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言葉だけでは不十分なのだ

言葉だけでは表しきれないことがたくさんある。

ドラマや本の中の甘い世界の中で、「言葉にしてくれないとわからない」というフレーズがあるが、この言葉を耳にするたびに、深いため息が出てしまう。

人間は言葉を話せる唯一の動物であり、それが最大の利点だということがよく言われているが、果たしてそうだろうか。その最大の利点とされてる「言葉」に甘えてはいないだろうか。最初に述べた台詞の例がまさにそれだ。もちろん人間はお互いの理解可能な思想伝達手段として言語を用いるが、全ての事柄を、その言葉によって伝えなくてはならないわけではない。

例えば、数多にある感情の種類の中から、自分が今現在感じている感情を述べる際には、言葉はとても便利である。しかし、それらの感情の深さを表したい時、言葉は一気に無能なものへと変わりゆく。例えば、「嬉しい」という感情を相手に伝える際、一人一人が全く違う深さの「嬉しさ」を感じているはずなのに、我々は全員が口を揃えて、「嬉しい」としか表現できない。また、それ以外も表現できると感じた人も、多分「とても嬉しい」や「〜ほど嬉しい」などの言葉で表現するのであろう。これらは中核の「嬉しい」というものに、何かを付け加えているだけなので、根本的な部分は変わっていない。また、ネガティブな方の感情表現である「悲しい」という言葉はもっと悲惨だ。ショッピングに行き、買いたい商品が買えなかった際の気持ちと、親友が死んでしまった際の気持ちを同じ言葉で表現してしまっているのだ。どちらももちろん「悲しい」という気持ちだが、その感情の深さには、計り知れないほどの差が存在しているだろう。しかし、我々が言葉使ってそれらを表現することによって、その深さというものは表面上では全く感じ取れなくなってしまうのである。

では、どうすれば良いのか、という話になるのだが、そんなものは知らない。

知らないと完全に突き放してしまっているわけではない。感情というのは1人1人その感じ方の深さや程度が異なる為、一概にこうすれば良いという解決案が出る方が、むしろおかしいのだ。

しかし、一つの方法としては、言語に頼りすぎないということであろう。

どうしても、言葉だけが気持ちを伝えられるものと感じてしまっている人が多いが、そうではなく、もちろん言葉も使う、さらにそこにプラスして、あえて曖昧さを含んだ「表情」や「行動」さらに、微細な「態度の変化」などを織り混ぜていくことによって、それぞれが感じている感情というものを、それぞれの味、また、それぞれの色で表現し、他人に伝えることができるのではないだろうか。

ここで、もっと皆が関心のあるであろう例を出して締めくくると、ただ単に、相手に「好き」と伝えるだけが恋人ではないのだ。むしろ、様々な曖昧さや甘美な表現を織り混ぜながら、狂おしくも愛おしい存在こそが恋人というものになるのであろう。

また、本当の意味でコミュニケーションに長けている人というのは、それらを自ら駆使し、また、他人のそれらの微細な表現を見逃さず、感知し、感受することできる人なのだと私は思う。

短い記事ではあったが、この辺で終わりにしよう。

では、また次の記事で。


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