「スマートシティ」は人類の知性や徳を上げてくれるのだろうか?:連載「スマートシティとキノコとブッダ」中西泰人 × 本江正茂 × 石川初 キックオフ鼎談
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「スマートシティとキノコとブッダ」。いかにも結びつかなそうな3つのキーワードから、ポスト人間中心デザインによる新たなる世界像と、これからの都市のあり方を描こうとするプロジェクトが始まった。
「これからのデザインの行方・POST Human Centered Design, Pluriversal Design」「テクノロジーと新たな都市活動」「非人間的な知性達と紡ぎ出すエコロジー・マルチスピシーズ人類学」「ポストヒューマンと知性(人知を超える・非合理的に思考し生きる術)」「自動運転車・ロボット・AI」という5つのカテゴリを設定し、各分野のエキスパートへのインタビューを通じて、新たなるパースペクティブの獲得を目標としている。
本プロジェクトのスコープを明らかにするべく、プロジェクトメンバーである中西泰人(慶應義塾大学 環境情報学部)、本江正茂(東北大学大学院 工学研究科)、石川初(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科)による鼎談を行なった。
なぜ「スマートシティ」と「キノコ」と「ブッダ」なのか。これから立ち現れる人知を超えた環境知能とはいかなるものか。2時間以上にわたる鼎談の様子をレポートする。
プロジェクトメンバー
中西泰人(慶應義塾大学 環境情報学部)
本江正茂(東北大学大学院 工学研究科)
石川初(慶應義塾大学大学院 政策・メディア研究科)
岡田弘太郎(編集者)
ロボットのネットワークが覆い尽くす都市風景
岡田:今回のプロジェクトが始まった経緯から伺いたいです。中西さんが本プロジェクトの発起人であると思うのですが、なぜ「スマートシティとキノコとブッダ」というテーマなのでしょう?
中西:どこから話すべきか迷いますが、まずわたしの研究の変遷を紹介させてください。わたしはこれまで、ヒューマンインターフェースにフォーカスをしつつ、モバイルテクノロジーやセンシングテクノロジーなどを使った情報技術と実空間の新しい関係について研究してきました。少し前であればユビキタスコンピューティングやIoTなど、最近であればソサエティー5.0やデジタルトランスフォーメーションなどのキーワードで語られる領域ですが、ある時からスマートフォン以降の情報空間と実空間の結びつき方が、その没入感の高さゆえにナローな感じになってしまった。人々がスマートフォンを通じて隣の人と話すような感じがあり、スマートフォン向けの新しいアプリをつくることに個人的には関心を感じられなくなってしまいました。
そうなったときに関心が向き始めたのがロボットの分野です。自動運転車がリアリティを持ち始めたころで、わたしたちが暮らす都市空間の中で、移動能力と知的能力を備えるモノが非人間型ロボットとして現れる未来がやってくるのではないかと思ったんですね。そこから、そこまで知能は高くないが情報処理能力と移動能力をもつオブジェクトが身の回りにある世界に関心が向かっていきました。もし自動運転車が街中を走り始めると、そのロボットのネットワークが街を覆い尽くす状態になるので、どういうアルゴリズムでその車が街中を走り、廃車されていくのかも分からないまま、末端のサービスを受けていく感覚になる新しい都市体験が生まれる可能性があります。
100%理解できない知的オブジェクトが自分の身の回りを移動し続ける風景が、心地良いのか心地良くないのかは分からないですけど、近い将来に立ち現れる風景ではあると思います。それが「スマートシティ」と呼ばれるものかどうかは、ぼくにもまだわからないですけれども、少なくともこれまでの都市と呼ばれてるものからジャンプすることは間違いない。ただ、それは人間を凌駕する知能が現れるというシンギュラリティのような考え方とは少し違うんじゃないかと思ったんですね。
「スマートシティ」は人類の知性や徳を上げてくれるのだろうか?
