月を満たす





アラームもかけていないのに、珍しく早朝に目が覚めた。睡眠時間が足りていないせいか、体温が極端に低い気がする。秋になって、最近朝晩涼しくなってきたことも関係しているかもしれない。

上半身だけを少し起こして隣を見ると、そこには半年前に再会した同級生の寝顔があった。


「…水嶋?」
「あ、ごめん起こした?」
「ん……大丈夫。俺そろそろ仕事の準備。珍しいね、こんな早くに。」
「なんか目が覚めた。おはよ。」
「おはよ。ふぁ〜、ねむ…」


どうして今こんな生活をしているのか、正直自分でも分からない。ただ、この人、内海洋平と一緒にいると、1人でいるより心が健やかなのは間違いない。


「私さすがにまだ眠いから、二度寝するね。」
「そのほうがいいよ。俺準備して仕事行くね。」
「ん。がんば〜。おやすみ。」
「さっきおはようしたのにね?(笑)おやすみ。」

ベッドから抜け出し動き始めた内海を横目に、私は再び布団に潜る。半年前のことを思い出しながら、そっと目を閉じた。あの日の出来事は、起きてから眠るまでの間のほとんどを、今でも細かく覚えている。



―約半年前―


いつも通り夕方に目が覚めた。起きるギリギリまで夢を見ていたのに、目が開いた瞬間に全て忘れてしまった。ただ、なぜか幸せな感情だけが残っていた。

「絶対いい夢だったのに。もったいない。」

独り言を零しながらベッドから降りる。適当に家にあるものを食べ、簡単な家事を済ませて、18時頃に化粧もせず家を出た。ふと月を見ると、新月だった。私の心と同じくらい欠けてるな、なんて思いながら職場に向かった。名前に「月」が入っているからか、無意識に月を見上げていることが多い気がする。

「おはようございまーす。」
「あ、おはよ〜こころちゃん!今日もよろしくね〜。」
「はい、お願いします。」

私の職場はキャバクラだ。この仕事をしている理由なんて、お金がほしいこと以外、特に無い。「こころ」は職場での源氏名。本名で出る人も結構いるらしいが、私の場合、別の人格を無理にでも作り上げなければこの仕事はできないと思った。ちなみに「こころ」は大学時代私に嫌がらせをしてきた女の名前だ。嫌いな人の名前を使っているなんて、だいぶひねくれているなと自分でも思う。


金曜日ということもあり、お店は賑わっていた。

「ここちゃん!3番ついてあげて!」
「あ、わかりました!」

言われた通りに、急いで3番テーブルへと向かう。


「失礼します、こころです。よろしくお願いしま〜す。」

作り慣れた笑顔で会釈をして、席に座っている客を見て、驚いた。そこにいたのは、高校時代の同級生、内海洋平だった。恐らく相手も気づいているし、隣に座るのはさすがに…と考えていると
「横、座ってもらえますか?」
と、あっちから声をかけてきた。終わった、と思った。

とんでもなく気まずい空気が流れていた。それを破ったのは内海のほうだった。
「あのさ…、違ったらごめんね?水嶋、だよね。」
さすがに、同級生……元カノの顔は忘れないか。とは言え、ほんの3ヶ月だけの付き合いだったけど。
「ん。それ本名だからあんま言わないでね(笑)」
「あ、そっか、ごめん。」
こうして、私たちは小声で会話を始めた。

「えっと…え、聞きたいこと多すぎるんだけど。」
「結婚した。離婚した。上京した。キャバ嬢してる。」
「待って待って、追いつけないから。」
「詳しいことはさ、まぁいいじゃん。」
「んー、再会してすぐだしそうなんだけどさ…。」
「グラス空きそうだね。なんか飲む?」

約10年振りに会った同級生、いや、元彼は、腑に落ちて無さそうな顔をしていた。けれど、気まずさに押し潰されそうだった私は、会話を止めないことに必死だった。
「てかさ、内海はなんでここにいんの?」
「俺は転勤でこっち来たの。そしたら新しい部署の上司が、あの人で。よく行く店があるからって、歓迎会の流れで結構強引に連れてこられたんだけど。そしたら水嶋いて。目まぐるし過ぎない?ほんとにびっくりしてんだけど(笑)」
「なるほどね〜確かに小林さん、あ、上司?たまに見かけるよ。私はあんま席付いたことないけどね。」

