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やっぱり最後は自分ф(。。)

 闇の中にいた数年、藁をもつかむ気持ちで出会った人がいる。その人は、私の置かれている状況を「吹雪の中で傘も刺さずに歩き続けている」と表現した。驚いた。自分のイメージは戦場、傷が塞がらずに死にそうなくせに相手を倒すべく燃え盛るイメージだったからだ。

 当時の私は、上司やその取り巻きの、クライアントの気持ちをないがしろにする仕事に怒り心頭、戦い続けていて、傘下に下らない私に向けられた執拗な攻撃に傷ついた状態。その人の言葉を聞いて、初めはその意味が分からなかったが、後々、心が攻撃によって疲れ、弱って、凍えていたのだということ、凍えた心を癒すことなく、吹雪のような攻撃を避けることもせず歩みを止めないから、心は満たされることなくどんどん固く閉ざされていったこと、という意味があったことを知った。「吹雪をなめたらダメ。吹雪は死ぬことだってある。どこか吹雪をやり過ごす場所を探してじっとするか、せめて傘をさしたり温かい服を着たりしないと、ホントに死んでしまう」そんな瀕死の状態にみえていたのか。。。自分の知らない自分を教えてもらったと同時に、休んでもいいことを教えてもらった。

 あれから少しずつ、自分の状況を紐解いて、古くは自分の生い立ちまで遡って、自分の思考のルーツを探っている。一つ、自分が本当に嫌なんだろうなという「人の言動」があった。感情の伴った否定。弱い自分が、自己肯定感の低い自分が、最もダメージを受けることだ。憤りも激しく感じるが、同等の傷をも負っていたことに、最近気付いた。

 戦っていなくても、ダメージを受ける。手術をした足の回復が遅れていたことを、主治医に「遅い」と言われた時、先生が思い描いていた状態では無かったからか、しかめ面が言葉と一緒になって視界に飛び込んできた。ここでHSPを引き合いに出すのもどうかと思うが、私にとって先生の落胆は、完全な「否定」だった。自分でもびっくりするくらい落ち込んで、リハビリの先生に「怖かった」とこぼしたくらいだった。

 今日は、あれから5か月、手術後半年の診察。リハビリで行った筋力測定の結果は散々で、「叱られてきます」とこぼれてしまう結果だった。でも、今日の先生は違った。こぼした私の言葉をリハビリの先生が主治医に伝えたのかとも思うが、先生は淡々と、でも丁寧に足の状態を教えてくださった。半年にしては筋力が足りていないので、筋力トレーニングを継続して、3か月後にもう一度筋力測定のチャンスを作ってくださった。

主治医は、初めて診察を受けた時から、実にてきぱきと的確に診断を進め、今後の手術やリハビリスケジュールを分かりやすくきちんと教えてくださる、極めて優秀なドクターという印象だった。後に、病院長であり、スポーツドクターとして名を馳せる人だと知って、ラッキーだったと思っている。術後1か月診で言われた「遅い」は、そんな優秀な先生の治療を受けて、リハビリの先生もしっかり見てくださっていたにも関わらず、回復が遅れた自分がポンコツだったという自己否定が強かった。