岡田:プロジェクト名に「スマートシティ」という言葉を入れつつも、その未来の都市像が「スマートシティ」かどうかはよくわからないわけですよね。
中西:正直、「スマートシティ」という単語がイメージを膨らませない原因なのではないかと考えている部分があります。
本江:「センサーがあちこちにある」くらいの認識も多いように思えますね。
中西:そう。スマートシティを漢字で翻訳すると、知的都市や知能都市などいくつか表現があると思います。一方、AI=アーティフィシャル インテリジェンスを漢字に訳すと日本語では人工知能とされていますが、中国語ではこれを人工知慧と訳すこともあるようです。人工知能と人工知慧では日本人にとって漢字のニュアンスが少し違いますよね。同様に、スマートシティを知的都市と訳すのか、知慧都市と訳すのか、はたまた機知都市と訳すのかでは、ニュアンスが全く異なります。
石川:たとえばスマートフォンという言葉も、これまで行なわれていた作業がスマートに行えるという意味なのか、センサーがいっぱいあるからスマートと付いているのかが明確ではなく、単にそのままの単語として受け入れられているきらいがありますね。
中西:「スマートシティ」もあらゆるアプリケーションが動く器として捉えられているに過ぎなくて、その中で何が起きてるか、何を起こそうとしてるかについてはあまり議論されていないように思えます。
本江:「エネルギー効率を上げよう」や「セキュリティーを高めよう」などの、「パーソナルコンピューターを使ってExcelとWordで生産性が上がります」程度の定量的に測れるようなことしか従来のスマートシティについては語られていませんね。
中西:パーソナルコンピューターが登場し、インターネットが普及しはじめた頃には、人類が知的に進化するんじゃないかということが真面目に議論されていました。現在のSNSのあり様を見るとそうとは限らなかったとひしひしと感じていますが、包丁が人殺しの道具になり得るのと同じで、要は道具の使いようでしかありません。少なくともスマートシティに関しても、そのポテンシャルがどのような新しい方向性を生み出すのかについての議論がもっとあるべきではないかと個人的に思っています。
近代的な都市計画には労働環境の向上や疫病感染防止などの目標があったように、都市計画の中には人間の生活をより良くしようという目的が必ずあります。センシング機能などに裏付けされた人智を超えた知能があることで、ゆずりあいの精神が発揮されたり、よりクレバーな判断がなされるようになったり、人類総体としての知性や徳が上がるのであれば、スマートシティをつくる価値があると思うんです。
本江:スマートシティを捉えるために、『社会は情報化の夢を見る』などで知られる佐藤俊樹氏が言う「ハイパー」と「ポスト」が参考になると思います。日本はこれまで、ついに情報化社会が来ると70年代ぐらいから繰り返しずっと言ってきましたが、時代ごとに読み解いていくと大きく分けて2つの捉え方があると言います。1つは同じ価値観の延長線上にある高性能社会を指す「ハイパー」、もう1つはどこかで閾値を超えてシンギュラリティなどが起きて全く異なる社会像が立ち現れると考える「ポスト」です。
スマートシティにも同様のことが言えますが、いま語られているのはハイパーシティとしてのスマートシティばかりで、ポストシティとしてのスマートシティについては真剣に議論されていません。これは、エスタブリッシュメントは「ハイパー」だけを求めているため、「ポスト」に対する期待がないからであり、だからお金がつかないのですが(笑)、「ポスト」には間違いなく可能性があります。
このプロジェクトでは「ポスト」の話をしたいですね。ポストシティとしてのスマートシティ、あるいはポストアーバニズムがあるとするならば、それはどのようなものだろうか。色んな人と一緒に勉強させてもらいながら考える機会にしたいですね。
ローカルな知性がネットワークされた
ボトムアップ的知性の象徴としての「キノコ」
岡田:では、「キノコ」にはどういう意味が込められていますか?
中西:キノコも知能を持っているという研究結果が発表されているのを見て、面白いなと興味を持ちました[1]。わたしたちはキノコの胞子を飛ばす花のような部分だけを「きのこ」と呼んでいますが、その本体は菌糸のネットワークです。アメリカ・オレゴン州には文京区を覆うほどのサイズの菌糸を張ったキノコが存在するそうです[2]。ふだん人の目に見えているキノコのは全体のごく一部分で、その実態は土の中に菌糸を張り巡らせて存在している。その目に見えない菌糸のネットワークと目に見えている一部分の関係が、都市のおけるサービスのあり様を考えるためのもうひとつのメタファーになると考えました。都市を覆っているサービスがあり、自動運転車などのその一端が顔を出しているイメージですね。
石川:そこでいう「知能」は通信で結びついた集合知ですよね。
中西:スマートフォンのサービスを使ってる人もその全容を把握せずにサービスを享受できています。人々はどうやって電波塔から電波を受け取り、どうやってIDをハンドオーバーされているか知らない。知らないからこそ使えているわけですが、都市生活を支えているインフラそういうものばかりだと思うんですね。
そして、電気や水道から鉄道まで物理的に固定されたインフラやサービスは時代を経るごとにフレキシブルになっています。インフラがさらに動的になりながら、知的能力を備えていくように今後の都市は変容していくのだと思います。それをスマートシティと呼ぶのかも、その都市を誰が設計するのかも分かりません。そもそも都市というものも曖昧な定義なので何をもってして都市と呼ぶのかもわからない。都市サービスと言うのか、都市エクスペリエンスと言うのか、はたまた都市インフラと呼ぶのかもレイヤーによってニュアンスは異なるとは思いますが。
人間では捉えきれない広範囲な視野を持つ
トップダウン的知性の象徴としての「ブッダ」
岡田:続いて、なぜ「ブッダ」なのでしょう?