正直、私はずっと動揺していた。内海は、自分の中で"この世で自分の現状を知られたくない人ベスト3"に入る人だったから。嫌いで別れたわけではなかったし、なんならこっちはだいぶ引きずった。そんな相手に、なんでよりによってこんなところで会っちゃうかな…。焦る気持ちを隠しながら無理やり話題を探っていたその時、事件は起きた。

「君さぁ、僕にちゃんと挨拶もしないで、内海とばっか仲良くしちゃってさ〜?僕みたいなおじさんの相手はしませんってか?人選んで仕事してんじゃねぇよ!」
店に来た時点で既にだいぶ酔っ払っていたらしい小林さんが、私の態度に腹を立てたようで、難癖をつけて絡んできた。腹を立てられる要素はなかったはずだが、酔っている人が相手では何を言っても通用しないということを私はよく分かっていた。
「あ、いえいえ、すみません!たまたま、同級生だったもので…」
「同級生?そんなん関係あるか!!おま…」
「小林さん!!すんません、俺がこの子を横に座らせて、長々と話しちゃっただけっすから。この子は悪くないっすよ。」
「うるせぇよ!!!おい女、客に謝罪までさせんな!!お前が頭下げろよ!!」

小林さんは突然、私に向かってグラスを投げつけた。幸い直接私には当たらなかったものの、床に落ちたグラスが割れ、飛び散った破片が腕に当たって少し血が出ていた。店内がザワついたが、逆に私は冷静だった。
「申し訳ございません。」
そう言って、躊躇いなく土下座した。破片の上に膝をついてしまったから、また怪我が増えた。けど今は、そんなこともどうだっていい。
「ちょ、みず…… こころちゃん!いいから!」
内海はずっと、そんな私をかばってくれていた。

しばらくして、店員がいつの間にか呼んでいたらしい警察官が来て、小林さんはあっさり店から追い出された。
「こころちゃん、今日はもう、あがっていいから。」
と、ボーイさんに声をかけられた。
「…はい、すみませんでした。失礼します。」
私は内海に一度深く頭を下げて、すぐに更衣室に戻った。本当に最悪な日だと思った。


着替えて店の外に出ると、そこには内海がいた。もうこれで二度と会わないだろうと思っていたのに。
「なにしてんの…。」
「さすがにあのまま1人で帰らせらんない。」
「いや、別に…」
「あー、ごめん違う!いや違わないけど!…こう言えばどう?俺、もっと水嶋と話してたいから。一緒に帰ってくんない?」
「なんかさ、ずるいよね。昔からそう。いいよって言うしかないじゃん。」
「ははっ、じゃ帰ろ〜。」


3ヶ月だけ恋人だったあの期間も、良くも悪くもずっと内海のペースに巻き込まれていたのを思い出した。ただ、この時ばかりはそれが本当にありがたかった。そしてまた私は、間を埋めるように会話を始めた。キャバ嬢になって身につけたスキルを、元彼相手に使うことになるなんて思ってもみなかった。

「内海こっちで家借りてるの?どこ?」
「あー、転勤急すぎたからさ、今はウィークリー借りてんの。家探さなきゃなんだよな。」
「まじかぁ…え、うち来る?」
「は?」
「え?」

どうしてあの時の私はあんなことを口走ったのか。敢えて理由を付けるとすれば、寂しかったから、かもしれない。それが全てだった気もする。

「めっちゃ助かるけど、いいの…?いや待って、さすがにダメじゃない??」
「え、部屋余ってるよ?私お金だけは持ってるからさ。住んでるとこ、広いよ〜(笑)」
「そんな簡単なことじゃないっしょ…。」
「逆に何がそんな難しいの?」
「たしかに…?いややっぱ…」
「あー!!もう、分かった!!じゃあさ、私のこと助けてくんない?」
「は…?それは、どういう…」
「だーかーら、うちで私のお世話して!!」


勢いよく発した言葉で、そこに風が吹き抜けたように空気が変わった。今回ばかりは私のペースだったと思う。たぶんもう、1人でいることに飽きてしまっていた。内海を説得することに成功して、すぐに荷物を持って家に来てもらった。

