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2.虚星

 我に返ると、丸い氷柱に腰掛けていた。遠い記憶を幾度も反すうしていたようだが、思い出せない。かすかに悪寒が残っている。いつの間にか、夜になっていた。雪は膝近くまで積もっている。雪明りの中に動物の死骸が浮かび上がる。鹿と熊だ。雪に半分埋った死骸は、腐敗した様子もなく、夜光貝のように安らかに光っている。

雪はいつまで降り続けるのだろう。肌に触れても溶けない雪片に気付き、ハッとした。白い胞子だ。菌類の胞子。シリエトク岳の雪はいつの間にか胞子に変わっている。私は無意識に山頂に向かっていた。胞子は次第に深くなった。踏みしめた足跡は、波に洗われたように消えていく。名付けようのない不安とともに、足のしびれが増してきた。山頂は近い。前に進むことだけを考えた。一歩、また一歩。ほとんど足の感覚はない。幻肢痛のような虚ろな痛みがある。

「こちらよ」。山頂から声がする。必死に前に進んだ。「早く、ここへ」。私は声に励まされて、やっと山頂に着いた。山頂の氷鏡にはまばゆい星々が写っている。星を見上げる私の横に女性が立った。

  何処かで会ったことがあるのだろう。氷紋のセーターを観ていると、懐かしい気持ちになった。「還っていく」。彼女は空を指差してつぶやいた。「貴方の友人が還ってしまう」「僕の友人?」。私は彼女の指の先に眼を移した。

 ハリーだ。何時来ていたのだろう。「ハリー!」。私は大声で叫んだ。彼女も「ハレー」と呼びかけた。私は六角形の鏡を取り出し、天に向けた。鏡の底から十二匹の蛍が飛び立ち、うれしそうに昇っていく。安住の場所を見つけたのだろう。

 ハリーは昔と変わらなかった。漆黒の身を、青いマントで包み込んでいる。しかし、良く観ると少しやせて、苦しそうだ。苦しそうに還っていく。私は泣いた。涙は深い泉から止めどもなく湧き上がってくる。彼女も泣いているようだ。

 二人の涙が枯れた時、空が白み始めた。山々が虚ろに光り出す。金星が、疲れた顔をこちらに向けた。

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