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宗教と神話がつくり出してきた「ヒトと異なる知性」。 ヒューマンセンタードを超えたワイズフォレストを求めて(後編)連載「スマートシティとキノコとブッダ」ゲスト:石倉敏明

Photo by Raimond Klavins on Unsplash

石倉敏明(秋田公立美術大学大学院 複合芸術研究科)
中西泰人(慶應義塾大学 環境情報学部)
本江正茂(東北大学大学院 工学研究科)
石川初 (慶應義塾大学 政策・メディア研究科)

知性の「座」をどこに置くのか。ヒトと異なる思考者との共異体

本江:「知性の座をどこに置くのか」というのは大変示唆的な問題設定だと思います。

中西:日本人、あるいは東洋人にしてみれば、「『人間だけに知性があるので、人間を中心に考えていく』というのは間違っている」と言われると「それはそうだよね」と自然に納得できるとも思うのですが、西洋人からするとエポックメーキングな考え方なのでしょうか?

石倉:そうですね……。東洋と西洋というのはあまりにも図式的な区分かもしれません。しかし、ヨーロッパの人文科学は基本的に一神教と対峙しながら「人間」を自然から切り離して理解しようとしてきたわけですから、21世紀に生きる私たちはその初期設定を相対化して、「人間だけに知性や心がある」という人間例外主義から脱却する必要があるのではないか、と思っています。この問いはじっさい、東洋と西洋という区分を超えた普遍的な関心事になりつつありますよね。
 例えば社会人類学者の久保明教さんは、「欧米と日本では『人間とロボットの関係性』が違う」と言っています[10]。日本人はaiboのようなロボットをつくって「人間とは違うもうひとつの自己を持っている存在」として認識している、と。「ロボット(robot)」という概念は今からちょうど100年ほど前にカレル・チャペックが『R.U.R』という戯曲の中で創造したものです。チェコ語で「強制労働」を意味するrobotaという言葉から造語したそうですが、要するに、ゴーレム的な労働人形としてロボットという言葉は生まれてきたんですね。しかし、なぜか、日本人はペット的、コンパニオン的なロボットを欲して実際につくっている。「苦役としての労働を肩代わりする」という発想からは、確かにズレています。
 実は、これって日本人には昔からあった感覚だと思うんです。家や村といった生活空間の中に、またそれらを取り巻く森や山といった空間に、人間以外のモノが共存している、という感覚。ぼくは「共異体」という言い方をしているんですが、日本人は、共同体というよりも「異種とともに存在するコミュニティモデル」の中で生きてきたのだと思っています。押し入れを開ければ「ドラえもん」のような不思議な他者が居て当たり前ということですね。

中西:確かにそうですよね。

石倉:形が崩れたネコ型ロボットが押し入れに居るというのは座敷わらし的ですよね。

本江:妖怪的ですね。

中西:ハリウッド映画で「クローゼットの中にダメロボットが居ます」というストーリーはなさそうです(笑)。

本江:ベイマックスにしても、見た目は間抜けに見えるけれど実は超人的な能力がある、というのでないと許されないですね(笑)。

石倉:学習机の引き出しが四次元になっていて、押し入れにいるネコ型の神様がポケットから無限に便利な道具を引き出してくれるというのは、見事な高度成長期の日本神話であると同時に、非常に日本人的な「神様に対する考え方」の表現だなと思います。しかもこの神様は、大量生産された異種のロボットなのです。そこには科学技術への憧れとともに、自分を支えてくれるものへの甘えの構造も含まれていますが、重要なのはのび太少年にとっての「コンパニオン」であるということです。ハラウェイ的に言うなら、ドラえもんには「コンパニオン・スピーシーズ(伴侶種)」の問題系と「サイボーグ的身体」の問題が連接していると思います。「コンパニオン」の語源は「共食者」という意味ですが、ドラえもんというキャラクターも、飼い主と一緒にご飯やどら焼きを食べる共生種として描かれます。敵対者だったオオカミが共食者のイヌになっていく時、変わっていくのは犬だけではなく、人間も自己家畜化して、もはやイヌなしには生きられない社会的存在に変貌していきます。「接触する以上、離れることができないものになっていく」ということがハラウェイのコンタクト・ゾーンの問いには含まれていて、これは「伴侶動物」だけにとどまらず、「伴侶ロボット」にも当てはまる話ですね。同様に、化学肥料に依存してしまった農業があり、クルマ社会に適応する都市生活者があり、コンピュータやスマートフォンなしには生きていけない現代人がいる。それを突破するためには、のび太君のようにドラえもんとの二者関係から離れて、いじめっ子のガキ大将や金持ちの少年、お転婆な女の子も含めた集合的な協働的知性の中に入っていかなければなりません。それは「人間ではない思考者・考える者」がすぐそばにいる社会モデルになっていくだろう、と思うんです。たとえば、ラトゥールらが唱えるアクター・ネットワーク理論[11]【註:ANT=Actor-network-theory/アクターネットワーク理論】のような、人間と非人間の集合体として世界を捉え直すモデルが相応しいと思います。

