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河口の町:其の5

 昼下がりの気だるさを漂わせ、閑散としていた先ほどの駅の構内にも、今は見違えるように人が増え、活気がみなぎり始めている。会社の引け時には、まだ少し早かったが、待合室は、空席がないほどの混みようだった。
 布製カバンを肩にした中学生らしいグループが、ふざけ合いながら、改札口へ吸い込まれて行く。大きな買い物包みを下げたおばさんが、手を引いている子供を叱りながら、切符売り場の方へと急いでいる。リュックサックを背負ったおじさんが、ゴム長靴をひきずるように、大股で去って行く。ホームへ滑り込んで来た蒸気機関車の荒い息遣いが、駅の構内まで響いてくる。
 家路を急ぐ人々の渦の中で、綾も美川の我が家を目指して、必死だった。
「どの汽車に乗ればいいんだろう?……」
 構内の柱に掛かっている大きな丸い時計と、改札口の上にずらりと並んでいる時刻表の黒いボードを見比べながら、綾は暫く思案していた。だが、その二つを関連づけることは、綾には難しすぎて、どうしてもできなかった。ただ、美川の方角だけは、見当がついている。
 綾は、意を決して改札口へと歩み寄る。ポケットから、幾度も握りしめてみた切符をとり出し、掠れた声を絞り出した。
「あの……今度の汽車は……美川で停まる?……」
「ああ、四時四十分発の下りやね……美川に停まるわ……そこのホームで待っとるまっし。もうじき、来るさかい……」
 若い改札係りは、リズミカルな鋏の音を絶やすことなく、上半身だけをちょっと捩じ曲げ、尖った顎で後ろのホームを示しながらいった。
 綾は、間もなく、轟音とともに入って来た下り列車の乗客となることができた。車内の中ほどの通路側に、綾は目ざとく空席を見つけ、やっと腰を下ろす。からからに乾いた綾の口から、ほっと小さな吐息が洩れた。
 金沢駅で、多くの乗客を積み替えた汽車は、発射ベルに急(せき)立てられたかのように、ゴットン、とひとつ大きな身震いをすると、また暮色(ぼしょく)の立ち込めた金沢平野を走り出した。
 向かい合った四人掛けの座席は、綾の外は、四人連れの家族らしかった。綾の横には、父と同じ年恰好の農家のおじさんが腰かけ、向かいには、弟より少し小さい赤ちゃんを抱いたおばさんと、妹くらいの女の子が座っている。私が交じると、うちと同じじゃない?……綾は内心、驚いた。
 そのうち、赤ちゃんがむずがり出すと、おばさんは紙袋からかき餅を取り出し、手に持たせる。それから、口の開いた紙袋を、おじさんと女の子の間に、突き出した。二人の手が同時に延びて、中のかき餅を取り出して行く。
 俯き加減だった綾と眼が合うと、おばさんは、
「一人なが?……」
 と聞いた。綾が大きく頷くと、
「食べる?……」
 といいながら、紙袋を綾の方に突き出した。綾は慌てて、二・三度横に首を振る。おばさんは頷くと、そのまま紙袋の手をひっこめた。四人は、ぱりぱりと威勢のよい音をたてながら、かき餅をかじり出した。
 本当は、綾もかき餅を食べたかった―――この家族と同じように―――お父さん、お母さんと一緒に、汽車に揺られながら―――かき餅を食べたかった―――でも、私のお父さんは病気だから―――
 寂しさが、風のように体の中を吹き抜ける。綾は、楽しいそうにかき餅を食べている親子連れを横目で見ながら、ひとり、しょっぱい唾を飲み下した。
(其の6に続く)

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