「荷物少なくて良かったよね〜。あ、お風呂ここで、トイレそこね。で、キッチンが…」
「まじで広いね…?」
「でしょ。でもさ、1個気づいちゃった。」
「なに?」
「部屋はあるけど、寝具がない。ベッドは無駄にでかいキングサイズのものが1つ。です。」
「だったら俺ソファーでしょ。」
「いや、もう良くない?キングサイズだし、距離とれるから。決定。ベッドは2人で同じものを使います。」
「家主に言われたら何も言えねぇよ(笑)」


店を出た後の私はなんだか調子が良かった。ここ最近のプライベートの自分からは想像できないくらい、スラスラと言葉が出てきた。
それから、少しだけルールみたいなものを決めた。家賃と水道光熱費はもちろん私が負担。そして、家事があまり得意ではない私の代わりに、内海がなるべく家事を担当する。もちろん私も臨機応変に家事はする。もう昭和じゃあるまいしこういう形もありだよね、という話になった。お世話係という名目でうちに呼び込んだ手前、こんなふうに役割分担するのが適切だとも思った。最初は戸惑っていた内海も、この話し合いの中でどうやら腹を括ったようだった。こうして、ただの同級生でも、友達でも、恋人でもない私たちの共同生活が始まったのだった。


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今思うと、あの時の私は都合よく内海を使って寂しさを紛らわせている嫌な女でしかない。ただ奇跡的に、たまたま利害が一致していたことだけが救い。家が無かった内海と、1人でいたくなかった私。生活リズムは全く違うし、休みも合わないから、お互いほぼ相手には干渉していない。内海が作ってくれるご飯はおいしいし、内海が先に入って寝ているベッドは暖かい。たまに休みが合えば一緒にご飯を食べることもあるし、出かけることもある。何が自然で、何が不自然かはもはや分からないけれど、この半年間、私たちが「男女」の関係になることは一度もなかった。ただひたすら平穏な日々。

今更何かを深く考えることも面倒になってしまっているけれど、たまに思うことはある。内海はいつまで私と一緒にいてくれるのだろう…。いつかは離れないといけない時が来るの…?


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再び目を覚ますと、もう17時過ぎだった。
「やば!遅刻する!寝すぎでしょ…。」
自分の怠け具合に呆れつつ、歯磨きをして、最低限寝癖だけ直して家を出た。

「わ、今日も欠けてるなぁ…」
月を見上げると、内海と再会した日と同じような新月だった。なんだか少し胸騒ぎがした。



今日は、これまたあの日と同じ。金曜日だ。お店は週末と言うこともあり相変わらず騒々しい。終電近くの時間になった頃、やっと少しお店が落ち着いたため5分程度つかの間の休憩をとる。

コンコン
「こころちゃん、ちょっといい?」
よくシフトが被る少し年上のボーイさん、大樹くんが休憩室に入ってきた。

「店長から、今日閉店後にこころちゃんと話したいことがあるから残ってもらえるかって言伝されたんだけど…。なんか、時給のこととか言ってた。大丈夫そう?」
「うん、大丈夫。残っとくって言っといて。」
「了解。じゃ、伝えとく。お疲れ。」

時給のこと…?上がるならラッキーだけど面倒だなーと思いながら、残りの2時間を過ごした。


定時後、従業員が全員帰っていく中、私は言われた通り休憩室に残っていた。数十分経った頃、コンコンとノックされたドアが開いた。そこには店長ではなく、言伝をしてくれた大樹くんが立っていた。

「あれ、店長まだっぽい?」
「あー、っと、店長は、来ない。ごめん。嘘ついた。」
「えっ…?どういう……きゃっ…!!」

一瞬の出来事だった。大樹くんは、混乱している私を引っ張り、ソファーに投げ捨てるようにして馬乗りになった。

「部屋も店自体も鍵してるから、もう誰も来れないよ。あのさ、こころちゃん俺のこと好きっしょ?俺さ、ずっとこころちゃんのこと見てたから分かるよ。俺とやっとこうなれて嬉しい?」
「ちょっ……!何言ってんの!?やめっ…」
「もう我慢できないから。ちょっと黙ってて。」

