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オルタナティブな知性に対する「想像力」と、人間中心主義を反転させる「デザイン」の可能性。連載「スマートシティとキノコとブッダ」ゲスト:久保田晃弘

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Photo by Gertrūda Valasevičiūtė on Unsplash

「他者」という言葉の射程に、超知能や地球外の知的生命体まで含むとき、デザインはどのように変わりうるのか?

「ポストヒューマンの時代がもうすぐやってくる、デザイナーはその準備をしておかなければならない、人間を中心に考えたデザインの宿命を反転しなければならない」

多摩美術大学美術学部情報デザイン学科教授の久保田晃弘氏は著書『遥かなる他者のためのデザイン』にて、このように語っている。「他者」によって引き出される人間の新しい身体性と知性、人類を相対化しながら人類について考えていくための方法、そしてデザインの可能性を探るべく、インタビューを実施した。

語り手
久保田晃弘(多摩美術大学 美術学部情報デザイン学科)

聞き手
中西泰人(慶應義塾大学 環境情報学部)
本江正茂(東北大学大学院 工学研究科)

人間はスマートフォンを運ぶメディアである

中西:著書『遙かなる他者のためのデザイン──久保田晃弘の思索と実装』[1]の序文に、「人間がポスト人間中心のデザインを行なうということは、人間が人間のためのデザインを行うのではなく、『人間が人間を超えた超存在に対するデザインを行うことは可能か』、あるいはその逆に『人間以外のものが人間中心のデザインを行うことは可能か』という問いと同型の難しさがある」と書かれています。「スマートシティとキノコとブッダ」で考えたいテーマとも共通しており、今回インタビューのお願いをしました。改めて、どのような課題意識でこの本を書かれたのか教えてください。

久保田:この本を書いた頃は、ちょうど「AI」や「シンギュラリティ」がバズワードになり始めていました。第3次AIブームと呼ばれていたのですが、今回はそれまでのブームと何が異なるのか。それを考えてみたいという問題意識が背景にありました。

これまでのAIは主に、人間の思考を支援するものと考えられていました。ですから、システムをつくるためにはまず、人間の思考プロセスをモデル化する必要がありました。それは人間のモデル化を通して擬人化されたシステムをつくろうとする、人間中心主義的アプローチとも言い換えられます。しかし、この第3次AIブームでは、そうした議論があまりなされていません。今日のシステムは、一体何をモデル化しているのか。身の回りに機械学習のシステムが急速に増えつつある状況が、なし崩し的に進んでしまうことへの疑問がありました。

また、日常化したレコメンドシステムによって、人々は自らレコメンドされた場所に行くようになり、そこで情報を収集している。人間がスマートフォンを主体的に使っているというよりも、人間のほうが「スマートフォンを運ぶメディア」として使われている。

人間が理解していないシステムによって、無意識のうちに行動が方向付けられているのであれば、それ以前の状態に戻るべきなのか、それともわたしたちの理解や行動のレベルを上げるべきなのか。そうしたことについて考えたいと思いました。

チューリング的人工知能観からの脱却

中西:その全体像が人間の理解を越えたシステムたちがわたしたちを包んでおり、その一端がスマートフォンのアプリケーションとして現れている、ということがすでに日常的な事象となっているわけですね。今後はさらに発展し、人知を超えたシステムの現れ方が自動運転車やロボットなどの「存在」「他者」として都市のなかに出現する時代がくると考えています。

久保田:1990年代頃までのAIは、「コンピューターは人間の思考を拡張するもの」という、ある種のマクルーハン的な視点によって語られていました。しかし、現在の機械学習システムは、人間の思考を拡張するものなのでしょうか。もちろん、当初は人間の神経構造を模したニューラルネットワークから始まったのかもしれませんが、現在のネットワークシステムは、そうしたメタファーを超えたものに変化しています。それはむしろ、わたしたち人間の知能とは異なるもの、と言うほうがよいのではないでしょうか。「車輪の再発明」ならぬ「知能の再発明」が必要です。

中西:インターネットが登場した頃は、それがいかに人間の知性を拡張するのかという点について激しく議論されていたかと思います。しかし、昨今のスマートシティやAIは、そのような議論はあまり行なわれていません。スマートシティによって、どのような新しい身体性、新しい知性が生み出されるのかが語られていないわけです。久保田先生は自動運転車やロボットに対して「ヴィークルメディア」という言葉を使われていると思いますが、ヴィークルメディアがわたしたちの身の回りに現れた時、どのようなことを考えていくべきなのでしょうか?

