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【守屋文雄監督、柳英里紗主演、95分。『すずしい木陰』の話】

(2019年7月11日  無人島キネマ・ブログ版 初掲)

映画を観るとき。っていうか、観ている間。
頭の中で喋ってるって人は、僕の他にもいないだろうか?

「えっ?……これは…あぁ、そうか。そうくるよね………じゃあ、あの人は……そう、なるよね〜。……はは〜ん、コレはソレのメタファなんだな!ってことはあれだ、この映画の伝えたいところは、そういうメッセージなのかもしれないな…」

とかね。

“映画を観るということ。”

登場人物の設定や背景を理解しつつ、物語を追う。
伏線が伏線であることに気がつき、それを記憶し、回収に備える。
演技や演出、映像や音楽、演出や特殊効果など、その映画を彩る技術にも目を配る。
時にはその映画に、矛盾や手抜きや手落ちがないかということにも同時に目をこらす。
登場人物のセリフや態度に、言外の意味がないかを吟味する。
登場人物の行く末に、作り手の意図や主張が隠されていないかを推理する。
主人公の選択や成長は、自分の経験や倫理観と照らして共感しうるかどうか?を考える。
映画全体が問いかけるテーマとは何だったのか?に見当をつけ、
そして自分はその映画を好きになったか、嫌いになったか?に答えを出す。

“映画を観るということ。”その、ひとつの言葉の中に、

僕は無意識ながらも、だいたいそんな“作業”をやっている。
たぶん他の多くの映画見の人たちも、そういう作業をやってるんじゃないかな、
無意識のうちに。
好きで勝手にやってることだけど、けっこうくたびれる。

頭の中の喋り声は、それらの作業音だ。

その作業音、頭の中の喋り声が、むっちゃうるさく聞こえてくる映画を観た。
つまりそれほど静かな映画。

自分が映画を観ながら、頭の中でどんな“作業”をしているかということに意識的になる。自分が“映画を観るということ”に何を求めているのかが聴こえてきて、自分が映画に対してどういう姿勢をしているのかが見えてくる。そういう映画だった。

守屋文雄監督、柳英里紗主演、95分。

作品の説明としては、それだけで充分だし、それだけで限界だし、それが総てだと言ってもいいのかもしれない。

なんて言い方をするとミステリアス(?)だけど、要するにネタバレに対して、とてもデリケートな「仕掛け」というか「仕組み」を持つ性質の映画だということだ。

その「仕掛け」や「仕組み」を「ネタの一発勝負とそのタネ明かし」として、物珍しさで観ても面白い映画なのかもしれない。

「なんだこりゃ!?」と怒る人もいるかもしれないし、「今まで見たことないスゴいものを観た」と喜ぶ人もいるかもしれないし、「あぁ、何だかすごく気持ち良い…」と癒やされる人もいるかもしれない。

賛否両論は絶対不可避だから、この映画を面白いと思うか、クッソ面白くないと思うかは凄まじく色々になると思うけれど、そういう性質を持つこと自体が「面白い映画」であることには間違いないと思う。

僕個人としては、どんな映画だと思ったか?

ネタバレを配慮するとすごく書きにくいところではあるけれど、僕はこの『すずしい木陰』という作品は、オモシロ的にも、ゲージュツ的にも、“キワモノ”ではないと思った。

珍しい映画だし、キワドイ映画であるとは思う。

でも、ネタ一発のキワモノ映画ではなく、なんならふつうに好きな映画になる。

柳英里紗のまとう空気感もさることながら、

「音」が、圧倒的にこの95分間を支配していて、“95分間観ていられる映画”たらしめている気がする。

この『すずしい木陰』を観た翌日、守屋監督の前作『まんが島』のサントラをなんとなく聴いてたら確信した。無造作に並べられた音のように思えるけど、たぶんすっごい緻密に計算して、音を95分間の所々に、意図して配置してるはず。そのことを守屋監督に尋ねてみたら、やはりそのようだった(いぇーい)。

映像にも、いくつかのミラクルを忍ばせている。すごく幻想的な感じがするのに、とても懐かしい気分にもなる、素晴らしい画が「撮れちゃって」いる。

総じて良い映画。また観たくなるような、なんなら何度も観返したくなるような、僕にはふつうに好きな映画になった。

次に観る機会があったら、「頭の中で喋る」ことなく観ることができるような気がする。油断しきった姿勢で、僕はこの映画を観るはずだ。そしてそれがものすごく気持ちの良い映画なんだと思う。

気持ちの良い映画にとって、必要な要素は人それぞれかもしれないが、
気持ちの良い映画にとって不要なものは、全て排除されている。

そういう映画だと思う。

機会があったら観てみてほしいし、機会があったらまた観たい。

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