ヒューマンセンタードの限界を超えるためには

本江:ラトゥールのANTの話が出てきましたが、「万物が考えてそれぞれ影響し合っています」というと、日本人はすんなり「そうだよね」と思えるけれど、欧米人にとってはすんなり受け入れられない考え方なんですか?

石倉:ラトゥールはガブリエル・タルドやミッシェル・セールの影響を受けて、ヨーロッパに受け継がれた自然思想と人文主義、「個」と「群れ」の思想を調停する形で「人間と非人間のネットワークの中にある知性」という内在型の思考モデルを構築します。ですが、最初は随分批判を浴びたようですね。ラトゥールはそこで、人間とモノが完全に並列化されてしまうような、俯瞰した視点を導入します。そこで、この理論の頭文字を使って「アリ(ANT)」のモチーフを使って、アリが巣を形成するようなモデルを考えているんですね。非常に俯瞰的に解像度を低くして見ると、人間も動物もクルマもドラえもんも、みんなアリのように働いているではないか、と。

本江:わちゃわちゃと動いて何かに群がったりしていて、全体で生きている、と。

石倉:ええ、そうです。この比喩は、確かに人間の脳を中心に、道具を従える身体という前提を突き崩すのに有効でした。しかし、ラトゥールの「アリ(ANT, Actor Network Theory)」は機械論的で、あくまでも「点」としてのアクターと別のアクターの関係性として「集合体の働き」が問われることになります。これに対して、実はイギリスの人類学者ティム・インゴルドが、「クモ(SPIDER, Skilled Practices Involves Developmentally Embodied Responsiveness)」という別の対抗的なモデルを提起することになります。「アリのように点と点が協力するのではなく、スパイダーのように生の軌跡としての『網(メッシュワーク)』を張り巡らせ、その網の中で応答し、絡まり合う関係を問うことが大切なんだ」というわけですね。そこからインゴルドはさらに現象学的に問いを深めていって、さきほどお話した「人間生成(Human-Becoming)の問い」が生まれてきているわけです。
 この辺りの論争はユーモアがあって面白いんですが、さらにこうした動きがさらに大きなポリティカル・エコロジーへの呼び水にもなっています。つまり、今、次代の世界モデルに応用可能な形で、人類学の新しい潮流を理論化しようという流れが生まれてきています。ラトゥールやインゴルドの理論、つまり人間と自然の二項対立を乗り越える「存在論的転回」の流れを受けて、これを開発主義的なナラティブに対抗する新たな世界制作の運動に鍛え上げていこうとする動きがあるんですね。例えばコロンビア出身の人類学者アルトゥーロ・エスコバルは「存在論的デザイン」という概念を発展させて、共通世界のヴィジョンを欠いた利益至上主義を更新するような、先住民の知恵と現代社会を融和させる社会モデルをつくっていこうとしています[12]。これは「ウィズダムを組み込んだスマートシティ」の考え方に非常に近いと思われます。「自然は開発すべき資源であって開発の歴史は決してもう変えられないのだ」という経済成長至上のモデルから、「自然との共生に基づく複数の知恵」を共存させようとする脱成長的モデルに切り替えていくため、「存在論的デザイン」の発展形、あるいは人類学的な世界制作論への切り替えが必要ということですね。

本江:そのように新しい考え方を始めようとする時に人は特別で特権的な地位を占めているという前提を諦めるのはかなり難しそうですね。「キノコもブッダもAIも人もいる」というふうに自分たちを相対化することはできるのか……。スマートシティの構築も、普通に考えれば、やればやるほどヒューマンセンタードですよね。だって自分たちが自分たちとして特別というのは、まあ、当然のことなので。限界合理性を超えた世界モデルは観念としては成立するにしても、政治や社会を駆動するシステムとして実装できるのかということですね。何か、言葉遊びみたいになってしまいそうな……。

