パトムとは Patom

パトムはあらゆるものを奪っていきます。
人間関係、仕事、学習の場、行動範囲などです。人によってはもっとあるでしょう。

パトムでも自立した人生を送れるように願って、私がパトムを発症してから3年間のお話を書きます。
パトムへの理解が広まって、パトム患者の生活や暮らしの自由に制限がなくなるようなサポートが、行き届くことを期待しています。


パトムは腸の不調からなるアレルギー症状と言われていて、全身から出る皮膚ガスが周囲の人に特殊な反応を与えてしまいます。その反応はくしゃみ、鼻水、目のかゆみ、肌のかゆみ、咳などです。自分自身が花粉になったイメージと言うとわかりやすくなると思います。中でも特徴的な反応は咳です。咳と、咳払いですね。

普通、喉に痰が絡んだ時には咳や咳払いをすれば取れますよね。でも咳や咳払いを何回しても痰が取れないんです。
「ゲホッ、ゲホッ、う、うんっ、ん゛、ん゛、あ゛、あ゛、あ゛、」
こんな感じで、やってもやっても痰はからんだままの状態なんです。こんな状態を周囲の人たちに引き起こさせてしまいます。

パトムは自分自身にも反応が及びます。私の場合、そのまま咳や咳払いをしつづけると、喉から血が出てきてしまうので途中であきらめます。この時、声はかすれてガラガラです。会話になりません。同時に喉がチクっとしたり、かゆい感覚が起きることもあります。私の場合、10分から20分くらい経てば、だいたい収まります。いつまた起こるかはわかりません。すぐだったり、何時間後かだったりします。ただ、今でも毎日必ず起きています。
パトムにはまだ、治療法は見つかっていません。


まだ周囲に影響を与えず、自分自身にだけ反応が起きていた頃が私にはありました。その時、私は耳鼻科に行ったのですが、とくに異常はないという診断でしたし、症状は毎日ですが四六時中というわけではないので、そのまま様子を見ている状態が続いていました。

そんな中、建築関連の法律を学ぶ教室に通うことになったんです。宅建とかマンション管理士の資格取得を目指すための学校です。当時私は30代後半、まだパトムなんて言葉も知らない時でした。
4月から9月までの6か月で修了するコースでした。1クラス約20人、20代から50代の男女で構成されています。教室の広さは公立の中学や高校の広さの1.5倍ほどです。

パトムの始まりはゴールデンウィークが明けた頃からでした。
席替えがあったんです。その教室は結構席替えが頻繁にあって、1週間から2週間に1回くらいのペースでした。席の近い人が仲良くなりすぎて、授業に集中できなくなるのを防ぐため? だと思います。

その日は週末だったと記憶しています。
私の隣の席に座っていた人が、咳込み始めたんです。1分経っても2分経っても、咳は止まりませんでした。
そのまま授業中ほとんど休むことなくその咳は続きました。
授業が終わってから周辺の方々が、大丈夫? と声をかけに来ていました。その人はそれまでの間、何日も私の隣の席に座っていましたが、なんともありませんでした。その日になって突然の出来事だったんです。

翌週、朝から席替えがありました。各々が替わった席に落ち着き、授業が始まりました。
そして、また咳が始まりました。私の隣の席の人です。先週とは違う人です。しばらく咳込み、落ち着いたと思ったら再び咳込みます。
先週の事を思い出しました。先週、咳込んでた人を見るとその人はなんともありません。というか、ほかに咳をしている人はいませんでした。
クラスの何人かがこちらをチラチラ見ています。
(・・・オレが原因?)
漠然とでしたが、私はそう思いました。イヤイヤイヤイヤ、だとしたらどういう理由で? こんな奇妙なことありえないと思いましたが、違う2人に連続で同じ現象が起きているのは事実なわけで。

その日、帰りの電車内でも、それは起きました。立っている私の前の座席に座っていた人がむせ始めたんです。
「ゲホ、ゲホ、ん゛、ん゛、あ゛、あ゛、」
それは自分が毎日起きているのと同じ状態でした。私が乗車して、その人の前に立ち始めてから数分後のことでした。咳と咳払いは止まりません。苦しそうでした。

次の停車駅で、私は開いた席に座りました。その人から見て斜め前のシートの端です。
数十秒くらいだったころでしょうか、その人の咳は止まりました。


この日から私は極力、人から距離をおくことを意識しました。
電車では両端の車両のどちらかに乗るようにしたり、学校では休み時間には教室を出ました。お昼休みは雨じゃない限り屋外に出ましたし、教室の移動の際も集団から離れました。エレベーターにも乗りません。
同時にネットで同じような現象を経験している人はほかにいないかどうかを調べ始めました。該当するようなものは見つかりませんでしたが、検索結果の中に小麦アレルギーの記事を見つけ、もしかしたらと思い読んでみました。
男性の経験談として書かれていた記事でした。
ー小麦を摂取しない生活を送っていたら周囲の反応が明らかに変わった!ー
グルテンフリーを推し進めるそんな内容でした。

ほかにめぼしい情報が得られなかったので、グルテンフリーを試してみることにしました。
パン、パスタ、ラーメン、そば、うどん、フライ、天ぷら、カレー、醤油まで断つ生活を続けました。

そんな中、パトムの反応は隣の席の人だけではなく、クラス中に広がっていきました。
席替えを繰り返しているうちにわかったのですが、隣に座る人が必ずしもむせるとは限りませんでした。私から離れて座っていても激しい咳をする人はいましたし、隣でも普通にしている人もいました。人によって反応は異なり、強弱もまちまちです。咳以外には、クシャミ、鼻水、が多かったです。


