【ブランコとオルガが出会う話:SIDE N】

※二次創作
※ブランコ×オルガのNL
※今後正史が出た場合削除予定
※N面→O面の時系列




 最初は気に食わない女だと思った。


「オルガ・クズネツォワよ」
 優雅に差しだされた白い手を握り返す。
「ニコラス・ブランコだ。よろしく」
 軽くハンドシェイクして離す。恐ろしく美しい女だ。笑顔の片鱗すら見えないその白面は、ひやりとした冷たささえ感じさせるほどだった。これから2人で舞台をつくっていこうという初めての顔合わせだというのに、この態度はどうしたことだ。
「(ったく、これだからロシア女は……)」
 この若さでボリショイのプリマを張っている女だ。どうせワガノワ時代から天才だなんだと散々もてはやされてきたのだろう。今回だってこのABTに客演として”来てくださっている”ご身分だ。先日プリンシパルに昇格したばかりの俺とは格が違うとでも言いたいのだろう。実際、オルガの出演予定の公演チケットは発売開始後瞬く間にソールドアウトしてしまった。普段のうちの定期公演ではこうはいかない。
「(なんでこう、バレリーナってのは女王様気質が多いのかね……)」
 俺は少し前に大喧嘩のすえ別れた年上のイタリア人バレリーナを思い出し、苦い気持ちが込みあげた。真実の愛を見つけただのなんだの喚いていたが、大方自分が結婚適齢期を過ぎたところで年下の俺との将来が見えなくなっただけだ。ちょっとした浮気くらいなら俺も他人のことは言えない。好奇心に駆られただけの一夜であればどうこうあげつらうつもりはなかったが、俺に愛を囁いた口で同じことを向こうの男にも言っていたかと思うと怒りとおぞ気が収まらなかった。しかし自分を大人にしてくれた彼女への恋情を簡単に捨てきれるわけでもなく、その結果演じるはめになったひどい泥仕合。あれ以来、女なんてどうせ、という不信感が抜けきらない。しかし今回の演目はジゼルだ。あの女と踊るよりは随分ましだが、俺はこの高慢で冷徹そうなロシア女を舞台の上で愛しぬくことができるのだろうか。先が思いやられた。