久保田:そうですね。今後のスマートシティの問題については、技術だけでなく、ポリティクスの面からも考えなくてはなりません。例えば、中国的なスマートシティはシステムとしては合理的かもしれませんが、監視体制の強化にもつながっています。環境と一体化した知性をつくりつつ、監視社会的なディストピアを生み出さない方法を考えていかなければなりません。

監視社会を生み出しかねないアフォーダンス的な環境知能は、80-90年代に議論された「AIが人間をサポートする」という考え方とは明らかに異なります。環境に知能を組み込んでいこうとする際の人間の在り方は、チューリングに端を発する計算論的な人工知能観からの変革を促しています。

オルタナティブな知性に歩み寄るための模倣

中西:『2001年宇宙の旅』のHAL 9000は人間をモデル化した知能であり、それが1970-80年代のAI観でしたよね。

このプロジェクトでは、近く立ち現れるかもしれない単機能ロボットがネットワークされて都市を覆う状態、そこに現れる人間とは異なる知性のメタファーとしてキノコを挙げています。一方、環境知能によって人々の徳のようなものが上がる都市があれば面白いのではないかと考え、人間では捉えきれない広範囲な視野を持つトップダウン的知性の象徴としてブッダを挙げています。キノコとブッダは「遥かなる他者」とも言えると思うのですが、久保田先生はこのような新しい知性についてどのようなイメージをお持ちですか?

久保田:人間以外の知性を考えることは、知性の優劣を曖昧にする、ということです。計算能力が高い知性のほうが優れているのか、環境をサバイブできる知性のほうが優れているのか、そうしたわかりやすい指標はありません。まず、さまざまな知性がこの世界で共存しているという、当たり前のことを思い出す必要があります。そうすれば、シンギュラリティのように「人間を超える」という概念が不要であることが、すぐにわかります。それは陰謀論や、ポピュリズムと同じようなものです。

人間とは異なる知性については、あまりペシミスティックになるべきではないとは思いますが、基本的にそれを「理解することはできない」、ということだと思います。これは、そのことについて考えることを諦める、という意味ではありません。例えば、『惑星ソラリス』の海のような知性を例にあげれば、オブジェクトとしての個体をもつ人間の知性は、そもそものところから異質なものです。それらが出会ったとき、何ができるかと言えば、せいぜいものまね、対象を模倣しようとするくらいのことです。あの作品のなかで、レムが書いたことは決して奇妙なことではなく、わたしたちが他者を理解しようとする際に行なっている、当たり前の行為です。その結果、人間の精神がおかしくなっているかどうかなんかは、どうでもいいというか、相手にはわかりようがない。他者の模倣が相互理解の第一歩であるということを通じて、あの小説は逆説的に知性の限界を表現していたわけです。

キノコのような異なる知性を、人間が一体どのように理解できるのかを考えることは大切です。それを考えることで、わたしたちの知能を相対化できるはずです。チューリングテスト(※数学者のアラン・チューリングが考案した、機械が持つ人間的な思考能力を判定するためのテスト)という人間中心主義的な発想を捨てなければなりません。

本江:キノコはチューリングテストをクリアできませんが、彼らなりの知性を備えているということですね。そう考えると、想像力を拡張する余地がたくさんあると気付かされます。

久保田:そうですね。遠くにいる他者をイメージするための想像力を、それがたとえ不可能であっても持とうとする必要があると思います。他者のバリエーションを描くための方法は、科学や技術だけではありません。歴史を振り返れば、文学や美術や詩などが、遠くにいる他者を想像するためのウィズダム(知恵)としてありました。知性の優劣の話と同様に、人間の知恵にも優劣をつけないことが肝心ではないでしょうか。

「デザイン」に、そうした遥かなる他者を射程に入れられる包容力はあるのでしょうか。キノコに知性を感じるのであれば、それと似たようなものを模倣し、それを使用してみるのが一つの手だと思います。スマートシティはそうした他者を模倣する、ミメーシスとしてのデザインのための、テストベッドになり得るかもしれません。

「中心」と「ノーマル」が目覚めを阻害する

久保田:ブッダの意味を調べると、聖人や賢者を表わすのはもちろんなのですが、おおもとには「目覚めた人」という意味もあるんですよね。目覚めるとはどういう意味なのかを考えてみると面白いと思います。

中西:技術の進歩に合わせて、これまでと異なる質を備えた新しい人間にジャンプする瞬間があると思いますが、それを目覚めると言えるのかもしれません。

久保田先生は『遥かなる他者のためのデザイン』で、人間のことを慮る存在は決して超知性になれないと書かれていますね。例えば、仏教における修行とは欲望を我慢して理性的に振る舞う行為です。そこでは、ブッダ自身は修行を強制する立場なので優しい存在ではないと思うんです。また人間は、経済市場やインターネットなど、完全にコントロールできないシステムを意図せず生み出してきました。それらのシステムも人間に優しくはありません。久保田先生はこれまで「人間周辺主義」という言い方をされてきましたが、これはどのような問題意識から生まれた言葉なのでしょうか?