中西:本江さんとお話した際に考えたことですが、センサのネットワークは「鎮守の神様」のような、人間では捉えきれない広範囲な視野を持つトップダウンな知性としてイメージすると理解しやすくなると思うんです。都市を守っている人智を超えた知能がローカルに点在するイメージのほうが日本人には馴染み深く、理解しやすいのではないかと。
本江:氏神信仰のようなものですね。
中西:キリスト教やイスラム教のように宇宙のどこかにいる絶対神がわたしたちを見守っているという一神教的な世界観よりは、何種類かの神様がローカルにポツポツといる世界観があっても良いと思います。
人智を超えた知能と付き合う方法は、人類としてはあまり変わらないと考えています。これまでさまざま文化の中でローカルに存在してきた人智を超えるものと付き合う方法の延長として理解するのがいい。この「鎮守の神様」「ブッダ」というメタファーなど、固有の文化に由来したスマートシティの理解のされ方を考えても良いのではないでしょうか。
キノコにせよブッダにせよ、これまでの都市の延長線上からジャンプした都市を描くためには、これまでヒューマンスケールで考えられてきた設計を逸脱したスケールでものを考え、新しいジャンプを生むことが重要ではないかという仮説をもっているんです。
なので、人智を超えた知能としてのキノコとブッダに挟まれた時、人類はどのように変化するのか。それは、人間中心主義によっては到達できないところに存在する「人間の限定合理性の超越」を意味するのではないかと思うんです。長くなってしまいましたが、キノコとブッダというメタファーをサンドイッチしながら都市を考えていくと何か面白いことが起きるのではないかと考え、今回のテーマに至りました。
マルチスピーシーズ人類学、インフォスフィア、ポストヒューマンセンタードデザイン
中西:最近、マルチスピーシーズ人類学というジャンルを知りました。アナ・チンの『マツタケ――不確定な時代を生きる術』やエドゥアルド・コーンの『森は考える――人間的なるものを超えた人類学』などがその代表的著作だと思いますが、これは非人間的なものにフォーカスすることで人々の暮らしをあらゆる角度で見ていくフィールドワークのひとつの方法です。
本江:そこだけ聞くと普通の民族学のようにも聞こえますが。
中西:民族学は、ある観察者が出会ったことのなかった異なる民族の人間を記述していく学問ですが、『マツタケ』という本では、ある観察者がこれまで出会わなかった人間を調べるアプローチとして、マツタケを追いかけていくというドキュメンタリーのような書かれ方をしています。アメリカでマツタケ狩りをしてる人たちはどういう歴史や経緯を辿ったコミュニティーの人達だったのか、それが日本にどのように送られて商品になっているのか、マツタケがアメリカと日本の政治のなかでどういう位置づけだったのかなど、マツタケという種を追いかけることで見えてくる人類の姿を記述しています。
一方、エドゥアルド・コーンの『森は考える』では、人間を理解するために人間を観察するのではなく、森の中で動物が記号をやり取りしながら生きているのと同様に、人間もその記号論の中で意味をやり取りしているひとつのエージェントに過ぎないと捉えて、幅広くその種を取り扱おうとする考え方をしています。コーンは、人間中心主義が良くないから盲目的に自然は良いものだとするのは、ある種のヨーロッパのロマン主義的な考え方であり、そこから逸脱したうえで人類と自然を捉えるための方法として「人間的なるものを超えた人類学」を掲げ、それが「マルチスピシーズ人類学」という考え方につながっています。
本江:動植物やAIやロボットなどの非人間的な存在も人類学の対象だということですね。
中西:単なる人類学というと人が人を観察する方法になりますが、マルチスピーシーズ人類学は、人と動物や植物などの非人間な存在の関係を観察することで、人間のアクティビティを浮かび上がらせようとする新しいスタイルの人類学です。この考え方を手引きに、都市のなかに現れるエージェント、それはヒューマノイドなのか自動運転車のような知的能力を備えたロボットなのかはわかりませんが、それらを含めたエコシステム全体から考える必要があると思います。
