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河口の町:其の6

 ゴトン、ゴトン……ゴトン、ゴトン……規則正しい車輪の響きも、今の綾には、もう悲しい音に聞こえる。伸び上がるようにして眺める車窓には、白地に黒い模様を描いた反物を手操るように、田んぼや畠が、次々と現われ、消えて行く。
だが綾の心には、降車駅のことしかなかった。四つ目、四つ目、ただ降りる駅の順番だけを、呪文のように繰り返す。それでも、安心できず、綾は停車の度に、伸び上がり、ホームの看板に目を凝らし、駅名を確かめた。
 それでも三十分ほどかかっただろうか。綾は無事、美川駅に降り立つことができた。ゴトン、ゴトン……という重い振動音は、身体の芯に残ったままだった。
綾は、何だか随分長い汽車の旅をしたような錯覚に陥っていた。
 美川の駅前にも雪は残っていたが、金沢よりは、ずっと少なかった。火ともし頃の見慣れた街並みに、いい知れぬ懐かしさを覚えながら、綾は勝手知った我が家への道を急いだ。
「ただいま……」
 お遣いが不首尾に終わったことなど、綾の頭のどこにもなかった。ただ無事、帰り着いた喜びだけが、全身を包んでいた。綾は、勢いよく玄関の戸を開ける。
「あら、綾か……ご苦労さん。それにしても遅かったね……」
 弟を抱いた割烹着の母が、奥の部屋から出て来て、玄関の電気をつける。明りに浮かぶ綾の姿が、出かける時と同じであることに気付いたとたん、母の声は、一オクターブ高くなった。
「その包みは、どうしたん?……村井の会社の人に渡してこなんだんか?……」
「伯父さんの会社……見つからなんだ……」
 綾は消え入りそうな声で答える。上がるに上がれず、玄関に立ち尽くす綾の頭上に、母のヒステリックな叱声が、容赦なく降ってきた。
「なんと情ない子なんや……そんな簡単なお遣いもできんとは……金沢の駅前に、伯父さんの会社がないはずないやろ……どこ見てきたんや。ほんまに仕様のない子やね……それでお姉ちゃんといえるかいね」
 綾の心は、強い緊張と不安や焦りに、揉みしだかれ、ずたずたに擦り切れたボロ布に似ていた。かろうじて僅かの糸が、このボロ布を繋いでいた。その糸も、母の怒りの衝撃によって、あけなく切断された。
 綾には、プツン、と音がしたように感じられた。体中の力が一瞬に抜けて行く。
綾の目から、今まで堪えに堪えていた涙が、堰を切って流れ出した。激しく泣き出した綾を見て、母は一変、優しい語調になっていった。
「少しでも早い方がいいと思ったがやけど……仕方がないわ……明日、お隣りの小父さんにでも頼んで、持って行ってもらうことにしよ……さあ、寒かったやろ……もう泣かんで、早う上がるまっし......」
 それでも綾は、頑固に動かず、濡れて一部破れかけた新聞紙の包みをぶら下げたまま、片手を目に当てて泣き続ける。今の綾には、泣くことが快かった。泣くことだけが、綾の心身に沈殿したいっさいのものを、溶解してくれるような気がした。
 玄関に立ったまま、激しくしゃくり上げている姉を、母の腕に抱かれた弟は、不思議そうに見つめていた。
(其の7に続く)

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