだと散々言われて育ったぶん、足りない部分は技術でカバーしようと人一倍テクニックだけは磨いてきた。基礎は常に大切に、そこから派生する技の数々において、自分が最も美しく見える体の動かし方の研究。肉体的な資質にも大して恵まれなかったゆえに、気づけばいつの間にか積みあがっていた自分なりのノウハウ。最初からできる人間には「なんでできないの?」で終わってしまうことが、中村には教えられる。どこを修正し、どのように動けばよりよくなるか、同じ躓きを経てきた中村にはよく見えた。思えばまだ怪我をするよりも以前、団で上を目指してバリバリ踊っている最中に付属スクールの生徒への指導を勧めてきてくれたのも綾子だった。
「何でもお見通しだな、あのひとは」
 苦笑しながら顔を上げると、鷲尾は当の中村よりよっぽど悔しさの滲んだ顔で唇を噛みしめていた。
「俺はっっ中村さんの踊り好きですっ!」
「はっは、ありがとな」
 やっぱりあとで何かおごってやろうと思いつつ、中村は背もたれに体を預けて息を吐いた。天井を仰ぎ見る。
「やっぱさあ、小さいころから、プロになってからも、ダンサーなんてみんなプリンシパル目指してやってるわけだろ。で、その数十年来の目標がさあ、やっぱり達成できそうにありませんって突きつけられたときにさ、じゃあ今更他に何すればいいんだよって思ったよ。でも生徒と真剣に向き合うようになって、ああこういうバレエとの関わり方もあるんだって気づいた。今までは自分のために踊るバレエだったけど、生徒のためにバレエやるのも楽しいもんだよ。それに自分の踊りを高める努力も生徒の踊りを高める努力も、どっちも結局同じ、バレエへの捧げもんなんだよ」
 舞台を降りてなお、恐らくは一生、自分の人生はバレエの神様への供物のままだろう。一瞬だけ目を閉じ、そう思った。中村は少し気恥ずかしくなり、首を戻し鷲尾を見遣った。
「俺は、中村さんの踊り好きですけどっ、でも正直、教師も向いてると思いますっ……」
 鷲尾は未だに唇を軽く噛みしめたまま、膝の上に置いたこぶしもギュッと握られている。
「でも、中村さんがプリンシパルになれないなら俺なんて……っ」
 生川はるかバレエ団のダンサーの定年は48歳年度末だ。もちろんその年齢までダンサーとして舞台に立てる人間は稀で、それこそ人を惹きつける力のある”どんな役であれ舞台に必要とされる人間“でなければ辿り着けない。20代のうちは体も動き、昇格試験も下の階級ほど必要人数の母数が多いためパスしやすい。30代に入って上を目指せば目指すほど各階級の人数も少ないため、より狭き門となる。キャリアとしても頭打ちとなり、体力面のことも考え、その多くが引退を視野に入れ始める。まもなく20代を終えようとしている鷲尾の階級はソリストで、今後このままプロとしてやっていってどうなるのか、悩む時期ではあるだろう。
「大丈夫だよ。お前はもっと上手くなる」
「本当ですか!」
「お前、俺と違って顔はいいんだしな。……そうだな、ひょろひょろだった昔よりは多少線も太くなったが、もう少し筋肉つけてみたらどうだ? リフトも安定するぞ」
「はいっ!」
「もちろん今もそりゃ上手いんだけどな、でも、もっと良くなるよ」
 握ったこぶしを振り上げ、なにか決意を新たにしているらしい鷲尾を横目に、「俺のそーゆー見る目あるとこも、綾子さん買ってくれてるんだぜ?」と中村は冗談めかしてにやりと笑った。


『明日からそっち参加する村尾潤平、どうにかよろしく頼む』
 今年で第6回目となる子どもバレエの初日、早朝というよりまだ深夜という時間帯に目を覚ました鷲尾は前夜に中村からメッセージが来ていたのに気づいた。読んでみるとなにやら見込みのある生徒が欠員だった司会役として急遽参加するとのことらしいが、妙に焦った雰囲気が伝わってくる内容だった。
「まーよくわからんが恩には報いないとな!」
 中村が引退した翌年の夏、生川はるかバレエ団によるボランティア公演、子どもバレエなるイベントが始まった。第1回から出演者として指名されている鷲尾は既に座長とも言えるまとめ役を担っている。やってみるとそれは天職かと思えるほどやりがいがあって面白く、もちろん日々の仕事として団の通常公演へ出ることも楽しいが、もはや鷲尾が生川に所属するモチベーションはプリンシパルを目指すこととは違うところにあった。そして気がつけば35歳となった鷲尾は、中村が引退した歳を超えていた。『お前はもっとよくなる』という中村の一言を信じる彼に、引退する気はまだない。中村が子どもたちの才能の芽を育て教えるように、子どもバレエを通じ子どもたちにバレエの種を蒔くことが彼にとってのバレエの神様への奉仕なのだった。
「さーっ今年も頑張るぞー!!」
 カーテンを開け、まだ日が昇らない夏の空にこぶしを振り上げて、長身巨躯の男が大きく伸びをした。



中村先生「確かに筋肉つければとは言ったがあそこまでつけろとは言ってない」

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