久保田:まずは「中心」という言葉の機能を顕在化させなければなりません。そもそも人間中心主義という時の「中心」にはどういう意味があるのでしょうか。それは、中心であることはいいことだ、というメタファーの表れです。何か組織をつくる際に、やたらとセンターとつけたがるし、人はセンターになりたがります。そうしたメタファーが、すでにわたしたちの考え方のなかに深く入り込んでいる。

人間中心も、機械中心も、「中心」という言葉を使うという意味においては同じことです。だからあえて周辺=ペリフェラルという言葉を用いました。中心は善、周辺は悪という観念を、まずはひっくり返したいという素朴な言葉づかいですが、この言葉から生まれる違和感を、まずは出発点にしてもらいたかったんです。

周辺主義的デザイン・アプローチがどうすれば可能なのかを考えてみると、身の回りにすでにそうしたものが溢れていることに気付きます。例えば、楽器を練習して上達しようとする行為は、ある意味で楽器中心=人間周辺主義になっています。

本江:楽器に合わせて人間が変化するわけですよね。

久保田:もし人間中心主義的に楽器をデザインするのであれば、端から一音ずつ押していくだけで曲が弾ける、誰もがすぐにわかる人間のためのピアノをデザインすればいい。人間周辺主義とは決して突飛なことではなく、モノと人間の共進化は昔から存在していました。最初から人間は中心にはいなかったのだよ、と。

今日のコンピュータのインターフェースデザインは、ユーザビリティが重要視されているため、誤動作が起きにくいようにデザインされています。しかし、グリッチやエラーはクリエイティブの現場では重宝されていますよね。ドナルド・ノーマン的な人間のための思想においては、変なものは生まれ難い。その意味では均質化して、あまり面白くない世界になってしまう。亡霊のように何度も蘇る最適化の考え方に対して「ちょっと待て」と言うような、カウンター的姿勢やオルタナティブな考え方は、非中心=周辺の思想として、多くの人に携えて欲しいと思っています。

本江:ユーザビリティ先行の考え方は「人間とはこういう存在である」と規定するところから始まりますからね。

久保田:「ノーマル」という考え方がとても危険だと思います。何かをノーマルと規定してしまうと、アブノーマルを生んでしまう。中心やノーマルは、ダイバーシティのような考え方を阻害する危険な言葉です。新型コロナウイルス後の「ニューノーマル」がその一例です。自分と異なる存在がどういうものなのか、なるべくフラットに想像し、少しでも理解しようとすることが必要だと思います。

わかりえないものと共存するための新しいウィズダム

中西:わたしが学生だった頃、久保田先生の授業で課せられた「クラゲのイメージスキーマ(※ジョージ・レイコフらにより提唱された認知意味論:言葉の意味の発生の基盤を身体的経験に置く考え方[2])を考えなさい」という課題をいまでも覚えています。クラゲは目を持ちませんが、光センサーが全方向に付いています。また、肛門を持たないので口から不要物を排出します。そのような身体構造を持つクラゲに思考能力があった場合、どのように思考するのか。課題提出までの期間はそればかりを考えていたので、二足歩行で目が前についていることにも違和感を覚えて、変な気分になりました。

久保田:クラゲを例に取ったのは、わたしたち人間のものの考え方に強い影響力を与えている、「前」と「上」というメタファーが希薄な構造の生物だからです。クラゲは軸対象の身体で、水中にいることで重力の影響も少ないため、前後や上下という身体的概念を持ちにくいことが想像できます。わたしたちが日常的に使う言葉のなかには、「議論を前に進める」「経済が上昇する」「気持ちが沈む」のような、前後上下に関わるメタファーが潜んでいます。そのことに気づいてもらうきっかけとしてクラゲを例にあげました。

