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差異と差別の違いとは

線引きの難しさ

近年、社会全体がグローバルな視点を持ち、多様性を受け入れるべきであるという風潮になるにつれて、再度議論を呼んでいる問題が、「差別」だ。

この差別という問題は非常に難しく、語る者の立場や容姿、性格にも引っ張られてしまう事が多々ある。同じ内容の発言を、誰がするのか、という点がすごく大切になってくるのだ。

このテーマについて書くのは、正直やめたほうがいいであろうし、物議の種になりかねないことも理解している。しかし、個人の考えや感じ方の発信は自由であるのが、人間の本来の権利であるべきだし、そこで躊躇してしまっては、何も考えていない事と同値になってしまう。

ここではっきりさせておきたいのは、この文章を書いている私自身、差別を無くそうなどという、大きな事がしたいわけではなく、単純に、これまで考えてきた事や、疑問に感じている事、さらに自分なりのアンサーをここに書き残してみたいだけなのだ。10年後に、この文章を私が読み返したとして、考え方が同じとも言い切る事は出来ないだろうが、文字として残しておくことに価値があると感じているのだ。

まず、差別とはどのような事柄を指すのであろうか。

一般的、もしくは歴史的には、人種間の違いによる上下関係の有無や、他者を排他的に扱う事が挙げられるだろう。これは現代でもホットなテーマとして、度々お茶の間の話題にも挙がってくる問題で、特に多様性度の高い欧米諸国では、島国である日本よりも、さらに熱を帯びている問題だ。いわゆる人種差別なるものは、当然存在すべきではないし、無くなる事が理想ではあるが、これが難しいのも事実である。人間には、他人と関わる機会が多々あり、それらの経験から、ある一定の「イメージ」を統計的に作り出す能力があると、私は考えている。例えば、この国日本においては、タトゥーが体に入っているだけで、近寄り難い印象を持ってしまうであろうし、首にタオルを巻いて、汗を流しながら急いでいる人間をみたら、「仕事を頑張っている人」と自然と思ってしまうだろう。もちろん私だってこのようなイメージを抱かないわけではない。

しかし、このイメージに沿って、対象の人間を捉えてしまうことにより、関わりを持った事が無いにも関わらず、その人間をわかったように得意気になってしまうという事が起きかねない。タトゥーが腕にびっしり入っているからと言って、その人間がボランティア活動に熱心な活動家の可能性だってあるだろうし、仕事を頑張っているような素振りだが、単に、何かから逃げている人間かもしれない。この事実を知るためには、どうしたって、直接的な関わり合いが必要なのである。

人種差別もこのように、無意識的に起きてしまっている事がほとんどだと、私は考えている。特に、島国であるこの日本で育った私からすると、人種の違いというのは、その対象に、特殊なイメージを抱きやすいであろうし、この国で育っていなくとも、そのようなイメージを持つ事は十分に考えられる。このようなイメージに則して、人を判断するという行為は、判断している側からすると、ごく自然な、生活をしている事と、なんら変わりはないと感じている事が大半である。しかし、イメージを抱かれる側としては、無根拠に近いところから、勝手に自分を評価されていることになる。この潜在的に、他人にイメージを抱くという、人間として当たり前で、かつ避けがたい行為こそが、実は、差別という大きな問題の入り口なのではないかと考えているのだ。

さらに、もう一つ、私が長らく考えている事がある。それは、タイトルにもあるように、「差別」と「差異」の違いはなんなのか、という事だ。さらには、それらには明確な線引きが可能なのかどうか、という事だ。

人間という生き物は、誰1人として、全てが同じ状態ではない。顔の形、パーツの違い、大きさや能力、性格に至るまで、100%同じである事は、不可能であろうし、今後もないであろう。よって、人間はこれらの「差異」に対して、すごく敏感に、そして積極的な姿勢を見せる。例えば、100メートル走の選手は、人よりも「足が速い」という差異から、能力を見出し、人生をかけて、それを証明しようとする。さらに、左利きの人間は、その聞き手が他人と違うという点から、スポーツなどをする場合には、ポジティブに、また、習字を書かなければならない際には、ネガティブに感じる事があるだろう。これも、他人と「違う」ということから生まれる感情や事実である。

では、これらは「差異」であって、「差別」ではないのであろうか。

ここで、私個人の考えを先に記しておこうと思う。私は、「差異」と「差別」には明確な線引きをする事は不可能であると考えている。

上記にあるように、人間は「違い」ということにすごく敏感な生き物であり、また、それらを認知し、感受することによって、人間が人間たる理由になっていると感じる。もし、人間が皆一様で、モノトーンな世界であるならば、人間の感情は消え薄れ、最終的には、全く別の生き物になってしまうだろう。生物として、必要不可欠な生殖行為や、今で言う恋愛なども、自分とは「異なる」性のものに惹かれ、そこから転じて、子孫が繁栄していくことになる。ここにもまた「違い」が存在しており、人間の行動の無意識的な部分を支配している。

結局、これらの「違い」を、「差異」とするか、「差別」とするかというのは、受け取る側の感情論であり、一概に明確な線引きをする事は不可能であると、私は考える。もちろん、倫理的な面や、法的な面で考えて、明確な壁を作り上げる事は可能だと思うが、果たして、それがすべての人間に対して上手く働き、また、享受されるのかというと、疑問が残ってしまう。

しかし、だからと言って、「差別」を肯定してしまうのは、話が違う。

私個人がここで、大切だと考えている事は、「他者との違いを認知し、それを理解する事。そしてそれらの違いを受け入れる事ができるだけの、器の広さを持つ事。」である。

違いがある事は、人間である以上当たり前のことで、そこに着目して、初めから考えるのではなく、それらの「違い」を自分の中で理解し、受け入れることこそが、人間として大切で、まずはじめに、無意識かつ潜在的に行われるべき行為だと考える。

このような行為を自然に行うようになるためには、人間が産まれてきた後に施される「教育」というものがとてもキーになるであろうし、「教育」を施す側が、まずは理解していなければならないことだ。しかし、このようなことを、すべての人間が納得して受け入れるわけでもないであろうし、実現可能だとも思っていない。

ただ、私の物書きとしてのテーマでもある、「考え方を豊かに」ということにおいては、意義のあることだと信じて、ここに書き残しておこう。

では、また次の記事で。


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