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3.春霧

 陽が傾くと、霧が濃さを増した。霧の中に山も川も街も、すべてが包まれていく。ひどく苦い霧だが、芯にかすかな甘さを含んでいる。私もいつしか、春の霧に溶け始める。
  深い霧の奥に、釈迦が横たわっている。どこからともなく、鹿や熊や狐が集まってくる。私も釈迦のそばに近づいた。動物たちは、悲しい眼でじっとしている。やがて釈迦は、微笑みながら静かに息をひきとった。入滅したのだ。集まった動物たちは、遺体の内臓と肉を食べ始めた。どの動物も、おだやかな表情をしている。釈迦を食べる音だけが聞こえ、血の匂いはしない。

 霧は釈迦の周りを渦巻くように、ゆっくりと流れていく。私も近づいて肉を食べた。驚くほど柔らかい。肉の味がまったりと舌に残る。動物たちになめられた釈迦は、きれいな骨になった。霧が深くなってきた。醗酵乳の匂いが立ちこめる。釈迦の骨は、ふいに粒子になって浮遊し始める。私は、すべての骨が霧に溶けるまで、じっと待ち続けた。恐ろしく長い年月が過ぎた。

 やがて霧の渦が私を厚く包み込もうとする。私は後ずさった。足元の砂が、キュキュと鳴った。自分の内臓が鳴っているようだ。キュッ、キュッ、キュッ。キュッ、キュッ、キュッ。

 「子宮が鳴っている」。いつのまにか私の後ろに、桜の細長を着た少女がうずくまっていた。「間にあったわ」。彼女の周囲の砂は、骨を砕いたように白い。ただ足元の砂だけが着物に染まったのか桜色に見える。少女は、砂を握り締めようとしていた。そのたびに、砂は キュキュと鳴った。

 彼女は、幾度も同じ動作を繰り返している。私は彼女の細い手に触れた。その瞬間、私の身は数億の粒子になって舞い上がった。醗酵乳の匂いがした。

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