祖先たちは何を使ってお尻を拭いてきたのか?(後編)
この記事は 祖先たちは何を使ってお尻を拭いてきたのか?(前編) の続きです。
日本のトイレ史
日本の昔のトイレ事情についても見ておこう。
先史時代
縄文時代前期(5500年前頃)のものと見られる福井県若狭町の鳥浜貝塚では2000以上の糞石が出土しており、当時の人びとは湖に杭を打って桟橋をかけ、その上からお尻を出して湖のなかへ排泄していたと推測されている。
これと同様の桟橋形水洗式(川屋)は現在も環太平洋の広い地域で見られる。
同じ時期と考えられている青森市の三内丸山遺跡の北部の「遺物廃棄ブロック」と呼ばれる谷に堆積している泥土を分析した結果、多量の寄生虫の卵が検出されたためここを排泄場所として使っていた可能性が高い。
この寄生虫を調べてわかったのはこの地域の縄文人が汚染された水や野草を食べて鞭虫病による腹痛に苦しみ、淡水魚や獣類ではなく海水魚を食して異形吸虫類に寄生されていたということだ。
古墳時代前期(3世紀末から4世紀前半)の奈良県桜井市の纏向(まきむく)遺跡には導水施設が確認できる。
ここは水に関わる祭祀遺構と見られるが、木樋の内部の堆積土壌から排泄物に特有の寄生虫の卵や食物残滓が多量に検出されたことから木樋はトイレ構造の一部だと解釈され始めている。
飛鳥時代
7世紀末頃の奈良県橿原(かしはら)市の藤原京跡の藤原宮の近くにある右京七条一坊西北坪の遺跡には土坑形汲み取り式のトイレが存在していた。
木簡や硯(すずり)といった出土品からこの周辺には役所のようなものがあったと推測され、建物内の共同トイレだったと考えられている。
深さ1mほどの素掘りの便槽だったと見られ、堆積土の分析により当時の人たちが生野菜や野草を食べ、鯉や鮎を生食または軽く焼く程度で食していたことがうかがえる。
右京九条四坊では土坑汲み取り式と弧状溝形水洗式の2基のトイレが確認されている。
後者は南の小溝口から水を取り入れ、北口から排水する水洗式となっている。
右京一条三坊でも土坑汲み取り式と弧状溝形水洗式を各1基確認している。
後者よりも前者が先に造られていたと見られ、宅地とトイレの間に柱を立てる穴が並んでいることから目隠し塀があったと考えられている。
奈良時代
8世紀の平城京では藤原麻呂邸の東辺の築地塀から木樋を用いた弧状溝形水洗式トイレが見つかった。
秋田市の秋田城跡からは掘立柱建物と水洗式トイレが一体となったトイレ遺構が確認された。
庇(ひさし)側の入り口から入ると待合室のような空間があり、その先に3部屋の個室を備えた構造だったと考えられている。
個室の床下の便槽に落ちた排泄物は木樋を通じて沼に排水される仕組みだが、沼の汚染を控えるため途中に沈殿層を設けて上澄みだけが流れるようにしてあった。
おそらく個室内に桶の水を用意しておいて利用後に流したか、高野山形水洗式のように生活排水によって随時流れる造りだったと思われる。
福岡市の筑紫館のちの鴻臚館(こうろかん)は国内で初めて古代トイレが確認された遺跡であり、3基の土坑形貯留式のトイレが設置されていたと見られる。
このうち北側の2基は小型で残存脂質のコプロスタノールとコレステロールの比率から女性用、南側の大きめの1基が男性用、あるいは小型の2基からは豚を常食することで寄生する有鉤条虫(ゆうこうじょうちゅう)の卵が多く検出されたことからこちらは外国人客専用となっていた可能性も指摘されている。
この時代は籌木(ちゅうぎ)と呼ばれる木簡状の板でお尻を拭いていたようだ。
奈良時代後期の京都府向日(むこう)市にある長岡京でも土坑形汲み取り式が1基確認されており、籌木は400点ほど出土している。
平安〜鎌倉時代
12世紀のものだとされる岩手県の平泉遺跡群ではいくつかの遺跡から30基を超えるトイレ遺構と見られる土坑が発掘された。
すべて円筒形の土坑形汲み取り式となっており、籌木が多数出土している。
秋田県横手市の観音寺経塚からは不整円形の彫り込みをもつ土坑汲み取り式が1基確認されており、寺院の近くにあるため動物性の寄生虫の卵は検出されず菜食中心だったと見られている。
京都府木津川市の光明山寺からは石組の高野山形水洗式トイレが発見された。
秋田県大舘市の矢立廃寺からは土坑形汲み取り式のトイレと籌木約70点が見つかった。
神奈川県鎌倉市の鎌倉幕府政所跡とされる遺構からは3基の土坑汲み取り式が発掘され、同じく鎌倉の米町遺跡からも7基の土坑形汲み取り式が発掘された。
その後幕府は最終的に鶴岡八幡宮の境内前の若宮に移されたが、その場所からは高野山形水洗式トイレが確認されている。
室町〜安土桃山時代
福井市の一乗谷朝倉氏遺跡は国の特別史跡に指定されたほどに武家屋敷、寺院、町屋、庭園、朝倉義景館など戦国時代の城下町の町並みが見事に残った状態で発掘された遺跡であり、4つの庭園は国の特別名勝にも指定されている。
ここから発見された石積施設は長らく用途不明となっていたが、1980年の調査で金隠しの板が見つかり石組の桝形汲み取り式のトイレであることが確認された。
これは日本における考古学的に確認された最初の確実なトイレ遺構だった。
滋賀県彦根市の妙楽寺遺跡からも石組桝形汲み取り式が確認されている。
大阪府堺市の堺環濠都市遺跡からは甕(かめ)形汲み取り式のトイレが発見され、このトイレからは大便と小便を分けて処理するトイレも見つかっている。
