本の記録:阿古真理『うちのご飯の60年』

「祖母」の時代(昭和20年代ごろから)は未だに日本の農村部では自給自足の生活が当たり前で、戦前はいわゆる「ハレの日ケの日」の風習が色濃く残っていた。戦後すぐの1945年は米の不作で戦前期の65%ほどしか収穫がなかった。男手が招集されていたこと、冷害があったこと、台湾・朝鮮が独立したことが大きかった。

昭和20年代までは食べることを家族で賄うことが重要であって、機械化が進んでおらず、流通が特に発達していなかった農村の状況では子供も含め大人数の家族で食べごとの仕事をしなければ生活ができなかった。家族総出で食べごとを仕切る上で肝心なことは保存食をつくることであって、農村では家周りにある様々な食べものを蔵や屋根裏や床下に保存していた。興味深いのは、「おやつ」という食習慣の重要性。餅、蒸したサツマイモ、風呂を焚くときに一緒に焼いたトウモロコシなど、三食だけだと栄養が充足していなかったことが影響しているのか、当時は「おやつ」がとても重要だったようだ。

戦後すぐの昭和20年代後半に日本の食に大きな変化があったのは、まず洋食文化の浸透である。戦時中から米の代用主食としてパンはいくつかの地域で食べられていたが、戦後、『主婦の友』や『婦人生活』といった雑誌を通じてカレーライス、コロッケなど、当時の日本人に不足していたタンパク質や油脂を多く含んだ食事が日本中に広がった。これにより食卓の事情にも若干の変化が生じる。それまでは箱膳で食事をとり、軽くお茶で器を洗い流すだけで箱に食器を収納することが多かったが、油脂が食器につくようになると洗剤で食事の都度、食器を洗浄するのが一般的となった。また、台所改善運動がもたらした影響も興味深い。台所改善運動はかまどを中心としたしゃがんだ状態での女性の炊事作業を立ち流しに変えることにより、女性の立場向上を図ったGHQ主導の国策である。GHQは当時、人口の46%を占めた農村に着目し、女性が立って作業すること、そして改善運動の講習会を夜に行うこと(つまり女性が男性を家に残して外出すること)により、男女平等を目指し、日本の民主化を図ったのだった。

昭和30年代は機械化の時代だった。先述の通り、日本における農業とは自給自足のための「農」という特徴が強く、産業としての「農業」への脱皮は容易ではなかった。日本には棚田や段々畑が多かったわけだし。そうは言っても、農村での農業にも機械化の革新は起こっていて、農村にかつてほど人手は必要なくなった。一方で、都会では特需景気に代表される好景気の影響で工場や企業で人手が必要とされていた。集団就職という文化の隆盛もこの頃である。日本津々浦々に産業化の波が押し寄せると社会は徐々に豊かになり、この時代の若者は都会を舞台に消費文化を謳歌した最初の世代であった。そして彼ら彼女は都会の自由な空気を満喫して豊かな生活を送ることで、これまでの農村を中心とした強烈な共同体意識のなかでの生活を抜け出し、男女で恋愛をして結婚するようになった。都会で結婚した若い新婚者たちの生活では「三種の神器」が活躍した。すなわち、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫である。これに加えて、電気釜、水道、ガスの普及といった家庭での機械化は家事を担う女性の負担を大幅に軽減し、時間に余裕ができた女性は最新の家庭料理を勉強したり子供との時間を楽しんだりした。ちなみにこの時代も相変わらず油脂の摂取が大切とされ、なんでも油で炒めることが推奨されていた。炒め物が家庭料理の代表格になるのはこういう理由があるのだろう。

昭和30年代から40年代の日本の食において重要な変化は、家庭料理の充実である。先述の通り、都会で結婚する若い夫婦が増えたわけだが、彼らの住居は狭いアパートだったりするし、家事は機械化によって大幅に楽になった。つまり、家事にかかる時間はとても短いものになった。なので、持て余した時間を主婦たちはどこに向けたかというと、料理であった。『主婦の友』をはじめとした雑誌、あるいはテレビ番組、料理教室などを通して彼女たちは様々な料理を学び、家庭に取り入れていった。ここで重要なのは、こうした料理教授の場では和食の基本的なレシピは常識とされ、主に洋食、中華などのレシピが紹介されていたことである。しかし、若い彼女たちは両親と同居しない場合も多く、「常識」としての和食を教授してくれる存在もなく、いち早く都会的な消費文化に慣れ親しんだ世代だったので、必然的に家庭では洋食や中華が多くなった。

昭和30年代から40年代の家庭料理の充実は少し困ったことも引き起こした。油脂の豊富な洋食や中華が日々の食卓にのぼるようになると、多くの人が質素な食事に満足できないようになっていった。しかし、主婦も毎日毎日、バラエティー豊かな豪華な食事を作れるわけではない。そうした主婦の悩みを解消するのに一役買ったのが、加工食品だった。食べ物の生産が徐々に工業的になるにつれ、食品公害とも言われる食の安全が問題視されるようになる。それは食品添加物に起因していたりするわけだが、家族の需要と利便性・経済性が見事にマッチした加工食品はこの辺りから問題性をはらみながらも拡大していくことになる。

昭和50年代ごろから食の基本にある農の世界で少し歪みが生まれ始める。戦後、産業化が各業界で進む中で、天候などに左右される農業は産業化という側面で遅れをとった。そこで政府は1961年に農業基本法を施行する。農業基本法は農業の産業として自立、つまり効率化とそれによる農家の所得の向上を図った。しかし、農地改革による農地の分散、棚田や段々畑といった日本の農地の特徴に加え、元来、自給自足の農を基本としていた農家たちと政府の意識の差によって、政府が意図したような農業の合理化は進まなかった。その一方で都会の拡大による土地の需要は高まり、そのターゲットは農地に向けられた。かくして、農地は宅地へと変わり、需給バランスが歪み始めた。また、宅地へと変わらずとも、合理化が進まなかった農業の世界では過疎が進み、耕作放棄地が増加した。農業をめぐる需給バランスの歪みに対して、政府は1966年に野菜生産出荷安定法をつくり、大都市圏に年中安定的に主要な野菜を出荷する仕組みを作り上げた。いわゆる促成栽培や高冷地農業などはこの取り組みの一環で普及したのである。この野菜の年中出荷を実現するにあたってはコールドチェーンという流通の仕組みは不可欠であった。政策と流通の進歩の2つが健全な農的な在り方を変えていった。

昭和から平成に変わる頃の1986年に男女雇用機会均等法が施行される。これを契機とした女性の社会進出は食の世界にも大きな影響をもたらした。十分な収入と仕事を持つ女性が飲食店で1人で食事をすることが普通となることで、外食文化が発達し、かわって家庭料理の文化が相対的に衰退した。また、中食の発達もこの時代に顕著な食の特徴である。日々の食事を支えるコンビニやスーパーマーケットの中食、一方で高度な消費文化としての「デパ地下」。この二元的な中食文化が女性の社会進出と共に隆盛したのであった。

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