この世の中で生きていくのに必要な優しさ、居場所とは?『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
自分の発言が誰かを傷つけてしまうのではないか、話を聞いてほしいけれど、その相手に傷跡を残してしまうのではないかと問い直す。そんな繊細な登場人物たちの心の動きを通して、無意識の加害性に気づかされるのが大前粟生の原作を金子由里奈監督が映画化した『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』だ。
大学のぬいぐるみサークル、通称ぬいサーの面々は、ヘッドフォンをし、周りの声を聞かないようにして、ぬいぐるみに自分の思いを語りかける。そこで吐露されるのは、楽しいこともあれば、自分自身が辛いと感じることや自分を枠にはめ、特別視するような周りの目。ほのかに明かりがともる夜の部室、灯りもつけずに夜の自室でひとり、ぬいぐるみを抱きうずくまる夜。登場人物たちの心を映し出すかのような暗闇に、ジョンのサンの音楽にのったぬいぐるみの目から見た世界が展開し、絶妙のバランスを保ち続ける。
ぬいぐるみとしゃべる部員たちの中で、が演じる白城(新谷ゆづみ)はぬいぐるみとしゃべらない。それでは男性優位の世の中でこの先、生き抜くことはできないと思っているからだ。麦戸(駒井蓮)や七森(細田佳央太)という同学年の優しすぎて、深く傷ついてしまうふたりが、周りから見て小さくても、自身にとっては新たな世界に踏み出す気持ちを持ち始める中、白城はぬいサーが居心地のいい場所でありすぎることで、彼らに対して心配の視線を投げかける。この両者の視点も、様々な問いを投げかける本作らしい。そして、白城の存在はセクハラ、パワハラはいわずもがな、それらを通して”図太くなること”が大人になることの試練のような時代がわたしの若い頃だけでなく、今でも連綿と続いていることをまざまざと示している。
傷つけたくないという気持ちと、生きることは誰かを傷つけ、傷つけられもするけれど、そこを乗り越える信頼関係を結ぶためには自分なりの居場所や声を上げる方法(ぬいぐるみにしゃべることを含めて)を模索する。金子監督は元町映画館での舞台挨拶で「今までスクリーン(映画)からとりこぼされてきた存在やものを撮りたい」と語っておられたが、世の中の刷り込みに順応し、さまざまな違和感を長年飲み込んできたわたしの中にもじわりじわりと沁みてきた。
今までの日本映画ならLGBT映画という枠組みで語られがちだった登場人物が実に自然に描かれているのも、『ミューズは溺れない』(淺雄望監督)同様、日本映画の新時代を予感させる。この2作品を繋ぐぬいサー部員の西村を演じた若杉凩の存在感も光った。そしてもう一つの主役たち、心の支えになるぬいぐるみを見ながら、かつて母に作ってもらったトラの編みぐるみや、一生懸命綿を詰めて、顔の表情を作るのに苦労したマイドールのことを思い出した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?