【とある日の文芸部部室の話】

※二次創作
※中村先生夢(夢主の名前の登場なし)
※【中村少年が嘘をつく話】番外編


「あ、今日は国語なんだ」
 俺が学生かばんから取り出した教科書を見て、先輩がこころなしか嬉しそうに言った。
「古文ですね。明日授業で現代語訳あたりそうなんで、予習です」
「古文楽しいよねえ。漢文もだけど。何百年も昔の文章読んで『ああ~わかるわかる~~』って現代人の私が共感できるのって、なんでか毎回感動しちゃう。古典ってすごいよね」
 うっとりした表情で遥かなる時空に思いを馳せているらしい先輩を横目に、俺はノートを開く。
「あー、そうですよね」
「あれ、あんまり? 国語得意じゃない?」
 ”今”に舞いもどった先輩がきょとんとした顔で問う。
 とりあえず明日の授業範囲の本文を、書きこみができる余白を数行空けつつノートに書きうつしていく。
「いや得意じゃないわけではないんですけど……歴史とかのほうが点は取れるかもしれませんね」
「あーそっちね」
「国語も好きですよ」
「好きと得意は違ったりするしね」
 先輩は勝手に納得したようで、うんうんと腕組みして頷いたあとは手元の本の活字を追うことに再び集中しはじめた。今日は何の本を読んでいるのだろうか。こっちが一段落したら訊いてみようと思いつつ、俺もペンを走らせるスピードを上げた。