エコシステムというときに、ティモシー・モートンの『自然なきエコロジー 来たるべき環境哲学に向けて』が参考になります。彼はこの本のなかで、人間を取り巻く無生物を含めた関係をエコロジーと言うのであって、それは自然に限る必要はないと語っています。
さらに参考となるのが、ルチアーノ・フロリディの『第四の革命―情報圏(インフォスフィア)が現実をつくりかえる』です。彼は人間を取り巻くものがもはや物理的な人工物や自然物だけではなく、情報を含めたひとつのスフィア、つまり「インフォスフィア」を構築していると言い、そのなかでリアルワールドのアクティビティが書き換えられているという話をしています。
石川:Zoomを使ったオンラインミーティングなどは、新しいインフォスフィア体験と言えますね。
中西:ZoomもCOVID-19の流行以前からあったサービスですが、僕はニューヨークの研究者と1対1で使ったことがある程度でした。これは、COVID-19が非人間中心主義的な事象だったからこそ新しい体験にジャンプできたと言っていいのではないかと思っています。危機が訪れない限り人は結束しないことを3.11の時にも強く実感しました。これまでのデザインの方法、つまり人間中心主義で考えてしまうと、身の回りの不便を解消するための小さなジャンプは起こせるのですが、大きなジャンプは起こせません。ヒューマンセンタードデザインという現在の人間にやさしいアプローチでスマートシティを考えるには限界があるのではと思います。
課題解決ではない、非連続的ジャンプを起こすために
岡田:本江さんはどのような経緯でこのプロジェクトに参加されたんですか?
本江:先ほどの中西さんのお話と最近の関心領域が近く、信用してる人と一緒に考えられる機会になるのなら面白そうだなと思って参加したのが率直なところです。
わたし自身は、建築が置かれているコンテキストが情報化で変わることで、それがどのようにフィジカルな空間に影響するのかに関心をもっていました。その後は、デザイン思考などの新しいアイデアを考え出す仕組みに関心をもち、2010年から「せんだいスクール・オブ・デザイン」という、建築を中心に多ジャンルの人との共同プロジェクトを実施するデザイン教育プログラムを運営していました。
個人的に、ある課題に対してテクニカルなソリューションを考えてその実現可能性を検証する、ということにはあまり関心がなく、誰しもがモヤモヤと思っていることを言い当てる方が面白いと思っています。
「せんだいスクール・オブ・デザイン」を5年間やった実感として、みなさんソリューションには関心がある一方、言い表されていない事象を改めて問題化すること自体にあんまりピンと来ていない様子で、そこには少々物足らないものを感じていました。機能向上や効率化を良しとするけれども、たいていの場合は価値観の変化は伴っていないので、それはラジカルなデザインとは言えないと思っています。
石川:たいていラジカルに考えることをあまりせずに、小さい話に止まる傾向がありますね。
本江:もちろんヒューマンセンタードデザインの考え方は大事なことではありますが、同じドメインで考えることを許す語りになりがちで、思いもよらないものにはなかなか到達できません。そこからは「ブッダ」や「キノコ」という発想は出てこない。基本的に教育に携わる身なので、そういう発想を生む人になるには、どのようなプログラムがあるべきか、どのような場がセットされるべきなのかについて興味があります。
このプロジェクトでは、わたし自身に強いヴィジョンがあってそれを言語化して実現したいというよりは、従来の延長線上の性能向上だけを目指す議論に引っ張られないために、そうではない方向を目指す議論の場に身を置きたいという願いがあります。パーソナルな期待としては「何言ってんだかわからないけど面白い」という話を延々することをしたいですね。
チューニングの時代とネガティブケイパビリティ
岡田:石川さんはどのような課題意識をもって、このプロジェクトに参加されたんですか?