息を荒くしながら大樹くんが並べる言葉は、全く身に覚えのないものばかりで身体が硬直した。これから何をされてしまうのか、想像する前に自動的に思考が停止された。それからのことはあまり覚えていない。
事を終えた大樹くんは、また連絡すると言い、私にキスをした。私はそれを拒む元気すら無くなっていた。彼はこのまま店に泊まるらしい。私は早々と身なりを整えて店を後にした。

別に、自分の身体なんて今更どうだっていい。大切にしようとも思っていない。この仕事を選んだのだって、落ちるところまで落ちてやりたかったからだ。どうなってもいいと、どれだけ傷ついてもいいと思っていた。それなのに、どうしてだろうか。自分で自分を守れなかった悔しさに、涙が止まらなくなっている。大樹くんは、きっと何か勘違いをしている。勘違いだからと言ってあんなことをしていいはずもないけれど、なぜか自分が悪いのだと思ってしまう。そんな自分も嫌になってくる。泣きながら月を見上げる。ふと、今日家を出る前に見た、冷蔵庫の中にある内海が作ってくれたご飯を思い出した。内海の顔が見たい。内海のご飯が食べたい。内海と話がしたい。内海の温もりを感じたい。

……もう死んでしまいたい。




店から歩いて帰宅した時には、既に朝4時を回っていた。そっと寝室のドアを開け、ベッドで眠っている内海の寝顔を見る。
「ほんっと綺麗な顔してるよなぁ…。」
あまり長く見ているとまた涙が出そうだった。

内海を起こさないよう静かにリビングに移動して、冷蔵庫からお皿を取り出し、電子レンジで温める。シンプルな和食。内海とは食の好みが似ていると思う。こういう凝ってない料理が結局一番美味しい。

ご飯を食べ終え、コンビニで買ってきたワインの蓋を開ける。薬箱から睡眠導入剤を取り出し、全てを口に含み、さっき開けたばかりのワインで錠剤を流し込む。走馬灯のようにこれまでの人生を振り返りながら、闇に吸い込まれるように、体内に勢いよくそれを染み込ませた。
「はぁ………。内海……。」
これで全部終わりにできたら楽だな。そう思いながら、私はリビングでそのまま意識を手放した。



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内海が私を呼んでいる気がする。これは夢…?私今寝てる?どういう状況…?そう思いながら目を開けると、知らない部屋のベッドに寝かされていて、確かに内海が私の名前を呼んでいた。

「結月!」

内海はいつも、私のことは「水嶋」としか呼ばない。突然のことに、なぜか嬉しさが込み上げてきた。
「え、下の名前…」
「そんなん今どうだっていい!良かった……!なんであんなことしたんだよ!?後でちゃんと話せよ!?」


まだ意識がはっきりしないけれど、少しずつ早朝のことが蘇ってきた。そうだった。私、死のうとしたんだった。でも、どうして…?

「死んでない…。内海が助けてくれたの…?」
「起きたらリビングで倒れてるの見つけて。びっくりしたんだからな。今日は仕事も休んだから、結月とずっと一緒にいる。拒否権は無しね。あ、目覚めて、ふらつきが無ければ帰っていいって先生が言ってた。とりあえず誰か呼んでくるから、もうちょい寝て待っとけ。」
「うん…。ありがと…。」

まだ少しだけ頭が痛い。あんなにも死にたいと願っていたのに、いざこうなってみると生きていて良かったと感じるのが不思議だ。それもきっと内海のおかげだろう。

その後簡単な問診を受け、帰宅することになった。帰り道、内海はずっと私の手を握ってくれていた。

家に着いて、リビングのソファーに2人で腰掛ける。私が倒れた後の状態のままになっているから、部屋の中は少し荒れていたが、それはまた後で一緒に片付けようということになった。

「あのさ。ちゃんと話しない?」
「うん。だよね。」
「結月のこと教えてよ。過去も、今も。」
「うん。」
「話せることだけでいいから。」
「内海になら全部話したい。かも。」

それから私は、かなりの時間をかけてこれまでのことを話した。大学時代に付き合っていた年上の人と、23歳で結婚したこと。そのタイミングで1年勤めた会社は辞めて、ずっと専業主婦だったこと。なかなか子どもができず病院に行くと、「子宮腺筋症」だと言われたこと。妊娠は厳しいと言われ、5年間不妊治療をしたけれど、やっぱりダメだったこと。それが原因で離婚したこと。

