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記憶

 今日は公園でピクニックをしました。陽光が漏れる木陰の下、チキンやサンドイッチで彩られた弁当を囲む。新緑に満たされた空間は、何よりも穏やかで。この暖かい白光に、溶けてしまってもいいと思いました。余白に浸る時間って大事だ。

 そうして、ネモフィラ畑や木造民家を散策しながら、精神を潤わせていく。中でも、老人の職人が語る、盆栽の解説が良かったです。『人間の顔みたいに、盆栽にも前後がある』とか『互いの主張を衝突させないよう、盆栽の間には小さな花を置く』とか『百年も経つと、縦に筋が入る』など。知識は価値を認識させ、深淵へと誘う。盆栽の魅力は、その存在感にあります。気が遠くなるような時間を想像して、蓄積された威厳に触れる。大自然と職人によって構成された、空間の極致。そして人間には辿り着けない、永遠との近似点。本当に良かった。機会があれば、ぜひ観察してみてくださいね。

 さて、帰りは実家に寄りました。新生活も序盤ですから、まだ郷愁を感じるほどではない。お道具箱みたいに詰まった近況を報告し、慣れ親しんだ空間に身を委ねました。そうして夕飯と談笑を済ませ、玄関へと向かう。両親も共に来て、見送りの瞬間を待っていました。靴紐を結んでいると、何かが決壊したように、目頭が熱くなる。突然の涙に慌てて、背を向けながら、いつもより素っ気なく家を出ました。そのあと、しばらく涙が零れ続けました。このとき、亡くなった祖父のことを思い出したのです。

 小さい頃、別れ際の祖父が素っ気なく、背を向けて帰っていく姿を、車の窓枠から眺めていた記憶があります。もう声も思い出せないのに、その寂しそうな背中だけは、なぜか鮮明に覚えている。そんな祖父の記憶を、思い出しました。

 もしかしたら、祖父は涙を隠していたのかもしれませんね。あの頃は、「また会えるのに、どうして寂しそうなのだろう?」と疑問を抱いていました。けど、今なら気持ちが少し分かる。恐らく、人は家族に暖かく送り出されると、泣いてしまうのでしょうね。十数年ぶりの答え合わせに、少しだけ祖父の輪郭に触れたような気がしました。

 因みに、この感情も本当に一過性のもので、文章を書いてる内に掴めなくなってしまいました。感情は、本当に繊細な水物だ。

 見慣れた夜道は、感情によって色彩が変わる訳でもなく、ただ日常が続いていました。この記憶も文章に委ね、明日へと歩んでいく。そうして、また日常が始まるのです。

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