X-4 3:しろからつむいでみやがれと

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一応捕捉

この文章はX-1 X-2 X-3 とかいうアルバムの内容を
把握してる方向けの文章になります。

あくまでアルバムのベースとなる文章であり、
人に見せることそんな想定してないような
殴り書き感もあるのでそこはご愛嬌。
多少読めるように修正はかけてるけど。

あと、今回はタイトルもあとづけもとい、
あとで修正したやつです。

後もちろん、この楽曲のベースとなったテキストです。
すごい希望に満ち満ちてるたのしそうな歌詞ですけど、
設定というか実態は下のテキストの通りです。

すげーざっくりまとめると、

・原点に還れる人間なんてすごい座標分析の研究をし続けた一握りの英才のみです
・お前が思うならそうなんだろう ってエグいワードだよねー
・依存してる感覚には実際邪魔でしかないの多いけど、それそっちのけで受け入れて集団で無理やり肯定してるのってどうなんだろ。

以下、本文。



X-2の3曲目、歩いて行くにかかるかな。

やっぱりこのフレーズね。

迷い 憂い 怒り 嘆き 恨み 妬み 痛み 憎み
そんな世界 意味がない 求めない
抜け出して つよくなれ

ほんとはもっといっぱいあるんだけどね。
煩悩108からネガティブな方をピックアップして
ぎゅーーーーってしたらなんかそんな感じ。

これさ、改めて整理しよっか。
意味がない 求めない
意味がないやつと 求めないやつにわかれるんだよね。

さてどーれだ!

迷い 嘆き 痛み 憎み が求めない

にすら該当できない、
憂い 怒り 恨み 妬み が意味がない

に分かれる。 なぜか。 意味があるとはなんだろ?
まぁ、数分考えれば答え出そうだけど、
ここでは一旦推進力 ってワードを使っておこ。

…ね? した4つ全部停滞を表してるの。

え!? 怒りは停滞!? え!? 憎みは推進!?
って思ったかもしれないけどうぇたもめん。

まず推進力をしっかり整理しとくと、その考えを自分の頭の中で
過らせることによって何かしら学習成長になりうる、
なおかつ感情という衝動によって揺り動かされてるので、
自然と学習の方向に向かって行くよね〜ってことで、
だりーから一緒くたにして推進力ってかんじで。

はい本題。

迷い 選択とか色々あるけど、選択をするための判断基準がビシーっとしてないから、その基準を探してる これがんばってる。えらい!
でもいっぱい判断基準ができるようになるとどんどん迷いは減るよね。
まぁそもそも望んで迷いに行くのはだいぶメンタリティ的に心配だけど。

嘆き 誰かや何かを深く想ってこそ発現する感覚。えらい!
まぁこれもいっぱい考えれば考えるほど、習慣的に感覚的に発現してるものばかりであると気づいてくるんだね。
たとえそれが誰かの死であってもそうだね。
天寿全うの師に悲嘆にくれるのは惜別の押し売りとまで言われると、
まだまだ人類には早すぎるといったもんだけど
バカお前…そこはありがとうございましただろうが。
って言えば多少はわかりやすくなる気がする。
多様性も合理性に基づいてこそというのは、文化発展目覚ましい現代、
結構認知しやすくなってきたんじゃない? しらんけど。

痛み これも人と触れてこそだね。前二つが解消されてくると、
徐々に痛みは自分が起因ではなく、他者起因になってくるんだね。
他者から受けた傷もどんどん免疫がつく、
あ、この人そんな人なんだ。→だよねーしってた。 …あるじゃん?
まさかこのイベントでこんなことになるとは!
→こうなることも想定して動いと………なるんかい!! あるじゃん?
その前提をいーっぱい張り巡らしてると、私のせいでこうなった!が
どんどん減って行くし、 こうなったけど、リカバリーは私が取る!って動けるようにもなるし、 なによりここででけーのは
自分のせいじゃなかったとしても誰かのために謝れるようになる大前提じゃん。
もうね、人と人で創るこの世界、この8項目の中で一番大事まである。
意味がある。  めっちゃくちゃある。
………けど、   やっぱり  求めないよね ないほうがいいもん

憎み ここまで来ればわかるだろう。前三つの話あってこそ憎みよ。
おのれ自身に対する憎み。 そう、他者へじゃなくてね。
ふがいなさ 非力さ 必要なら時にいっぱい憎めばいい
抜け出して強くなったら  憎む必要もなくなるから。
……もちろん自惚れ的な意味で憎まないでよね!?