「別に旦那のことが嫌いになったとかじゃなくてさ。私が勝手にプレッシャー感じて、それに耐えられなくなっただけなの。あっちには何の問題もないのに、私のせいでこの人は親になれないんだって。ご両親も、孫が欲しかっただろうしさ。まぁ、きっと相手はそれでも良かったんだと思うけど、私が無理だった。で、もう全部どうでも良くなって。何にも考えずに生きたくなって、とりあえず上京して、時給いいキャバ嬢選んで、ちょっといいとこ住んで。ずっと毎日、なんとなく生きてた。……あ、それで、さ…何で死のうとしたかって話なんだけど。」
「うん…話せる?」
「話したいの。……職場に、少し年上のボーイさんがいて。歳も近いし話も合うから、わりと仲良くさせてもらってて。そしたら、なんか…うん。勘違い?させちゃってたみたいでさ。私が彼のことを好きだと思ってたっぽくて。仕事終わり、誰もいなくなってから休憩室に閉じ込められて、無理やり、その……。」
話したいと思う気持ちとは裏腹に、涙が出て声が詰まってしまう。
「ん…もういい。大丈夫。わかったから。つらかったよな。ごめん、助けられなくて。」
「いいの。でもね、内海にすっごい会いたくなったの。」
「起こしてくれてよかったのに。もっと頼ってよ。」
「会いたかったのに、死にたくもなってて。いろいろもう限界だったのかもしれない。」

それから私は、ずっと聞いてみたかったことを内海に問いかけてみた。

「そういえば私たちってさ、高校時代何で付き合って、何で別れることになったんだっけ…?」
「うん、俺もそれ、ちゃんと言おうと思ってた。当時ちゃんと説明できなくてごめんな。」

内海は少し遠い目をしていた。

「1年のとき、同じクラスだったじゃん。実はずっと結月のことを目で追ってて。でも2年でクラス離れて、なかなか顔も見れなくなって、なんか寂しくて。その感情が何なのかをずっと考えてた。で、ふと連絡しちゃったの。付き合ってみない?って。」
「そうだったね、それで付き合ったんだった。私も内海のことはかっこいいなーって思ってたし、ずっと気になってたから、あの時は素直に嬉しかったし、付き合ってた3ヶ月、ちゃんと好きだったよ。」
「そっか、ありがと。…で、別れちゃった理由なんだけどさ。」
「うん…。」

覚悟を決めたような内海の横顔は、こんなときですらかっこいい。

「目で追ってるとか、話したいと思うとか、そういうのは分かるんだけど、好きって感情とか恋ってものがいまいち掴みきれなくて。周りのヤツらが言ってるそれと、俺が結月に対して思う感情が、同じなのか分からなくなったの。そしたら、こんなんで付き合ってていいのかなってなっちゃって。申し訳なくなって、別れようって。」
「…そうだったんだ。なんか難しいよね。学生だったし特にかもね。」
「どうだろう…。大学時代にも彼女がいたんだけど、相手から告白されて付き合ってて。一緒にいて楽しかったんだけど、やっぱその恋?ドキドキするとかいうのが分からなかった。で、結局は洋平の気持ちが分からないって浮気されて、お終い。そっからは誰かと付き合うのが怖くなって。かれこれ10年弱…?彼女いないの。冷静に考えるとやばいよな(笑)」

内海はもしかすると、世間的にみんなが「持っていて当たり前」とされている感情を理解できずに、ずっと苦しんでいたのかもしれない。しかし今の内海には、それを悲しんでいる素振りはなかった。

「でもね、今はこう思ってんの。俺、結月が死んだかもってなったとき、絶対生きててほしいって思ったの。まだまだ一緒にいたい、話したいこといっぱいあるのに、って。これって、ドキドキするとか、恋とか、そういうのとはイコールじゃないかもしれない。みんなが言う『好き』とは違うものかもしれない。でも、これはもしかして『愛』なんじゃないかなって。俺、結月のこと守りたいよ?できれば笑っててほしいと思うし、その横に俺がいたらいいなとも思う。高校生の頃も、俺は結月にちゃんと愛を持って接してたんだって。今なら分かる。他の人と同じような感情じゃなくてもいい。説明できない気持ちでもいいんだって。今まで難しく考えすぎてた。俺は俺にしか分からない感情で、心で、結月のこと想ってる。」
「うつみ……。」
「自分の気持ちが分からなかったし、言っていいのかずっと悩んでた。でも、俺は結月のこと、愛してるよ。どんな形でもいいからさ、一緒にいようよ。ずっと。」

