人生の賞味期限と消費期限

この人生、思ったよりも時間がない。

なりたい自分があるとして、追い付いてみたい将来像があるとして、そこに理想のまま辿り着こうと思ったらたくさんのことを切り捨てなければならない。

ただそれも難しい。
であれば、理想とする将来像から少しずらして及第点を見つける、もしくは将来像へのアプローチにかかる時間を少し先延ばしにする。このどちらかではないかと思う。

しかし、そんな短いスパンで考えていること自体が不毛だとしたらどうするべきか。足りない頭で考えてみました。


人はいつ死ぬのか。
いまだに忘れられない言葉として、ワンピースに登場する医者「ドクターヒルルク」の死に際の一言が思い出される。
「人はいつ死ぬのか、人に忘れられた時さ」
つまり、例え人としての形を為さなくなったとしても、その人のことを覚えている人が一人でもいる限り誰かの心の中で生き続けている、という意味だと思う。

これは、素晴らしい人が最後に残した素晴らしい言葉として語り継がれるべきだと思うが、逆説はどうだろうか。
例えばその人が元気に生きていたとして、しかし世界中の全ての人から存在そのものを忘れ去られていたら、その人は死んだことになるのだろうか。

個人的には、死んだことになると思う。
具体的に言えば、その瞬間を生きていない、つまり今は生きている価値がないが、先の話はわからないという解釈です。

誰かがいて、その誰かと一緒にいることが人生の最大の幸福らしいので、僕も多分そこを追い求めることになるんだと思います。

ここで先ほどまでの考えをタイトルに当てはめる。

味の保証を賞味期限、品質の保証を消費期限とした場合、人生はどちらに当てはまるだろうか。

僕は、賞味期限が近いと思います。

例えば何かを諦めたとして、それで人生そのものが粗悪になるわけじゃない。少し変わった味になるが、味わえないわけじゃない。
例えば人生が終わるとして、それまで歩んできた人生そのものが腐敗するわけじゃない。着色をされるかもしれないが、きっと誰かの心に残る。

ただし永遠じゃない。自分のことを覚えていた人だっていつかは死ぬ。ヒルルクに言わせれば、その時初めて死んだということになるのだろう。

永遠じゃない人生の中で、精一杯に足掻くことのできる時間はどれだけあるのか。

結局は自己満足でしかないこの人生、振り返った時いいものにしたいならがむしゃらに走るべき。要所要所で幸せを感じて、常にゆとりのある人生を歩みたいなら時間と対話しなければならない。

時間は資産とはよく言ったものだと思う。


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