人間中心主義について考えることは、わたしたちがどのようなメタファーを使っているのかを考えることと表裏一体だと思います。2018年に監訳したジェームズ・ブライドルの『ニュー・ダーク・エイジ ー テクノロジーと未来についての10の考察』[3]では、データは石油よりも原子力のメタファーで捉えるべきだと書かれています。データは、その利用可能性の高さから、新たな石油と例えられました。しかし今日のSNS時代では、データは目に見えないうえ、一度アップロードすると2度と消すことができないという意味で、データはむしろ原子力や放射能のようである、というべきです。このように、わたしたちのものごとの理解は、使われているメタファーに強く依存しています。だから現在のメタファーの限界を知り、新しいメタファーを考えることが、目覚めるための具体的な方法になるのではないでしょうか。

今回のプロジェクトには、キノコとブッダというメタファーとスマートシティというキーワードがあります。この3つの言葉のつなぐ、新しいメタファーを考えると面白いかもしれません。キノコにとってのスマートシティとは何か、キノコにとってのブッダとは何か、ブッダはキノコをどう見ているのか...…というように、それぞれの組み合わせから生まれるメタファー考えてることができるはずです。例えば、スマートシティが人間中心主義の代表で、キノコは他者の代表、ブッダは超越的存在の代表であるとしたときに、それらの間にどのような「同じさ」が発見できるのか。そうした思考実験的なアプローチも可能だと思います。環世界の概念が再評価されていますが、むしろ環世界を解体し、視点を自由に移動させ続けることのほうが大事なのだと思います。

人間以外の視点からものごとを考えられるようになると、巷にある未来予測が非常に胡散臭く思えてきます。なぜなら、それらはほとんど人間、特にそれを語る自分が生き残る世界を示しているからです。それは未来予測などではなく、自己中心的な現在の願望の延長にしか過ぎません。予測能力こそが知性であるとも解釈できますが、だとすれば知性とはそもそもが自己中心的なものです。そうした知性の根本原理からすると、いまの未来予測にはまったく意味はありません。未来を予測するのではなく、現在をもっとよく見るべきです。そこには見えていない現実がたくさんあります。

中西:著書の中で、答えを出すという強迫観念に執われたときは留保をするなど、ある種の曖昧さを自分のなかでもちつづけることが大事ではないかという話をされていますよね。それらの未来予測は、本当は分からないことに対して自分は分かっているんだと断言する行為になりますよね。

久保田:未来予測を言うほうも聞くほうも、確信犯としてやっている部分はあると思います。単なる娯楽としてならば、あまり問題はないのかもしれませんが、デザインやサイエンス、エンジニアリングの分野でそれを肯定するのは問題が大きいですね。

本江:ビジネスや政治の分野ではそれらの方向付けによって短期的な利益を得たり、多数派の支持を獲得したりということはあります。地続きで都合のいい方向を示すことを未来予測と称していますが、デザインはもっと長期的なものを目指さなくてはならないわけですよね。

拡張からの反転、衰退からの復活

本江:キックオフ鼎談では、佐藤俊樹氏の情報化社会論を引いて、「ポスト」と「ハイパー」という概念の話をしました。彼はこれまでの情報化社会論の傾向を、定量的な成長路線を語るハイパーと、パラダイムの転換を語るポストに大別できると書いています。最近のビジネスやポリティクスの分野の言説は、現状をいかに方向付けて生き残り、利益を得るのかというハイパーの話ばかり。ポストの話はあまり真剣に議論されていません。というのも、自分が生き残らない社会を真剣に議論するのは、自身の実利に直結しないからです。本プロジェクトでは、ポストを真剣に議論する契機やコンテキストをつくりだす方法について考えたいんです。

久保田:そのお話を聞いて、マクルーハンのテトラッドを思い出しました。彼は、メディアにはその本質的な法則として、「強化」「衰退」「回復」「反転」の4つがあるとしました。面白いのは、マクルーハンはこの4つの方向性が、全て相互に関連していると言っていることです。つまり、単純な強化と衰退の軸があるだけではなく、新たな人工物が現れることによって、衰退していた何かが復活したり、拡張が行きすぎることで反転しはじめたりする。

例えば、地球上のすべての人とコミュニケーションできるようになれば、きっと自由で幸せな世界になれるはずだと強化、拡張していったインターネットは、いまでは世界中をつなぎ過ぎたことによって、さらなる分断を生み出している。インターネットは、強化しすぎたことによって反転したわかりやすい事例です。

テトラッドの概念に広がりが生まれているのは、2つの軸が交差して、面としての拡がりをもっているからだと思います。単一線上の一次元的な議論では、プラスかマイナスかの方向にしか行けませんが、もう1本軸があることで、思考は複合的に広がっていきます。ポストとハイパーを対比的に考えるのではなく、このテトラッドの考え方を援用して、ハイパーとポストは互いに深く関わっていると考えていくことが、ひとつの方法だと思います。

