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記憶は美化される

都合の良い側面を増長させていく

記憶というものはとても不思議なもので、誰しもが共通して母親の体から出てきているはずなのに、誰しもがその記憶を持っているわけではない。むしろその時の記憶を持っている人の方が少ないくらいではないだろうか。せいぜい3〜4歳頃の記憶をたどるのが精一杯という人は私以外にも沢山いるはずだ。そんな中で、記憶というものは人間が生きている中でとても大切な役割を果たしているものの一つだと私は考えている。

「記憶する」という行為はつまり、その1人の人間の歴史年表を個人でつけていくことと、言い換えられるのではないだろうか。

記憶というのは実は、長く生きていれば生きている人ほど豊富になっていくかというと、そうではない様に思える。脳や体に沢山の刺激(内外どちら的な要因であっても)を受けた時に初めて無意識的に記録されていくものなのではないだろうか。だから、80歳でも、毎日同じ生活ルーティーンを送っている人であれば、大層な記憶は残りづらいだろうし、毎日刺激的な(善悪に関わらず)ものに囲まれた環境に身を置いていれば、たとえ10代であろうと豊な記憶を持っていたとしても不思議ではない。

話を少し戻し、なぜ記憶するという行為は歴史年表を作ることと同義かというと、年表を制作するという行為から見た方が理解しやすいであろう。歴史の授業で今の教育制度ならほぼ必ずと言っていいほど、年表を用いて歴史を紐解いていくだろう。その際に、「じゃあ今日は992年の1月20日から28日までを1日ずつ追って行こう。」などという教師も歴史家をいないだろう。(とても大事件があった一週間などは別として)。歴史の教科書などを見てもそうだが、各年代の要所となる様な出来事を少し詳しく解説し、また何年後(長い時には何十年も)に起った出来事についてまとめられているという様な形で制作されているであろう。これが、人間の"記憶する"という行為そのものではないかと思う。我々も日頃のすべての行動や出来事を隅々まで記憶しているわけではない。そんなことはほぼ不可能に近いだろう。そうではなくて、自分の中で何か大きな変化があったことや予期せぬ出来事など、前にも書いたが刺激的な出来事をうまく前後と合わせてプロットされたものが人々の記憶になっていくのではなかろうか。だから、一昨日の昼ごはんの内容は覚えていなくても、初恋の相手の容姿や特徴などは何年経とうとも忘れなかったりするものだ。こう考えると記憶というものはとても面白いものだと思う。

しかし、記憶というのはこの性質上、厄介な側面も孕んでいるとも私は思う。その一面というのが、「美化」してしまう(されてしまうの方が正しいのか、、、日本語でも受動態というのは難しい)ということである。

前半でも述べた様に記憶というのはより刺激的な内容を好み記録する特性があると私は考えており、逆にいうと、どうにかして記録しようと、出来事などの内容を無意識のうちに改ざんしてしまう傾向があるのではないかと思う。例えば英単語や漢字を一つ覚える際にも余計なストーリーを自分の中に生み出し無理くりその語を結び付けて脳に記録しようと試みたり、たいして起伏のなかった旅行などでも、写真を見返し振り返ってみると、あたかもどの場面も楽しかった、最高だったなどと思い込んでしまったりもする。

ただ、こんな程度ならまだ些細なことであろう。この記憶の美化というものが顕著に起こる場面は、人が死んだ時である。

人が死ぬというのはとても深いテーマで、いずれどこかのタイミングで記事を書いてみたいと思っているが今回は話がぶれるので置いておいて、記憶というトピックに話を戻そう。人が一人亡くなると必ず、その人と関わりがあった人の記憶に刻み込まれる。これはほぼ唯一と言っていいほど、強制的に記録されてしまう記憶である。その際に人は、その人物について、事実の2〜3割増しで、ポジティブな内容で記録する節があると私は思う。確かに人が本当の意味で世界の主役となるタイミングは生まれた瞬間と死ぬ瞬間だけだと私は考えているが、だからと言って、事実プラスアルファで記録されていいことにはならないと思う。人が死ぬとその周りでは、「あいつは凄かった」や「こんなことも実はやっていた」「本当にいい人生を送っていた」など身勝手な言葉を無責任に発している。では、なぜその人に伝わったであろう生前に、同じ言葉を決して人は発しないのだろうか。

それは、生きてるうちは誰の記憶にも記録されていないからではないだろうか。どんなに近いしい人であろうと、生きて生活しているうちは自分の記憶の中には介在しない。そしてその人が死して初めて、自分の歴史年表に書き込まれ、それが自分に関わりが深ければ深い人ほど、年表の内容を少しでも濃く、鮮やかな物にしようと、人間の脳は記憶を美化していくのではないだろうか。

ここまで、記憶の美化ということについて書いてきたが、これはあくまでも私の考えであって、本当にこの様な側面があるのか、またこの作用は肯定的に捉えるべきなのか、それとも否定的に捉えるべきなのかなどは、全くわからなければ、正解もないだろう。しかしこの様に考えることもできるという"1つの考え方"としてはとても興味深いものではないかと私は思う。

今回の記事はとても流れる様に書けたと感じる。「記憶」と「記録」という似ている二つの熟語を沢山用いてしまったが、一応しっかりと意図的に使い分けていたつもりなので、その辺のニュアンスを読みながら感じてもらえれば幸いだ。

では、また次の記事で。



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