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5.水族

 水族館は、ひんやりとしている。外の暑さが嘘のようだ。魚たちの祈りが、空気を清明にしている。巨大な水槽では、三葉虫とアンモナイトが優雅に遊ぶ。緑青色のイソギンチャクと純白のオオカミ魚が口づけを交している。水槽の底には魚たちの死骸が堆積し、厚い死の地層をつくっていた。

 ハッカの甘い香りがする。館内は、少しずつ暗くなっていく。もう、水槽も魚も見えない。空気がやけに粘りつく。息をすると苦しい。空気が水のようにまとわりついてくる。その流れは官能的だ。

 急に真っ暗闇になった。わずかな明りもない。声が地を這うように響いてきた。「驚かれましたか。ここでは、光ることが最も恥ずかしいことなのです。御不自由でしょうが、声の方に進んでください」。始めは老人のようなしゃがれ声だったが、最後は少女のように可憐に聞こえた。「こちらです」。声を頼りに歩いた。息苦しい。

 「着きました」「何も見えない」「あなたの世界の表現では、海底1万5千メートル。皆、豊かな暮らしをしています」。何かが私の周りに集まってくる気配がする。「食べ物はどうしているのですか」「私たちが分かち合って食べるのは、闇です」「やみ?、暗闇の闇のことですか」「そうです。闇は肉よりも香ばしいものです。ここよりも上の世界では、まだ食物連鎖が続いていますが、じきに闇を分かち合うようになります」「よく分からない」

 「あなた方、どうもうな光の世界の生き物には、すぐには理解できないかもしれませんね。少しここにとどまってみませんか」「いえ、私は光の世界で、耐えていくつもりです」「幾重にも肉に縛られた世界にですか」「そうです。しかし、帰らなければなりません」「残念です。あなたなら、もう少しここに居ればきっと」。

 気がつくと、水族館の出口に立っていた。夏の日差しは相変わらず強い。濡れた肩に、羽虫が留まった。

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