今度はさっきまでの涙とは違う。人生で初めての、嬉し涙が流れた。

「えっと…私、ズボラだよ?専業主婦してたくせに家事も苦手だし、朝もグズグズしちゃう。」
「ははっ、そうだな。でも結月は優しいじゃん。きっと悲しいことたくさん乗り越えてきたからだと思うけど、他人の気持ちをちゃんと理解してる。毎日ご飯食べたらありがとうってメモ残してくれるでしょ。俺のこと起こさないようにそっとベッドに入ってくるでしょ。明日は雨らしいよって連絡くれるでしょ。それに…」
「待って!もういいから。恥ずかしくなる。」
「結月もさ、俺に会いたくなったって言ってくれたじゃん。同じ気持ちってことでいい…?」
「うん。小林さんと一緒に店に来たときは、会いたくなかったーって思ったけど。久しぶりに会ったあの日も内海は昔と変わらなかった。私が好きだった内海のままだった。だから、また好きになっちゃったみたい。」
「良かった。ねぇ、俺のこと洋平って呼んでよ。」
「えー、恥ずかしいじゃん。洋平…?」

ふふっと笑い合って、自然と唇が重なった。私たちはお互い、まだまだ知らないことだらけだと思う。それでもずっと一緒にいられる自信があった。私たちはそのまま、この半年間の空白を埋めるようにそっと身体を寄せ合った。



ー1年後ー

私はあの後すぐにキャバクラを辞めた。お金に余裕があったから、しばらくは何もせず過ごした。

そして私たちは、結婚することになった。運命とはこういうことなのかもしれない。なんと子どもができたのだ。私の身体では、子どもを授かることなんて絶対に無理だと諦めていた。この子は「洋平とだったら大丈夫」と安心して来てくれたのかもしれない。


軽く運動をするために洋平と2人で夜道を散歩している途中、満月が見えた。今日はスーパームーンらしい。

「月、綺麗だね。」
「うん。いろんな意味で。」
「夏目漱石じゃん。」
「いいえ、内海洋平です。」
「うるさいな(笑)あー、私も内海になるのかぁ。」
「どう?内海結月。前からそうだったみたいにお似合いだけどね?(笑)」

そのとき、ふとデジャブのような感覚に陥った。

「あ…。あの日の朝見てた夢と同じだ。」
「ん?何のこと?」
「洋平と久しぶりにお店で会ったあの日ね、起きる前、すっごく幸せな夢を見てたの。でも起きた瞬間忘れてて。それを今、思い出した。誰かと夜道を散歩してて、満月を見てた。あれ、洋平だったんだ。」
「なにそれ、すごくない?」
「こうなることが決まってたみたいだね。運命とかそういうの信じてこなかったのに、あの日洋平と会ってからはすっかり運命論者だよ。」
「俺は高校で出会ったこと自体、運命だと思ってたよ。」
「ばーか。」

そう言って笑い合い、もう一度月を見上げる。満ち満ちとしている月は、今の私の心と同じだった。欠けた月を見たときにしかこんなふうに思えなかったのに、満月を自分と重ね合わせられる日が来るなんて。想像していなかった未来が、ここにはある。

「暦…。」
「こよみ?」
「うん、この子の名前、暦ってどうかな。」
「いいね、月にも関係してるし。」
「宝物だね。ありがとう、洋平。」
「こちらこそだよ。」
「どっちに似るかな?」
「どっちだってかわいくなるよ。」
「顔は洋平に似ててほしいな。」
「俺かっこいいもんね。」
「そういうとこはどうかと思うけど。」


きっとこの先見上げる月は、どんな形であっても美しく感じるだろう。あの日あなたに会えて良かった。満ち欠けする月のような日々を、これからもずっと、繰り返してゆく。

~Fin~

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