はい、のこり4つ憂い 怒り 恨み 妬み

この感情は 全て ゴミです。

憂い  思うようにならなーい! つらーい!
目測を完全に誤ってるお前のずさんさを棚に上げているだけ。
ゴミです。 捨てろ。

恨み  憂いと同じ。 いかに相手が悪かろうと、
他者に対して目測を完全に誤っている事実は変わりない。
痛みを知れば、その感情、ゴミです。 捨てろ。

妬み 説明不要、まず扉が開くまで扉を拳が血まみれになっても骨が折れても叩き続けろ。 一度も扉を開くことができたことがない人に、
何の権限もない非常な現実を知るしかない。 その現実に立ち向かうことすらやめたならもはやいうことはない。 
でももし一ミリでも感情が残っているなら、拳に力を入れられるなら、
真っ先にやるべきかと思う。 その感情、ゴミです。捨てろ。
特に努力していて、圧倒的に上の存在が目に入ってしまい、
自分の現状と比較してしまうなんてこともあるかも知れないけど、
それこそ憎みを知ればその感情、ゴミです。 捨てろ。

さて、怒り。 怒りは、ゴミなんです。
なんなら怒りが一番のゴミと言っていい。
なぜか、怒りの感情を織り交ぜつつの情報整理は禁忌というのはよくある話。
怒り任せに物事を考えると100自己都合に突っ走るのは誰もが知ってのこと、それで失敗したなんてことたくさんあるんじゃない?
後先スッカスカな恋愛話(言い方)でも結局は喧嘩別れが量産されてて…あれ100失敗だけど、失敗カウントからかき消されがちじゃない?自分悪くないもん見たいななんかが働いて。ところで。
まぁそれはさておき、この情報の整理における感情の混入は基本的によろしくないんだけど、
ある程度のフェイズまで、たとえば議論のフェイズまで上がってくると、禁忌を超えて論外になるんですね。
いやでも討論番組や答弁ではなんか怒ったりなんかしてるじゃんって思うかも知れないけど、
怒ってる側言ってることいっつもいっつも支離滅裂なの見えてない?
あと、そういうパフォーマンスなんで。番組なんで。
真偽や合理性よりも、注目度やメンツ、その他いろんな押し引きの方が優先されている舞台なので。
議論は、口先使ったレスリングではなく、そもそもが何かを成し遂げるという目的のもと集まっているはずですよね。
結局あれらの舞台では何一つ解決していないではありませんか。
大前提を整理しましょう。 何かを成すための情報の整理が主目的です。
となれば議論に集まるべきは、
その情報を理解できている知識を有し、なおかつ情報に抜け穴がないかを徹底的に分析できる洞察力をも有する識者…のみ。 それ以外は場外に弾き出されますね。
そのそれ以外が集まるからみんな大好きレスリングが始まるんじゃありませんか。
現実的には一方的サンドバッグ(高速回避)が多いですけど。
ね。ミーティングの都度理解度チェックだなんだ難癖つけて脳死で質問を強要する賢いボクちゃんには理解の難しい世界かも知れませんが。
わかってる人同士で知識を持ち寄って、おのおのの鋭い目線で
徹底的に解析してより精度の高い情報を構築する   できませんか?
何のために集まってるんですか?
餅の作り方心得てる人が集まらないと、良い餅は作れないですよね?
三人寄れば文殊の知恵とは言いますが。充分な知識を持ち合わせてない人が3人集まったところで何にもアウトプット出せませんよね?
最悪誤った方向に理解が集団で捻じ曲がっていく恐れさえありますね。
…さて、という感じで情報を整理したところで。怒りはゴミ?
そういう議論という徹底的に情報を分析する空間で、怒りの感情は分析能力の著しい低下にしかつながらない。邪魔以外の何者でもないです。
いや〜でもそんな議論議論いってそんな緻密に整理する必要ある話なんてそんなになくない? って思うかも知れませんが、はっきり言おう。