石川:わたしは以前は建設会社の設計部門にいて、土木や建築の人たちのなかでランドスケープの設計者として働いていました。転職して大学に移ってからは、これまでの仕事で得た知識や私の職能と、SFCという大学で研究され続けてきたことを、どのように接続できるかを課題として考えていいます。
ランドスケープは人間と自然との間に折り合いをつける方法を探るものです。でも、わたしも含めてランドスケープを専門とする人は意外と人間が好きではなくて、自然のほうが好きなことも多いんですよね。本当はこの場所からは人がいなくなったほうがこの生態系はうまくいくのにと思いながらも、ヒューマンセンタードのふりをしているんです。そんな悩ましさと、見知らぬインテリジェンスがどういう世界をつくっていくかという関心とに似たものを感じて、今回のプロジェクトを中西さんから伺った時にピンときたんですね。
以前、中西さんがアメリカの大学のキャンパスで、人間の思惑に関係なく自動的に移動を繰り返すゴミ箱がそこら中にあるイメージを提案されていたのを見たのですが、わたしたちはそのような環境を理解することは難しくても、そこで生活するうちにそれなりに状況に適応した振る舞いを見つけて、楽なありようを探っていくと思います。
中西さんがおっしゃっていたイメージは、これまでデザインの方法としては俎上に上がってこなかったような「諦める」とか「様子を見る」「あるいは途方に暮れる」メソッドであり、それに期待してしまうんですよね。いまの時代は役に立つこと・ものしか求められておらず、無駄とされること・ものは排除されます。しかし、無駄と言われていることも10世紀足せば誤差になることです。そういうデザインの方法を含めて考えてもいいのではないでしょうか。
ランドスケープも開発や建設を正当化する説得材料として用いられることが多いのですが、そうではないあり方を考えていきたい。日本のランドスケープは、コンストラクションの時代から、人口減少の局面を迎えて、メンテナンスの時代に入っていると言われているのですが、その次はチューニングの時代になるだろうと考えています。メンテナンスにも限界が訪れ、お互いが楽な落としどころを探すことが必要になってくる。そのときのロジックは、いままでのデザインの手法としては考えられてこなかったものになるだろうし、「わからないこととの付き合い方」はそのヒントになるだろうなと思うんですよね。
「スマートシティ」も、わたしたちがよく知っている言葉や状態に、新しい事象を当てはめているだけのような感覚があります。本当は人間にとってわからないことが起きるかもしれないのに、とりあえずいままでのボキャブラリーで記述してしまおうとする考えを感じます。
岡田:今のお話を伺って「ネガティブケイパビリティ」という概念を思い出しました。ネガティブケイパビリティは自分の力では変えられない状態や時代と向き合ったときに、事実や理由をせっかちに求めず、不確実さや不思議さ、懐疑のなかにいられる能力を指します。人間とは異なる知性と向き合うときにこの能力が必要になるのではないと思いました。
石川:わたしたちは都合よく世界を解釈してしまうのですが、ふとした拍子に人間とは関係なく自然があることに気が付くことがあります。たとえば自分が作った花壇にさいた花にミツバチが飛んできたとき、ミツバチにとまられているほうが花が嬉しそうに見えることがあります。どんなに水をやって愛情を込めても、その自然のあり方にはかなわない。これは面白いエピソードとして語ることはできますが、体系化することはなかなか難しい。このプロジェクトには、こうしたものを接続して語るパースペクティブを獲得できる可能性を感じています。
COVID-19をいかに後世に受け継ぐのか
岡田:先ほども、パンデミックという非人間的な事象によって大きなジャンプが起きたというお話がありましたが、今回のCOVID-19によるパンデミックがプロジェクトやテーマに与えた影響はあるのでしょうか?
