見出し画像

私は映像製作を生業にしているのですが、その根底には様々な媒体から影響を受けたものがベースにあります。
概ね10代から20代前半までの多感で、情報収集に敏感、直情的になんらかの刺激を受けたものによる媒体群からがすべてかもしれません。

例えば、日本史。
日本史への興味は尽きなく、実際小学3年生から学校の図書館に頻繁に出入りした記憶があり、習熟別にあった日本史の百科辞典を良く読んでいました。
興味をもったきっかけはNHKの大河ドラマだったのです。作品は『草燃える』。源氏の栄枯盛衰を描き、物語後半部は大河史上初の女性主役(岩下志麻さん/北条政子役)が施された画期的な作品です。
私的には作品について、人間の業の深さと逃れられない不条理な心の闇の連鎖とでもいうべきか、中島丈博氏の脚本の白眉さもありますが、鎌倉時代初期にもあった理想と現実の有り様に子供心ながらに没入させられてしまったという方が正しいでしょう。

没入度第一位のシーンは、有名な鶴岡八幡宮での甥の公暁による源実朝の暗殺からの今度は公暁が惨殺される一連の流れが、まさに当時9才の私には不条理にしか映らなく衝撃的だったのです。
影で糸を引いていた三浦義村を演じる藤岡弘に、殺される運命を覚悟していた実朝役の篠田三郎、バランスと権謀に長けた北条義時役の松平健と、今にして思えば演者方の迫真のお芝居が実録的なタッチでドラマに惹き込まれていたのだと思えます。
そして、実際はどういう人物だったのかを知りたくなって図書館に駆け込んでいった流れとなり、いつしか日本史全般に興味は波及していったのです。

この『草燃える』がきっかけかもしれませんが、安直なハッピーエンドで終るものに、ほぼ共感しなくなってしまったマインドは、三つ子の魂の原点になっているという可能性は大いにあると考えます。
結局、この世の普遍性に繋がるものには抽象的な感覚があります。‘美しい’とか‘悲しい’とかです。
私の不可思議とも言える安直なハッピーエンドへの違和感は恐らく臭いものにフタをする行為に見えるのだと思うのです。
私の考えるクリエイティブとは、ある種の行間を設けることにより、決してエゴイズムに陥ることのない自分の感情を大切にして欲しいという願いのようなものを潜めていると、双方の感情がクロスして成立する行為に他ならないものであると感じています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?