 しかし、ひとたび稽古が始まると、そんな心配は杞憂であったことを思い知らされた。リハーサルスタジオの中、舞台の下手側にあたる位置に立った彼女はその完璧なプレパレーションを見せつける前に、みるみるうちに愛らしい村娘になってしまった。
 彼女の名前はもちろん以前より知ってはいたが、あまり改まって映像などを観たことはなかった。なんとなくの印象として、彼女の持つ生来の優美さが村娘の雰囲気とはミスマッチなのではないかと思っていた。だが彼女のつくりあげた1幕のジゼルは清純で可憐、失恋により死に至る過程も観客に説得力を持って観せられる無垢な一途さをそなえていた。大きく派手なジャンプではなく、波打つような軽やかなジャンプがその胸のときめきを訴えてくる。オルガの指先からも爪先からも、恋を知った喜びが炭酸水の泡のようにぷつぷつと湧き出ては弾けていくようだ。アルブレヒトである俺は、これはほんの火遊びであると自身に言い聞かせながら、ジゼルと視線を合わせるたび知らず知らず深みにはまっていくしかなかった。
「(ああ、ジゼル……)」
 そして狂乱の場が終わった2幕の稽古。ウィリとなった彼女は、その持ち前の優婉さを存分に発揮し、俺を深い森の奥へといざなった。全く体幹のブレないアティテュード・トゥールで、揺れるチュールレースの裾が見えたかと思えば掻き消える。風を起こすかのような速さの連続シェネで、触れたと思った次の一瞬で霧散する。そうやって、この世ならぬものの存在を彼女は一分の隙もないテクニックで表現した。練習用の長いロマンチックチュチュを纏ったオルガが涼しい顔でその美しい脚を垂直に上げたとき、周囲の人間が息を吞むのがわかった。テクニックとはそれ自体でひとつの美だ。厳しい修練の結果身につくそれがスターの一条件と言える。そしてそれだけではもちろんスター足りえないが、オルガはその他の条件も十全に満たしていた。
 ――なんと豊かな内面性だろう。
 1幕とのジゼルの演じ分けに俺は内心感嘆した。先ほどの恋する少女から一転、ウィリとなった彼女は内省的な美しさに溢れていた。まったく音を立てないポワントの先から涙と溜息がもやのようにとくとくと立ち込めてきて、リノ張りの床を満たしていくのを感じた。そして最後消えゆくジゼルの手に頬ずりする瞬間、俺はアルブレヒトとして彼女の手の甲を涙で濡らしてしまっていた。
「やだ、泣いてるの?」
「すまん、拭いてくれ」
 曲が途切れ、驚いたように己の手を見る彼女に自分のタオルを差しだす。
「大丈夫よ、これくらい」
 彼女はそれを受け取らず自らのレオタードで軽く甲を拭いながら、前を向いてディレクターの指導に耳を傾けていた。役が抜けた彼女は実にあっさりしたものだ。その後、指摘された部分を直しながら何度か軽く通して、その日の稽古はお開きとなった。
 スタジオの壁際で荷物をまとめていると、オルガが近寄ってきて
「ねえ、どこかご飯に連れていってくれない? 私、ニューヨーク全然わからないの」
と言った。予想外の申し出と、不意に間近で覗き込まれた青い瞳に俺は内心どきりとしながら、それを承諾した。
 どこに連れていこうか。
 更衣室で着替えをしながら思考を巡らせる。女受けする店の選び方は件の元カノに散々仕込まれた。ニューヨークにはその手の店も豊富だ。しかし、今は行きたくない。アメリカ観光の気分を味わえるような店は? そんなものも嫌だ。
 悩んだ挙句、結局自分がよく行く店に行くことにした。初対面で印象の悪かった女にあれこれ気を回すのも馬鹿らしくなったからだ。
「これは何のお店?」
「テンプラだ」
 移動ののち、到着した店の看板を見上げて彼女は首を傾げた。
 アメリカまで来てテンプラ? とか、揚げ物なんて本番間近に食べたくない! とか言いだすならもう好きにすればいいと思った。だが彼女は
「いいわね。入りましょ」
と言って俺より先にさっさと店内へ入ってしまい、俺は慌ててその後を追った。
 そして彼女はよく食べた。テーブルいっぱいに並んだ揚げたてのテンプラを次々と熱そうに頬張りながら「フクースナ」と呟いている。よく分からないが恐らく「美味い」という意味だろう。俺が大食漢なぶん多めに頼んだつもりだったが、これは追加注文が必要かもしれない。
「モスクワにも日本料理店はあるけど、やっぱりニューヨークはレベルが違うわね」
「ここはちゃんと日本人シェフがいるからな」
 順に空いていく皿を眺めながら、ここに至ってレディーファーストを思い出した俺は、結局テンプラはつまむ程度にしてジャパニーズサケをちびちびやった。しょうがないので後でテンドンも頼もう。
 そうして食事を進めながら、今日のリハについてやお互いに過去演ったジゼルがどのような公演だったかなどを話したり、オルガの話す自身の来歴やロシアのバレエ事情などに興味深く耳を傾けた(曰く、「ワガノワ時代はよく下級生たちから『足の甲を見せてください』って頼まれて廊下で足を見せていたわ」だそうだ。全くご大層な話だ)。だんだんと酒もまわって気が大きくなった俺は、わざと音を立ててテーブルに肘をついた。やおらグラスを持った右手で尊大に目前のトップダンサーを指さす。
「でさあ、なんであんたは笑わねえの?」
 唐突に指をさされた本人は、その大きな目を更にこぼれそうなくらい見開いたかと思うと、テンプラの油でつやつや光る唇をおかしそうにほころばせて、
「知らないの? ロシア人はね、知らない人には笑顔を見せないのよ」
と笑った。


<引用・参考文献>
佐々木 涼子・瀬戸 秀美(1996)『これだけは見ておきたいバレエ』新潮社


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