石倉:人間を世界の支配者とする思想を乗り超えるためには、「我思う、ゆえに我あり」というデカルト的な思考のモデルをどう組み替えていくか、ということが重要なのではないかなと思います。それで、ぼくは「主体というものは考える前に何か食べているんじゃないか」と思考実験してみました。「我食べる。ゆえに我あり」ですね。そこから、人間の食べ物である動物も主体だと考えると、「我食べる」と「我食べられる」という関係性が反転して「我食べられる。ゆえに世界あり」というふうに、食物網に支えられた世界の存在論が現れてきます。これを、物質代謝の流れの中で考えれば、人間が「我食べる」という態度で食べたものは内臓で消化され、外に排泄され、分解されていく。内臓が食べ物を消化する装置であるならば、身体の外に出されたものを分解する装置や空間として、外界の自然の中に「外臓」があると考えてみることも可能です。物質の分解、還元、循環を都市の中に組み込んでいくには、人間の「内臓」とつながる「外臓」という空間が存在することによって、複数種が「共に食べるもの」という伴侶種の関係によって結ばれ、共に解体されてゆく新たな分解・代謝モデルが成り立つのかなと考えました。

中西:その「外臓」の発想をスマートシティに取り込むならば……「スマートシティは超ハイテクなので土葬ができます」みたいなことでもいいわけですね。「バイオテクノロジーが高度に発達してキノコがすごく活躍するデザインになっているので、火葬せずに土葬でも大丈夫です」と。

本江:スマートシティという名前で呼んでいるうちは「我々がつくっているんだから、我々が利を得られるように設計する」と言う状態が続くと思いますが、「ワイズフォレストの中に我々が居る」みたいな感覚を持てれば、「ここはAIの顔を立てておこう」とか「ロボットにも都合があるよね」と思えるかもしれません。AIが勝手につくった成果がたくさんあって自分はそのおこぼれに与っていると思い始めれば、傲慢なヒューマンセンタードではなくなるんじゃないでしょうか。その事態が何らかの神話として表現されれば「そういうものだ」と腹落ちできるようになる。そのくらいの転換が必要なんじゃないかな。

AIがワイズフォレストになる可能性

石川:今日の石倉さんのお話の中では、やはり、「ワイズフォレスト」という語がけっこうキラーワードですね。ワイズフォレストというコンセプトと対峙した時にスマートシティって言い方は、なんか小賢しいかんじがします(笑)。

本江:まあ、なんか、そうですよね(笑)。子どもの秘密基地っぽい名前でもある。あっという間に壊れる。それはそれで尊いんですけど(笑)。

石倉:「ワイズフォレスト」のモデルは、先ほども少しお話ししたネパールのサンクという街の神話でした。曼荼羅の外にある「森の寺(グン・バハ)」は、人間中心の都市国家の外にあって、「世界のはじまりの場所」ということになっています。創世神話の聖地ですね。サンクは曼荼羅モデルの都市ですが、この都市には4つの門があって、南側の2つの門は嫁が出入りしたり、情報と物流が出入りしたりする社会的な境界になっています。これに対して、北側の2つの門は女神の山車を招いたり、ご遺体を外に出したりする神聖な境界で、非常にコスモロジカルな曼荼羅のモデルを作っています。ネワールの王様が統治するコスモロジカルな曼荼羅のモデルになっている。そして、この曼荼羅を相対化するように、街の外部には「ワイズフォレスト」としての寺院があって、そこにはヴァジュラ・ヨーギニーという、世界の始まりの時に生まれた女神がいる、という神話が伝えられています。このワイズフォレストでは、動物を殺すことは許されず、木を抜くことも許されない、完全な非暴力のアジールです。網野善彦さんが研究していたような「無縁」の場所に近いイメージですね。
 人間中心の矛盾に満ちた世界の外に一種、キノコ的な解体者の世界があることによって、人間中心の世界が相対化されていきます。中沢新一さんは「複論理(バイロジック)」や「レンマ学」といった思想によって、こういった「縁と無縁」や「対称性と非対称性」の関係を論じていらっしゃいますが、まさに「ロゴスとレンマ」という2つの異なるシステムが支え合っている状態ですね。「森の寺(グン・バハ)」は埋葬地の先にある自然のアジールで、カースト制度の外にある自由な聖地です。

中西:そういう意味では、トヨタが「ウーブン・シティ(Woven City)」というスマートシティを富士山の裾野に建設しようとしていますが、奇跡的にワイズフォレストとスマートシティのコントラストが生まれる立地になっているのかもしれませんね。

