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「情報」から離れたら見えるもの

なんとなく世間がワサワサしている今日この頃。
いま必要なのは、
積極的に情報から「離れること」なんじゃないかなぁと思う。


もともとTVも携帯ニュースも見ない私は、
リアルタイムで「みんなが知ってること」をほとんど知らない。
加えてこの冬はSNSを見ることをやめてしまったので、
いよいよメディアの情報に触れる機会が少なくなった。


唯一世間の情報に触れられるのは、
週に2日働いているパン屋さんか、パートナーとの会話の中でだけ。
「え、知らないの!?」と宇宙人を見るような目で呆れられることも多いけれど、
正直なところ、全然困っていないのである。


それは「情報ってどんなに遮断しても必要最低限のものは自然と入ってくる。」
ということが体感としてわかってきたから。


年号が変わるらしいよとか、台風が来るらしいよとか、マスクが欠品してるらしいよ、とか。
多少の時差はあれども、
山奥にでも籠らない限り、普通に暮らしていれば必ずどこかで誰かが教えてくれる。


そんな情報をありがたく繋ぎ合わせれば、世間の空気感がなんとなく掴める。
自分から集めなくても、必要な情報は自然と流れて来る。
そう思えたら「知らないこと」が不安じゃなくなった。


多すぎる情報は、自分の軸が揺らいでしまう。
何を信頼したら良いのかわからず、不透明な状況に不安だけが大きくなる。
自分から追わなくなると、あふれかえった情報を精査する手間がなくなる。
自分の感覚で、なんとなく事実(と思えるもの)だけを選択することができる。


「目の前の情報が全て。」と、情報という檻の中で右往左往するか、
「ここが世界の全てではない。」と、檻から一歩外に出て冷静に物事を見つめるか。
目の前で起きている状況は同じでも、それをどう捉えるかはひとりひとりが選択できるはず。


朝起きて雨が降っているのを見て
「どこにも出かけられない。」としょんぼりするか、
「植物たちが喜んでるね。」とほっこりした気持ちになるか。
目に映る世界は自分の感じ方でいくらでも変えることができる。


「不安」から見る世界ではなく、「大丈夫」から見る世界で生きたい。
半年前、仕事もお金も肩書きも人間関係もすべてを手放し、
身ひとつで松本に引っ越してきた時、この先どうなるのかそれはそれは不安だった。
けれどそれは自分自身と真剣に向き合い、より自分らしい暮らしを始めるために必要な過程だった。


だから、今起きていることも大丈夫だと信じたい。
あとから振り返ってみて、必要な過程だったのだと気づきたい。
嵐のあとの青空のように、よせてはかえす波のように、全ては自然のリズム。


本当に必要な情報は「外側」にはないと思う。
どんな状況であれ、どんな状況になっても、
心のゆとりを持って、自分の「内側」を意識して。
「自分自身がどうありたいか。」大切なことはいつだってそれだけ。


空は青く、山から吹く爽やかな風が街の人たちの間をさーっと流れてゆく。
小鳥がさえずり、犬が飼い主さんと散歩している。
高校生は元気にはしゃぎ、中年のご夫婦が仲良く並んで信号待ちしている。
薬局の棚は相変わらずスカスカだけれど、「大丈夫」の目線で外を歩くと、「いつも通り」を淡々と暮らしている人たちに出会うことができる。

「だいじょうぶ」の世界が広がりますように。

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Photo @ 諏訪、長野

電線と遊ぶ雲。青空にかかる電線って五線譜みたいでなんだか気になる。

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