中西:この状態が日常になるのか、かつての日常に戻っていくのか、まだ分からないですが、少なくとも日常の幅が広がるだろうと考えています。特に移動することの意味合いが変わっていくでしょう。人間が移動することの意味合いや、情報が移動することの意味合い、物が移動することの意味合いがバリエーションに応じて広がっていく。物流センターではロボットが以前に増して使われるようになったり、病院の中でもロボットがより活躍したりするんじゃないかと。これまでもポテンシャルはあったと思いますが、道具を使いこなすきっかけがなかっただけなのだと思います。
都市の使い方も含めて、あらゆる変化が起きていくことは間違いないです。マルチスピーシーズ人類学の言い方でいくと、この新しい種がソフトウェアとしてのAIかハードウェアとしてのロボットかわかりませんが、その新しい種と共によりデジタルなものと共存していく方向性は加速するだろうと予想できます。ただ、都市空間の形態が変わるかどうかについてはまだ答えは持てていません。
岡田:今回の規模のパンデミックはスペイン風邪以来であり、「100年に1度のパンデミック」と言われていますが、今回の事象や災害というものは、人間のもつ時間のスケールを超えているため、後世に受け継ぎづらい側面がある気がしています。
本江:仙台を見てみるとやけに海から離れたところに街があります。一見不便な立地に見えますが、これは当時の領主である伊達政宗が約400年前の慶長の津波からの復興のなかで城下町仙台を作った結果だと言われています。実際城下町部分は震災の被害はハザードの大きさに比してごく軽く済みました。このような都市に埋め込まれた防災・防疫の事実を長い時間がたってから事後的に再発見することは往往にしてあると思います。
石川:わたしたちも東日本大震災のあと被災地を見に行ったのですが、多くの建築家が壊れた箇所をどのように直すかについて語っていたなかで、早稲田の中谷礼二さんは壊れなかったところの秘密を探るほうが重要だとおっしゃっていました。そこから「千年村プロジェクト」[3]が始まったのですが、長持ちしてる部分の秘密を探るほうがより射程距離の長い知見を得られるはずだという考え方に強く共感しています。今回のインシデントもその延長として考えられるのではないでしょうか。
複雑な世界やよく分からないものを
そのまま引き受けること
岡田:「スマートシティとキノコとブッダ」は、従来とは異なるエコロジー観が出てきているなかで全く新しいパースペクティブを生み出していくプロジェクトになるかと思ってワクワクしています。
中西:「近代の終わり」をさまざまな方が感じている気はするんですよね。人間が思っていたほど世界はシンプルではなかったということに改めて気付き始めている。石川さんがおっしゃっていた通りで、その複雑な世界やよく分からないものをよく分からないままに引き受けることはメンタルが強くないとできないことかもしれません。
石川:答えを出して安心したいんだと思います。SNSの荒れ様を見ているとそれを強く感じます。
本江:そういう複雑なものをなかったことにしたいように見えますね。
中西:分からないものに包まれている感覚は不安なんだと思います。不安だから荒れてしまう。だけど、人類はずっと分からないものと付き合ってきたということを忘れている気がするんです。ぼくは奈良出身で、寺や神社や古墳など人智を超えたものに囲まれて暮らしてきました。
石川:わたしは宇治出身なのですが、たしかに世界が自分と関係ないところで理不尽につくられてきた感が近畿圏にはありますね。
中西:平城京の遷都1300年記念に朱雀門が原っぱとなっている平城宮跡内に復元されましたが、奈良市民だった僕としては「ずっと原っぱだったのが良かったのに、見えるもん作ったらおもろないやん」「『この辺にあったらしいねん』でもええのに」という感覚があります。
テクノロジーに囲まれれば囲まれるほど、そういう謎を謎のままにしておく感覚から逸脱していく気がするんですけど、世界はぼくらが思っているロジックで合理的に動いてない。そんななかで、どうやって生きていくのかをいま改めて突きつけられているわけですが、実は人類はずっとよく分からないものと付き合い続けてきたのだと思うのです。それを理解したいという欲求が科学の源泉でもありますが、そのまま付き合うという術も人智の一つだと思うのです。
次なる議論に向けて
プロジェクトメンバーの鼎談により、「スマートシティとキノコとブッダ」で議論すべき内容とその指針が示された。
今後は下記の5つのカテゴリから1-2人程度の関連する専門家を呼びインタビューを実施していく。
・「これからのデザインの行方・POST Human Centered Design, Pluriversal Design」
・「テクノロジーと新たな都市活動」
・「非人間的な知性達と紡ぎ出すエコロジー・マルチスピシーズ人類学」
・「ポストヒューマンと知性(人知を超える・非合理的に思考し生きる術)」
・「ロボット・AI(仮)」
それぞれ、「これからのデザインの行方・POST Human Centered Design, Pluriversal Design」ではデザインリサーチャーやデザイン学、人工工学の専門家、「テクノロジーと新たな都市活動」では建築家や思想史研究者、「非人間的な知性達と紡ぎ出すエコロジー・マルチスピシーズ人類学」では微生物生態学と社会人類学の研究者、「ポストヒューマンと知性(人知を超える・非合理的に思考し生きる術)」では哲学者や宗教学者、「自動運転車・ロボット・AI」では情報工学やデザインを専攻する研究者をお呼びする予定。
[1] https://www.tohoku.ac.jp/japanese/2019/11/press20191108-01-kin.html
[2] https://www.scientificamerican.com/article/strange-but-true-largest-organism-is-fungus/
[3] http://mille-vill.org/
(テキスト=秋吉成紀、編集=岡田弘太郎)