本江:ハイパーとポストを単純に対比させて、友敵関係に置くことがそもそも間違っているのかもしれませんね。

久保田:最近、VRの創始者的存在のジャロン・ラニアーのインタビュー映像を見返す機会がありました[4]。インターネットがまだ好意的に迎えられていた1997年頃のインタビューだったのですが、彼はインターネットによって社会は劇的に変わるが、それは人間の写し鏡であり、善いことだけではなく必ず悪いことも起こるだろうと言っていました。加えて、この悪い面を経験することでわたしたちは次のステージへ、より善的なものに反転していけるとも語っていました。拡張からの反転、衰退からの復活は、決してネガティブなものだけではないわけです。

人間中心主義を反転させるデザインの可能性

中西:『遥かなる他者のためのデザイン』の最後に、「ポストヒューマンの時代がもうすぐやってくる、デザイナーはその準備をしておかなければならない、人間を中心に考えたデザインの宿命を反転しなければならない」と書かれています。荒川修作も天命反転という言葉で、居心地のよいものばかりをつくろうとする人間の性を反転させない限り遠くへ行けないと言っていますよね。

久保田:天命反転は、英語の “Reversible Destiny” を訳したものです。人間中心主義が人間の天命であるすれば、反転可能な天命とは、人間中心主義を反転させることを考えることかもしれません。

コンピュータインターフェースのデザインも、ユーザビリティを重視したものがほとんどですが、本来は人間の文化と同じように、多様な文脈を持ったオルタナティブなインターフェースが共存できたはずです。しかし、スマートフォンのようなデバイスが、爆発的に普及してしまったことで、その方向性は狭まっていく一方です。

わたしがアンソニー・ダンとフィオナ・レイビーの『スペキュラティブデザイン』を監訳した際に印象的だったのは、二人がデザインの可能性を信じていることでした[5]。これまでのデザインの主な目的は、人間の生活をより気持ちよく快適にすることでした。しかしデザインにはそれ以外の可能性もたくさんあります。人間以外のものを含んだ、環境全体が共存していくための行動をデザインすることもできるはずです。

スペキュラティブ・デザインという概念が登場するまでには、デザインの長い歴史がありました。その祖先のひとつに、アーキグラムがあります。新しいものを評価するだけではなく、これまでのデザインの歴史や積み重ねをもう一度見直すことで、当時とは違う意味を見出していく必要があります。近くを見ることと遠くを見ることは決して相反しません。この期に及んでもなお、突飛なことを言い合うゲームのような言説ばかりが出てきますが、それでは本当に大事なことを見落としてしまう気がしています。

久保田晃弘
多摩美術大学情報デザイン学科メディア芸術コース教授/アートアーカイヴセンター所長。「ARTSATプロジェクト」の成果で、第66回芸術選奨文部科学大臣賞(メディア芸術部門)を受賞。近著に『スペキュラティヴ・デザイン―未来を思索するためにデザインができること』(BNN新社/監修/2015)、『バイオアート―バイオテクノロジーは未来を救うのか』(BNN新社/監修/2016)、『未来を築くデザインの思想―ポスト人間中心デザインへ向けて読むべき24のテキスト』(BNN新社/監訳/2016)、『遙かなる他者のためのデザイン―久保田晃弘の思索と実装』(BNN新社/2017)、『メディアアート原論』(フィルムアート社/畠中実と共編著/2018)、『インスタグラムと現代視覚文化論』(BNN新社/きりとりめでると共編著/2018)『世界チャンピオンの紙飛行機ブック』(オライリージャパン/監訳/2019)など。

[1] 久保田晃弘, 遙かなる他者のためのデザイン ─久保田晃弘の思索と実装, ビー・エヌ・エヌ新社(2017).
[2] ジョージ・レイコフ, マーク・ジョンソン, レトリックと人生, 大修館書店(1986).
[3] ジェームズ・ブライドル, 久保田晃弘(訳), ニュー・ダーク・エイジ-テクノロジーと未来についての10の考察-, NTT出版(2018).
[4] https://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/lanier
[5]アンソニー・ダン,フィオナ・レイビー,久保田 晃弘 (監修), スペキュラティヴ・デザイン 問題解決から、問題提起へ。 未来を思索するためにデザインができること, ビー・エヌ・エヌ新社(2015).

(テキスト=秋吉成紀、編集=岡田弘太郎)

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