1945年(昭和20年)・8月6日(月曜日)・午前8時15分
アメリカ合衆国は、人口約35万人の広島市に原子爆弾リトルボーイを投下
人類史上初の都市への核攻撃
原爆によって亡くなった人の数は、今もまだ正確には分かっていない。
広島市によると、放射線による急性障害が一応おさまった昭和20年(1945年)12月末までに、約14万人が亡くなられたと推計している。
2024年8月6日 広島原爆の日から79年
あの日のことを語り伝えてくれた大阪府寝屋川市にお住まいの被爆者、山下しのぶさん(広島)と今井セイ子さん(長崎)の被爆体験をここに書き残します。
決して忘れることのないように。
質) 川中 ▶︎原爆が投下された時、お父さんはいらっしゃったということですが、徴兵へは行かれなかったのですか?
質) 川中 ▶︎岸田首相は、NPT体制(核拡散防止条約)などは核兵器を無くすためには現実的だけれども、核兵器禁止条約は現実的でないとご自身の著書で書かれています。このことについて、被爆者としてどのようにお考えか聞かせてください。
質)川中 ▶︎ 岸田首相に対して何か訴えたいことはありますか。
質)橋口大阪原水協事務局長 ▶︎被爆者として色々と病気もされたと思うのですけども、よく言われている差別があるので被爆者ということを隠していたという経験はありますか。
質)橋口大阪原水協事務局長 ▶︎第五福竜丸で被爆された人で、最終的にアメリカが責任は認めなかったけども見舞金を出して、第五福龍竜丸の乗組員に渡っていますが、その時に妬みがひどく焼津に居ることができなくなり、東京に行ったというかたもいらっしゃったのですが、そういうものがどこかあるんですね。
質)橋口大阪原水協事務局長 ▶︎ビキニでの実験で被爆した船というのは、第五福竜丸だけではなく、日本のマグロ漁船だけでも約1000隻くらいと言われています。他の人は何の保証も無かった。