本江:そうですね。直感的に「富士山なしでやるのはやばい」と思ったのでしょう(笑)。

中西:ワイズフォレストとしての樹海との関係をどう結べるか。

石倉:スマートシティ/ワイズフォレストの二重性について考えるとき、日本の山林仏教のことが思い浮かびます。日本の仏教をずっと支えてきたのは「聖(ひじり)」の存在なんですね。聖の語源は「火(日)を知る」、つまり、「火」のおこし方を知っているという意味と、「日(暦)」を知っているという意味があって、これは森と都市をつなぐ知性であり、思考なんです。飛鳥時代から奈良時代にかけて、聖は律令仏教から弾き飛ばされて、2つのタイプの非制度的な仏教をつくっていきます。一方は行基のような土木の公共事業に通じた聖でのちには国家の仏教に組み込まれていき、大仏建立のようなプロジェクトを通してスマートシティの創設に関わリます。もう一方は伝説上の役行者(えんのぎょうじゃ)のように直接的に山に入っていく聖で、このワイズフォレストから山伏も生まれてくる。平安時代になると、この2つの聖のシステムをつなぐような形で最澄と空海がそれぞれ比叡山と高野山を開く。つまりワイズフォレストの仏教化ですね。どちらも京都のスマートシティのほうにもセンターとなるお寺をつくって、ワイズフォレストとスマートシティを結ぶ平安京モデルができあがるわけです。その後、両者は庶民の生活から遊離してしまうのですが、鎌倉時代の転換期になると聖たちが山から里へと降りてきて、鎌倉仏教をつくっていく。そう考えると、日本の仏教はかなり聖の運動によってつくられてきたもので、常にスマートシティとワイズフォレストの往還によってつくられてきたものだなと思います。

本江:となると……王城が荒廃している現在、鎌倉時代の行者のように、誰かが山から降りてくるのを待ちたいところですね。

中西:誰かいるんですかね(笑)。

本江:たしかに、降りてきてくれる現代の聖はどこにいるのか。fireとdateを知っている人が助けに来てくれると思うのはドラえもんの国の発想なのかもしれないけれど、本当にそんなことはあるのか。グローバリズムが言うように「そんな人はもういない」あるいは「外部なんかない」と諦めて、違うビジョンを持たなければならないのですかね。

石川:それに加えて言うならば……デジタルテクノロジーやネットワークが進化するとスマートシティがワイズフォレストになっていく可能性はあるのか。あるいは、それらはあくまで王権の及ぶシティの中だけで発揮されるものなのか。

石倉:なるほど、それは深い問いですね……。少なくとも、知性の座を人間の占有物にしないこと。シティの周縁部で起こっている価値の交換に視点を置くことは大切だと思います。現代の気候情報学やポリティカル・エコロジーのように、「非人間のために役立つAIの使用」をどんどん実現していったら、新しい形のワイズフォレストを再構築できる可能性もあると思います。
 よく「AIへの代替によって30年後に現在の職業がなくなる」という話があるけれど、実は人間的な仕事ではなく、有害な仕事や無駄な仕事がたくさん出てくるだけかもしれない。デヴィッド・グレーバーが「ブルシットジョブ(クソどうでも良い仕事)」と言っているように。そう考えると「AIを本当に役立てるためにはどうすればいいのか」という問いが必要になってくると思います。人間の下僕となる便利屋や戦争屋としてのAIではなくて、虫たちが農業と共存できるためのAIとか、菌類やウイルスのシステムと人間を共生させるためのAIとか、漁業資源や土壌環境保全のためのAIが必要です。いろいろな形で「目に見えない自然」の中で役に立つAIが必要かもしれないと思うんです。それは複数の知性をつなぐ倫理学の構築とつながってくると思います。
 岩田慶治さんという人類学者が「文化というのは蚕の繭のようなものだ」と言っています[13]。人間は繭の中に居て、外界とは膜で仕切られているから外が見えない。人間が見えているのは自然の半分に過ぎない。「半自然」に過ぎないと言うわけです。この「隠された自然」に対してAIをどう役立てていくかが、未来の社会と文明にとっては重要なんじゃないでしょうか。
 エドゥアルド・コーンが「『考える森』と呼んでいる新しい記号学的な人類学も、新しいAIの活用法に道を開くのではないかと思います。異なる種をつなぐ森のシステムを「開かれた全体性」とコーンは言うんですが、これは常にバラバラになったり組み替えられたりしながら生まれてくるものと死んでいくものがオープンに新陳代謝していく関係性のモデルです。人間を超えた一種の超知性体であり、神様化する可能性もある森の知性作用が人間とAIの相互作用の中に生まれるのかどうか、けっこう大きな問いなのではないかなと思います。