 本文の書きうつしが終わり、未知の古語単語をピックアップして辞書で意味を調べおえたあと、ふと顔を上げると、先輩も本から顔を上げて窓の外を見ていた。
 今日は晴天と曇天の中間くらい、雲はあるが曇りというほどでもない程度の晴れだった。風はなく過ごしやすい気候だ。
 視線を感じたのか、こちらを振りかえった先輩が俺も顔を上げていることに気づく。口を開いたかと思うと、いつもの柔らかな口調で
「中村くんは授業でやったなかで好きな和歌ってあった?」
とやや予想外な質問を投げかけてきた。
「好きな和歌……ですか……」
 こぶしの代わりに、握っていたペンをつい顎に当てた。上を向き、虚空に視線を泳がせて思考を巡らせるが、ぱっとは思いつかない。
「(そもそも授業でやった和歌ってどんなのがあったっけか)」
 帰宅後にレッスンで父にしごかれ、くたくたになって寝ると、次の日にはもうなにも覚えていない。俺の日常である。
「別にないか」
 先輩がさして気に留めていないように視線を本に戻そうとしたので、俺は必死に頭を回転させ、埋もれた記憶のなかにきらりと光るなにかを発見した。
「あ。ありました」
「お」
 前のめりになりかかっていた上体を、先輩が再び起こす。
「白玉か何ぞと人の問ひしとき、露と……露と、ええと」
「露と答へて消えなましものを――だっけ」
 下の句が出ず眉間に皺を寄せる俺に、先輩はあまり間をあけずに応えた。
「伊勢物語だよね。芥川の段」
「よく覚えてますね」
 感心した俺のまなざしを遮るがごとく、先輩は「いや私もやったし」と照れたように手をひらひらと翻した。いや俺のほうが習って日が浅いはずなんですけど、という突っ込みは情けないので腹に納めておく。
「私もあれ印象に残ってるな。でも好きというかむしろ……」
「嫌いでした?」
「嫌いっていうか、もやもやしたというか……。恋人を喪って『あのときああしておけば』、『2人で消えてしまえばよかった』っていう後悔の歌でしょ? なんというか……男の人っぽいなあって思ったかな」
「ああ……そう言われると何も言えませんね……」
 苦笑する先輩に俺も苦笑を返すしかない。
「別に男のくせに不甲斐ないとかそういうんじゃなくて、でも女の人だったらあの歌は詠まなかったんじゃないかと思うなあ。だから男の子の中村くんが好きっていうのはむしろ納得かも」
 うんうんと頷く彼女は、またなにか勝手に得心したらしい。
「バレエに出てくる王子役も割とああいう感じのが多いので、共感度合いが高かったのかもしれませんね」
 自分が芥川の男と同類であると納得されたくなかった、というわけではないが、ひとつ思いあたった理由を挙げる。
「ジゼルのアルブレヒトとかはまさにって感じですね。あとは白鳥とかバヤデとかも、ってわからないですよね。すみません」
 指を3本折って数えたところでぱっと先輩を見遣ると、ふむふむと更に納得度を深めているようだった。
「バレエって結構だめな男が多いんですよ」
「だとしてもそれが長い間たくさんの人に好まれてるんでしょう」
 申し開きのように折っていた指を開いて両手をかざす俺に、先輩は興味深げに微笑みかけた。
「まあ、そうですね……」
 手を胸の前にかざしたまま肩をすくめると、「やっぱりクラシックなものってすごい……」と先輩の思考はまた遥かな時空を駆けていた。
「先輩はなにか好きな和歌ってあるんですか?」
 彼女の意識を引きもどすべく、今度は俺が同じ問いを投げかえす。
「ええっ、いっぱいあるよ」
 不意を突かれた様子で彼女は一瞬目を瞠ったが、すぐに候補を考えだした。
「万葉集は素朴なものが多くて好きだなあ。でも古今和歌集も繊細で好き。さっきの伊勢物語とかはストーリーとセットだから和歌の良さが倍増するよね。ああ、でも日記のなかで出てくるのも実感がこもっててリアリティさが胸に来るし」
 ずらずらとひとりごちながら先輩も指を折っていたが、やがてその手のひらごと腕を投げだして
「無理。選べない」
と回答を放棄した。
「じゃあ好きな和歌じゃなくて、最近やったやつで頭に残ってるのはありますか。さっきの芥川みたいに良い印象じゃなくても」
 既に諦め顔の先輩に俺は助け舟を出してみる。
 俺も好きなバレエのバリエーションを選べを言われたらかなり迷うもんな。得意かどうかは別問題として。
 先輩は「うーん」と唸っていたが、しばらくすると伏し目を薄く開いて、
「――散る花もまた来む春は見もやせむやがて別れし人ぞ恋しき」
とぼそりと言った。
「なんですか?」
 音はぎりぎり聞きとれた気がするが、一発で歌の意味がわかるわけもなく、俺は聞きかえした。
「散っていく花はまた次の春見られるけど、いなくなってしまった人とはもう会えないって歌。更級日記。知ってる?」
「いや、知らないです」
「まだやってないとこだもんね。日記だから一応実録ってことなんだけど、物語読むのが大好きで神頼みまでする作者が、乳母が亡くなって物語すら読む気がなくなったときの歌だって」
「散る花の?」
「散る花も。また来む春は見もやせむやがて別れし人ぞ恋しき」
 先ほどよりもよどみなく堂々とした発声で言ったあと、
「ああうん……って、なんかこう、印象に残ってるんだよね」
と先輩はまた誰に言うでもないような控えめな声で言った。
「どっちも喪失の歌ですね」
「そうだね。あと和歌って恋愛の歌ばっかりだよね」
「それはバレエも同じです」
「愛も喪失も永遠のテーマだね」
 ふたりで笑いあったあと、俺は再度ノートと向きあった。
 先輩はなにかのスイッチが入ったのか、俺が予習に戻ったあとも細々とおしゃべりを続けた。更級日記の他の段では乳母が亡くなってしばらく経った日、夜更かしして物語を読んでいると猫がやってくる話が心和んでとてもいいだとか、諸説あるけれども”花”という語は古今和歌集までは梅を指し、新古今和歌集からは桜を指すらしいので先ほどの和歌で散っているのは桜のはずだとか、そういった古文豆知識を片耳で聞きながしながら、俺は参考書と睨みあって古典文法を読み解いた。

 進みはいつもより若干遅かったもののなんとかやりたかった分の課題を終え、日が暮れた帰路を歩いている途中、俺は今日先輩がどんな本を読んでいたのか訊きそびれたことをようやく思いだした。
「(明日か明後日、それか明々後日、次に部室行ったときにまだ読んでたら訊いてみよう)」
 そう思ったが、帰って、体がよじれるほど踊らされて寝たらもう忘れているのが俺の日常だ。
 俺は結局最後まで、あのとき先輩が何を読んでいたのかは知ることができなかった。

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