だから喧嘩になるんだよ。本来極端まで突き詰めたら、そういうふうにやんわりで処理して良い話し合いなんかひとつもねぇよそんなもんは。
手抜きだよ。ただの。その手抜きの結果飲み込めてない理解の浅い部分が人間同士の情報エラーを引き起こすんだよ。
ね、転じて言えば情報整理を突き詰めれば突き詰めるほど、
怒りの感情消えて行くんですよ。 怒る前に、あ、でもこの話ってこういうことだな! が瞬間的に差し込まれるんですよ。
はっきりいうわ。 怒りって全部、自分自身に対する傲慢と、他人に対する理解の怠慢だけで構成されてます。
自分が被害者である場合は、相手側の他人に対する理解の怠慢と以下略ですね。
歩み寄るな。突っぱねるな。どっちもゴミだ。捨てろ。
いいから徹底的に読み解け。理解しろ。 そしたらどっちも要らなくなる。
ついでに言えば、本当に主張が正しければ拳を突き上げる必要はなくなる、転じて拳を突き上げてる側の主張が間違ってることが多い、口数が多い、声高に主張している、多勢に無勢をやってる主張が間違ってることが多い、みたいな話にもつながってきますけど、そこはまぁ一旦割愛しますわ。


ねー、よーはさ。賢くなるほど丸くなるっていうけど、
覇気がなくなるなりで丸くなってるわけじゃないのよ。
トゲに依存するひるようがなくなってるだけなのよ。
みんながそうかしらんけどさ。でもなんか見た感じそうっぽいかも。

でねーいっぱいいっぱい賢くなって、意味がないもんから脱けだして、
自分からこぞってつけに行ってた足枷てか補助輪てかそれを外して、
よりスッキリ世界が見えるようになってきたところで、

もういっかい一から学び直してみるんだ。強くてニューゲーム。
あ、あの時違うなって思ってたものあってたわってやつも、
正しいと思ってたけど違うやとか、
ここにもっと面白いルートあんじゃん!とか いっぱい見つかるわけだね。
足枷に依存してたら一生見えなかった世界だ。

この世は意外とそんなことがある。すっごい極端な言い回しになるけど、
せっかくだしその補助輪でたとえようか。
社会一般が、自転車には補助輪をつけるのが当たり前となってる世界があるとしよう。

そこで、いや補助輪つけてると角度がつけられなかったり、摩擦がどーたら騒音がどーたらみたいなこと言うと、絶対こんなワードが飛んでくるはず。
「補助輪つけないと危ないだろー!」
「怪我したらどうするんだー!お前は責任取れるのかー!バカなこと言うのはやめろー!」
「三輪車こそ至高!!補助輪付き自転車こそ至高!! お前は異端だ!」
「この騒音は起きるべくして起きてるのだ!我々はこれを理解した上で受け入れているのだ! お前みたいな心の狭い人間とは違う!!」

それで、補助輪外してボディも徹底的にカスタマイズしたロードバイクでガンガンにかっ飛ばすとこんなワードが飛んでくる
「こんなスピード出して危ないだろ!」
「うわーこわーい!こういうのが事故起こすんだよ俺知ってる」

で、何かあれば口を揃えて
「ざまみやがれええええええ!!!!」

…が現実結構蔓延してるよね。
いや、今回は最初にも書いたように極端な例を並べてるからいやそりゃ補助輪擁護側おい…って思うだろう話なんだけど、実際はほんっととても紙一重ながら後々振り返ったらあれ〜?な話だからね。
おかしいよな?ってことに対して指をさすのは大事だよね。
でも、そのおかしいって思うものは、本当におかしいのかな?
数十年数百年経過して、文化が発展して、モノを分析するフェイズの平均が上方修正されたところで、将来の若年層がこの記録を見て、
こう言う時代もあったんだなぁ〜ってなってるかも知れんよ。
その憐れな時代の犠牲やの一員にならないのもまた、大事なんじゃないかな。

よく、常識にとらわれないとかいうけどさ、こう言う話じゃない?
どうなんだろ?じっさい。ね。

あと、原点に立ち戻るともいうけどさ、こう言う話じゃない?
まぁ、いいか。他人の発した言葉だ。どうでもいい。

結局は自分の満足のままに、やりたいようにやれば
それが真実なんだろう。自分にとっての、都合のいい。

どこまで行っても自己都合から脱却することは、
結局のところ難しいのかもね。可能なのか?さーね。

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