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最近行った展覧会:「翻訳できないわたしの言葉」

ずっと気になっていたこの展覧会。すみだトリフォニーホールへコンサートに行く前に、行ってきましたー。いやー、かなり心にズシンとくる内容でしたが、とても良かったです。新たな気づきもありました。

私が一番気になったのは、アイヌのバックグラウンドを持つマユンキキさんの作品。彼女と在日コリアンのお友達が話すのを写した映像作品や、「セーフ・スペース」と呼ばれる彼女の私物と思われるものが沢山あるかなり広い部屋のような展示がありました。正直、アイヌの文化についてはあまり知りませんが、特に言葉については、北海道の地名ぐらいしか意識したことがなく。このセーフスーペースに入る前に「パスポート」という小さな紙にサインしないといけないのですが、そこに書いてある言葉にドキッとしました。

「アイヌは日本の先住民族です。日本からの植民地支配はいまだ終わらず、差別に苦しむアイヌがたくさんいます。これまで生きてきた、いま現在を生きる、そして、これからの未来を生きていくアイヌの仲間たちに敬意を表します。 マユンキキ」

これに続いて、いくつかの問いが書いてあり、「私のための答えでなく、あなた自身の答えを考えてください。」とあります。その問いのいくつかを挙げてみます。
- 私は日本でアイヌに対して何が起こったかを知っている
- どんなに親しい間柄でも相手を踏みにじってしまうことがあるのを知っている
- 自分の属性による特権が何かを理解している
- 自分が無知であることを知ったあとに、そのことについて深く学ぶ姿勢がある

ここまですると、人によっては「押しつけ」を感じてしまうだろうなあ、とは思うのですが、私がこの作品を観ながら(というか体験しながら)思ったのは、歴史的・集団的なトラウマというものでした。数年前にトラウマ・インフォームド・ヨガの先生の資格を取るコースを取っていた時、トラウマに関して少し勉強したのですが、その時に出会ったコンセプトです。例えば、アメリカに奴隷として連れてこられたアフリカ系の人たちの中には、共通した先祖代々からのトラウマ、というのに苦しんだり向き合ったりしている人がいる、そういうトラウマをcollective trauma(集団的トラウマ)と呼ぶことがあります。アイヌの人々の間にも、そういったトラウマを抱えている方々がいるのかもしれない、と今更ながらに思い至りました。それは振り返って、自分の「特権性」の認識でもありました。彼女の「部屋」のいろいろな物を見ながら、すごく癒しを求めている感じがしたからかもしれません。同時に、自分の内面をさらけ出すことによって、他者との理解をすすめたいという祈りにも似た思いを感じました。

もう一つ、心を打たれたのは、ALSに罹患している新井英夫さんという「体奏家」というダンサーの方の作品です。彼は「野口体操」という自分の体に耳を傾け、それを表現するという野口先生の手法で、ALSに罹患される前から、ダンサーとして障がいのある方などと五感を使ったワークショップなどをやってきています。「言葉」というのは、いわゆる日本語や英語といった言語だけでなくて、体で表現するものなんだ、というのを彼の作品を観て・体験して強く感じました。そして、だんだんと筋力を失い、体の自由が効かなくなりながらもダンスをする自分を撮影し、それを時系列につなげて作品にしていくという、考えてみたらものすごいことをしている彼の人間としての力に脱帽しました。

インタビューの中で彼は、「ここで自分が絶望したら、それ(どんなに体が不自由でも、体の奥底にある言葉の泉は枯れないということ)を教えてくれた(障がいのある)人たちの存在を否定することになってしまう」と言っています。そして、相模原の事件や安楽死の問題に触れながら「僕のような病気の人はもっと街に出て、存在を示した方がいい」と言います。もっともなのですが、私だったら心が折れてしまうと思います。誰にでもできることではない、これも彼の表現者としての魂から出てくる行動なのでしょうが、私には真似できるとは思えません。そして自分の表現によって、手を差し伸べてくれているような新井さんに感謝の気持ちを感じました。

2時間以上ゆっくり5人のアーティストの作品を観て、私も「わたしの言葉」について考えさせられました。展示の最後に感想を書き残して壁に貼れるスペースがあったのですが、そこで私が書いたのは、自分の母語としての「日本語」に対する愛情とこだわり、そして今回の展示を観て感じた自分の「特権性」でした。(「特権性」に無自覚であることは、意図しなくても暴力につながる可能性がある、と私は思っていて、その反省も含めた意味です。)上に紹介した2人の他にも、手話についての作品や、他言語・多言語についての作品もあり、そこに生まれる葛藤や面白さが実に多様な面から表現されていたのが今回の展覧会だったのですが、母国語とするものが私の国籍国の単一言語であるということ自体が、マジョリティーに属するという意味での特権だということを強く感じました。私は一応、日・英のバイリンガルではありますが、そこに葛藤というほどのものはない。「言葉」が持つ意味に日々違和感を持っている人もいるのだ、と気づかされました。この展覧会も、消化するのにしばらく時間がかかりそうです。

東京都現代美術館、なんだか初めて行ったような気がするのですが、広々としたスペースで、気持ち良い場所でした。混んでないのも良かったです。今後もいろいろと意欲的な展覧会を企画されてるようなので、またぜひ行きたいです。ちなみに、「翻訳できないわたしの言葉」展は7月7日までです!


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