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救いと祈り

 電車に揺られて、ただ小説のことばかりを考えていた。呆然と歩いてるときは、常に何かを考えていることが多い。水底へ潜っていくように、自己の深層を覗き、無為な思考を循環していく。

 文章を書いてるときは、正直あまり楽しくない。勿論、キャラやストーリーについて考えてるときは楽しいが、それを文章に起こしてるときは大半が苦痛だ。

  例えば、絵を描いてるときは楽しい時間が多い。可愛いキャラクターが生み出され、どんどん彩度が上がっていく瞬間は、快感物質が過剰分泌されて、全能感さえ抱く。それに比べると、文章を書いていて楽しいと感じる瞬間は本当に一瞬で、なぜ文章を書いているのか本気で分からなくなるときがある。

 恐らく、自分の中で文章と絵は用途が違っていて、だからこそ抱く感情も異なるのだろう。それなのに、つい同じ創作という分類で括ってしまう。優劣を付けるために比較して、自傷行為のように文章という媒体を卑下する。傍から見れば、その様は酷く滑稽だろう。

 文章を書く理由を挙げるなら、溢れ出る感情の昇華だったり、現実逃避だったり、とにかく消極的な理由が多い気がする。あるいは、自分には小説しかないという意識が、心の奥底に眠っているからかもしれない。

 それに、魂を注いで執筆していた時期の熱が忘れられない。負の感情が付き纏い、書いてて苦しいと感じる時間ばかりだったけど、常に小説のことを考えていた。感情と魂と時間を全てパソコンに打ち付けて、物語を完成させることだけを目標に生きていた。どう見ても歪だし、その頃の記憶は殆ど覚えてない。けれど、そのときの熱だけは覚えている。

 昔より文章が上手くなった。構成力も上がったし、描写の幅も広がった。ただ、現実が満たされているから、負の感情に頼ることができない。理想の文章を書くことはできても、どうも満足できない。安定した精神は退屈に思えて、つい熱を求めてしまう。その欲求は、確実に健全ではない。分かっている。分かってはいるが、負の感情を求めてしまう自分がいる。あの熱に灼かれて死ぬなら、きっと本望だから。

 そんなことに想いを馳せて、ひたすら電車に揺られていた。

***

 帰り道、久々に鬱が付き纏った。読んでいた漫画に影響されたのか、電車に人が押寄せる様を見て心が折れてしまったのか、原因は分からない。ただ、これが一過性のものであることだけは分かった。

 呆然と、重苦しい鬱に身を委ねる。望んだ状況のはずだった。これがあれば、もう一度あの熱に身を焦がせるはずだから。

 ……何も考えられなかった。考えたくなかった。こんな状態で、小説を書けるとは到底思えなかった。全ての思考を放棄して、静かに電車を見送る。駅の電光掲示板を見つめても、何も理解できなかった。文字は情報として処理されず、文字列のまま通り抜けていった。駅のベンチで呆然と座り込み、そこでようやく自覚した。

 書くことは救いだったんだ。高尚な理由もなく、感情を上手く扱えていた訳でもない。ただ救われるために文章を吐き出していたんだ。それに気付いてから、静かに涙腺が疼いた。言語化された理由は、きっと後付けの断片にすぎなくて、あのときは多分、書くことでしか救われなかったのだ。

 過去は美化され続けるし、痛みは緩やかに風化していく。恐らく、当時は鬱という燃料で魂を燃やして、何とか文章を紡いでたのかもしれない。

 負の感情は魅力的だ。紫色の水晶が零れ落ちて、文章に煌めきを与えていく。でもそれは、ずっと浴び続けていい光じゃない。許されるのは、きっと間接光くらいの輝きだ。

 きっと、この感情も消えていく。数カ月も経てば、何事も無かったように文章を読み返して、負の感情を羨むのだろう。煌めきには惹かれてしまうものだし、文章に囚われてる以上、この罪は繰り返されていく。それは酷く愚かであるが、自己を構成する核の部分でもあるから、仕方ないとも思う。

 健全であることは、必ずしも創作の答えになるとは限らない。未来の感情は分からないし、同じことで悩む日が来るだろう。

 だからせめて、未来の自分は幸せであればいいなと、そう祈った。

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