広島県北広島町の安土桃山時代の史跡である吉川元春館跡には桶形汲み取り式のトイレが確認された。
豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に最前線とした佐賀県唐津市の名護屋城の木村重隆陣屋跡からは砂雪隠(すなせっちん)形汲み取り式という千利休が考案したとされる珍しいタイプのトイレ遺構が見つかっている。
江戸時代
滋賀県彦根市の彦根城からは多数の桶形汲み取り式と甕形汲み取り式のトイレが検出されている。
石川県中能登町の石動山にある大宮坊には桶形汲み取り式トイレの空間が確認され、鉋屑(かんなくず)状に薄くした杉材をトイレットペーパーのように利用していたのではないかと見られている。
山岳寺院らしく、便槽堆積物を分析するとやはり菜食生活を送っていたと考えられる。
新潟県糸魚川市の清崎城跡からは桶形汲み取り式のトイレらしき土坑が見つかっている。
東京都港区の汐留遺跡の龍野藩脇坂家上屋敷と仙台藩伊達氏上屋敷ではトイレに使用したと考えられる700基近くの埋桶と50基ほどの埋甕が確認され、金隠しや肥杓も出土している。
江戸城竹橋門の大番所には80cm四方の方形の石組の下に土坑があり、桶形もしくは甕形汲み取り式のトイレがあったと推測される。
東京都台東区の白鷗遺跡の廃棄坑からは杉材で作られた8個分のおまるの部品53点が出土した。
東京都文京区の加賀藩前田家上屋敷からは木組の桝形汲み取り式と推測される遺構が見つかり、同地にある大聖寺藩の敷地では10基以上の桶形汲み取り式と見られるトイレ遺構が発見されている。
明治時代以降
汐留遺跡の新橋停車場跡には土坑の内壁に煉瓦を積みコンクリートを塗って補強した桝形汲み取り式トイレが見つかり、トイレ用の履き物や尻拭き用だったと見られる細かくちぎった布なども出土している。
構内の鋳物工場のトイレは大便用の甕の両端に長方形の孔が空いており小便用の甕や桝が設置された。
東京帝国大学図書館のトイレは方形土坑の内部に口径67cm高さ85cmの大甕を埋設する構造の甕形汲み取り式だった。
新潟市西蒲区の日本海に面した角海浜にあった民家植野家はこの地域特有のマクリダシと呼ばれる数十年に一度の海岸浸食現象によって当時の状態を保ったまま発掘された。
母家の入り口左側に桶形汲み取り式の門脇便所が設置されており、小便用の溲瓶(しゅびん)が陶製のものとガラス製のものの2点出土している。
何を使ってお尻を拭いていたのか?
さてここからが本題だが、各時代の人びとはどのようにして排便後のお尻を拭いたのだろうか?
日本のトイレ史の中では木簡状の籌木という板、鉋屑状に薄くした杉材、細かくちぎった布というアイテムが出てきた。
果たしてこれら以外にも使われたものはあったのだろうか?
籌木が使われる以前の古代の日本では直接手で拭くか貝殻や陶器の破片、葉っぱや海藻が用いられていた。
古代ギリシアの人びとは小石や粘土のかけらを使っていたと考えられており、古代ローマの公衆トイレにおいてはスポンジ状の海綿を先端につけた棒を塩水に浸けて設置してあり、排泄後はそれで拭いて共用で使用していたとされる。
かつてのアメリカ大陸の人びとはトウモロコシの穂軸(食べたあとに残る芯の部分)をトイレの壁に引っかけておき、それを使って拭いていたようだ。
左手を不浄の手とすることで有名なインドなどでは排泄後は左手の指を使って拭き、そのあとで手を洗うのが一般的だ。
雪の多い極寒の地に住むイヌイットなどは雪を持ち歩いて排泄後の処理に使うという。
その他にも毛束や砂といったものを使う地域が存在する。
紙でお尻を拭くようになったのは6世紀頃の中国の皇帝や貴族からだったと考えられている。
8世紀に中国を訪れたムスリムの旅人は「中国人は用を足したあと体を洗わず、紙で尻を拭くだけで済ませるので清潔感がない」と記している。
イスラム教圏では水で洗って清めるという文化が宗教教義としてあり、かなり古い時代から排泄後は水で洗っていたため、中国人が紙で拭いているのを見て驚いたようだ。
そののち上流階級だけでなく一般層にまで紙を使って拭くことが普及した中国では13世紀以前からちり紙の量産を始め、14世紀には浙江省だけでも年間1000万個のちり紙が生産されるようになった。
今でこそ世界の3分の1ほどがトイレットペーパーを使うようになったが、当時では紙を使って拭くのは世界の少数派であり反対派も多く、16世紀のフランス人作家フランソワ・ラブレーも「ちり紙は役に立たない。用を足したあとに紙で拭いた者は性器の裏側に滓(かす)が付いていた」と苦言を呈している。
アメリカでは1857年にトイレットペーパーの量産を開始し、1900年代の屋内の個室型トイレの普及とともにトイレットペーパーの利用が広まっていった。
日本では明治維新以後にトイレットペーパーを欧米からの輸入するまで国内にはそういったものはなく、農村部では葉っぱや藁(わら)や籌木が長らく使われ続けていた。
国内でトイレ用のちり紙を製造するようになったのは大正時代後期になってからであり、現在のようなクオリティとはかけ離れた固くて吸水性が悪く水に溶けにくい紙ウエスのようなものだった。
ロール式のトイレットペーパーが普及し始めたのは水洗式のトイレが家庭にも一般化し始めてからのことである。