本物の愛を見た話

先日引越しをし、シウマイ国民からピーナッツ国民になりました。それに伴い娘4歳の保育園も変わり、家の片付けと送迎とでてんやわんやの日々です。

先日、慣らし保育初日で、初めて娘とふたりだけで徒歩で登園してみたのですが、1kmほどの道のり、子供と一緒だと30分はかかります。まだ慣れない土地と道、交通量もかなり多い。しかもその日は大雨で、さらに気を遣う、ということでまあ大変でした。

しかも、私ときたら、Google Mapを見ながら道を間違えるという方向音痴あるあるをぶちかまし、ただでさえ遠い保育園がさらに遠くなる始末。

こういう時は素直に娘に謝るに限ると思い「ごめんね、お母さん道間違えちゃった。地図見てもしょっちゅう道間違っちゃうんだよ」と素直に話したところ、娘ってば「いいよー。ママのことは、いつだって許すよ!」とか言ってくれて、母ちゃん危うく泣くところでした。その後も一生懸命に歩きながら「道、合ってるか携帯見た方がいいんじゃない?」「間違ってても大丈夫だよ」とフォローしてくれたし。

なんなんでしょうね、無償の愛ってこういうのを言うんでしょうね。

娘が生まれた時、子供っていうのはなんと親の愛を一方的に求めるものかとびびったものです。乳幼児の愛情の受け皿はザルみたいなもんで、愛を注いでも注いでも通り抜けていくけど、徐々に目が詰まっていってちゃんと愛を受け止めてくれるようになる、と聞いて、なるほど、娘の受け皿はザル…いや、むしろ網目すらなく、フチだけなんじゃないかな?  などど思っていたけれど、いつの間にやら人を思いやるとか許すとか出来るようになってたんですね。ま、受け皿はまだザルですけど。

よく親の子への思いを無性の愛というけれど、無性の愛を注いでいるつもりが、実は私の方が混じり気なしの本物の無性の愛を一身に受けているのだなあ。ちょっと自分、驕ってたな、我が身を恥じたりしました。なんかもう、愛情深さに関して娘に敵う気が全くしない。だって本当に、いろんなことがあるけれど、娘が私を許さないことは絶対にないし、私もそれを知っているから日々思い切り叱ったり怒ったりしてるし。すごいね、4歳。

とはいえ、保育園は遠く、帰宅時は昼ごはんでパワーチャージして頑張るも「足が痛くなっちゃった…」と娘が泣き言をもらしていたので、電動チャリを買うことにしました。いくら娘が大きな愛情を持っているとはいえ、愛では園までの距離は縮まらぬ。

こういうことがあるから、育児やだやだマンの私でも、この日々は宝物だぜよ!  とか思っちゃうんだよなあ。

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