朽ちていく知性。土に還っていく知性

本江:『トランセンデンス(Transcendence)』という映画がありました[14]。ネタバレになっちゃうけれど……あの映画では、敵対していたAIが砂漠を緑化したり、水を浄化したりして、愛が地球を癒します……「地球が良い星になります」みたいな形で終わるんですが、人間が人間のためにAIを設計している限りは、なかなかそうはならないというかんじもありますよね。さっきの話で言うならば、AIも人間との関係性や他の環境との関係性において「becomingな存在」としてセットされるのかということ。まあ、そもそもAIのテクノロジーはまさに今、成長段階にあるし、食べたデータや自分たちが作り出したデータによって成長していくものなので、人智を超えた知性としてドライブするということもイメージできなくはないですけどね。

石倉:外在的な「神のトランセンデンス」に対して、内在的な「ワイズフォレストの中での超越」……。最近、ぼくは「世界をコントロールしてつくっていくという意味でのトランセンデンス」に対して、「自らも朽ちていく存在としての知性」をデザインするのは可能なのか、ということを考えているんですね。後者こそ、実はニルヴァーナ(涅槃)というブッダの到達地と関係あると考えています。
 「涅槃経」には、ブッダはその最期の旅の果てに、ある食べ物の供養を受けたことが説かれています。すなわち、クシナーラーに住むチュンダという男が差し出した「スーカラ・マッダヴァ」という料理で、ブッダはこれを食べて、お腹をこわして死んだ、と。この料理は「柔らかい豚肉・猪肉」という意味だと言われてきました。しかし、実は「豚が探し出す柔らかいトリュフ料理」を指す、という異論もあります。真菌学者のロバート・ゴードン・ワッソンは後者の説に立って、仏教がヒマラヤ山麓に広がる「キノコ好き」の文化を基盤にしていることを論じていますが、真実ならば、まさにブッダはキノコを食べて死んだことになりますね……。普通に考えれば、この料理を差し出したチュンダという鍛治職人はブッダの死因をつくったわけですから、信徒から大いに非難されてしまうはずです。しかし、涅槃教に書いてあるのはそれと逆のエピソードなんです。ブッダは悟りを開いた後に、スジャータという娘から乳粥の供養を受けます。これは衰弱した身体を癒したこの上なく重要な食べ物であり、「乳粥供養」として神聖視されています。そして、涅槃経に登場する最晩年のブッダは「チュンダという信徒が私のためにくれたスーカラ・マッダヴァは、最後の供養であり、かつてスジャータが供養した乳粥に匹敵する重要な功徳である」と説いているんですね。ネパールにはこれに基づいて「二つの功徳」を祝うお祭りがあります。
 この話からぼくが思うのは「ブッダという存在は『朽ちていく知性の体現者』である」ということです。最終的に土に還っていく知性。ブッダの悟りというのは、最終解脱者になる知性ではなく、世界をコントロールする超越的知性でもなく、モノリスのような、人間が触れると覚醒するような知性でもない。「老いて、朽ちて、食べて、死んでいく。その中にある知性」、あるいは「時間を組み込んだ知性」なのではないか……。そう思うわけです。
 スマートシティは空間的に構想されるものかもしれないけれど、そこにどうやって時間的な有限性を組み込んでいけるか。これは「解体」を受け入れるということであり、食べるものが、食べられるものに回帰していくという大きな循環の思想だと思います。

本江:なるほど……。現在のスマートシティは「正しく廃墟になっていく」ということなどまったくイメージせずにつくっていますからね。

中西:ああ、、、たしかにそうですね。

本江:いいかんじで滅びていくことを構想するのはなかなか難しい。

石倉:有限と無限の関係をうまくコントロールしつつ、ウィズダムとスマートの関係性をどのようにデザインしていくのか。そこから新しいスマートシティの考え方が出てくるかもしれません。

中西:そう考えると、スマートシティに一番欠けているのは「悟り」なのかもしれませんね。

(2020年12月15日 Zoomによるインタビューにて)
(テキスト・編集=清水修 Academic Groove

[10] 久保明教, ロボットの人類学―二〇世紀日本の機械と人間, 世界思想社 (2015/03)
[11] ブリュノ・ラトゥール, 社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門, 法政大学出版局 (2019/01).
[12] Arturo Escobar, Designs for the Pluriverse: Radical Interdependence, Autonomy, and the Making of Worlds, Duke Univ Press (2018/03).
[13] 岩田慶治,コスモスの思想―自然・アニミズム・密教空間, 岩波書店, 174頁(1993/05).
[14] https://ja.wikipedia.org/wiki/トランセンデンス


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