私は病院に行きました。近所の内科です。
「空気が乾燥してるのと、体内の乾燥もあるんだろうね。」
それが診断結果でした。

それからも現象は続きました。
水分補給は頻繁にし、処方された喉の薬も飲んでいましたが、まったく改善の兆しも見えませんでした。
授業の準備中、教室内で話し声が耳に入ってきます。
「病院行った?」
「どうだった?」
「ウィルス性の喉の炎症じゃないかって言われた。」
「私はただの風邪だろうって言われた。」
いよいよクラス中がこの異変の原因を知りたがっていました。

後ろの席の人の会話も聞こえてきます。
「わたし犯人わかった・・・。」
心臓が冷たくなったような感覚に、私は襲われました。
「あれあれ、〇〇菌だよ。」※〇〇の部分には人の名前が入ります。
(〇〇菌?)
私はさりげなく教室を見渡しました。窓側の席の〇〇さんを見つけました。腕を組みながら何回も何回も大きく咳をしています。
(〇〇さんのせいになっているということか・・・?)
そう思いながらも私は、その〇〇さんの隣に座る女性に目が行きました。
〇〇さんの横で、その女性は手で口を押さえながらどこか驚愕ともとれる表情をしています。

私は思いました。
彼女は彼女自身が犯人なのではと思い始めているんじゃないか。
犯人はこの私なのに、〇〇さんの咳の原因が、横に座っている彼女自身じゃないかと思っているのではないか。すなわちこの教室の異変の原因が彼女自身じゃないかと思っているのではないか。

私の体は周囲に身体的なつらい反応を引き起こすに留まらず、
人の心にまでひどい作用をもたらしている。

そう思った瞬間、限界を感じました。
私はいなくならないとダメなんだということがわかりました。


私は退学しました。
頼れる友人も家族もなく、生活に余裕があったわけではなかったので、体の事はすごく気になりましたが仕事をすぐに見つけました。状況が状況なので、短期の勤務ならなんでもいいくらいの気持ちでした。
学校ではゴールデンウィーク明けから現象が始まったので、1か月半は大丈夫だろう。仕事の契約期間が2か月までなら、なんとかいけるか・・・、そう思っていました。
ほかの条件の確認はそこそこに、私は登録していた派遣の仕事を始めました。

通勤時間片道1時間の場所でした。電車の乗車時間は約30分。大きな倉庫内のピッキングの仕事でした。面接では同じ部署で一緒に作業する人は4,5人程度、という説明でした。作業場所は学校の体育館の約3分の2の広さがありました。そのスペースの半分を棚が占めていたましたが、それでも4,5人なら距離は保てそうだと思いました。

初日、控室で朝礼が始まりました。課長に呼ばれ、私は職場の皆さんの間をすり抜けて課長の隣に立ちました。課長のあいさつが始まりました。
「皆さん、おはようございます。えー、こちら、今日から一緒にお仕事・・・、ん゛、ん゛、」
課長はこぶしで口を押えます。
「今日がら、ん゛、ん゛、ん゛! 今日が、あ゛、あ゛、あ゛!」
だれかが課長にペットボトルを手渡しました。課長はそのお茶を口に含みます。
「あ、ごめんごめん。こちら新人の派遣さんです。今日からよろしくお願い致します。」
課長の声はガラガラでした。

私はかなり驚きました。影響を与え始めるのが1か月半程度だと考えていたのに、まさか初日からとは思いもよりませんでした。まずい、とにかくまずい、学校とは違い、仕事は自分の意思だけですぐに辞めるわけにはいきません。契約期間は2か月、失望感というか罪悪感というか、とても重くのしかかってきました。

朝礼修了後すぐに作業が始まりました。この時は週3日のパートさんと私を含め計5人での作業でした。私は教わりながらも距離をとり、微かな風の流れを感じて風下をキープするように気を付けました。
私はこの当時、呼吸から出るなんらかの物質が、そんな影響をもたらしているのではいかと何の根拠もないのですが思っていました。なのでマスクは常時着用し、そして極力、人の近くでは息を止めました。あと、更衣室やトイレなど、閉ざされやすい狭い空間にいる際もです。人がいるいないは関係なく、この物質が留まってしまわないように気を付けました。

作業が始まって1時間後、建物の2階から大勢の人が倉庫内に入ってきました。
「午前中の2,3時間はこんな感じです。営業の人も荷物を集めに来るんですよ。」
面接では聞いてないことだったので、正直戸惑いました。一気に人数が20人くらい増えた倉庫内で、私は頑張りました。やはり近くで作業をしている人から反応は出てしまいました。

お昼、皆さんと一緒に控室で食べてもいいと言われていましたが、完全に無理なので初日から私は外に出ました。皆さんの食事中に反応が起きることを想像すると、気が遠くなりました。

私は近所の公園に行きました。日陰のベンチに腰を下ろします。
(まさか初日からやってくるとは・・・。それに午前中のあの人の量・・・。)
長かった午前中を振り返ると、かなり気が滅入りました。
でもあと2か月。すぐだよ、すぐ、すぐに終わる、自分にそう言い聞かせ、私は手作りのラップおにぎりを頬張りました。


これまでの通学とは異なり、帰りの時間帯はラッシュでした。電車は満員です。大きく息を吸い、止めたまま一番端の車両に乗り込んで、ドアの前をキープします。
ズルズル、ズルズル・・・。鼻水をすする音が聞こえてきて、私の体は硬直しました。
(少し息が漏れたかな・・・。)
「ゲホッ!」
別の方向から今度は咳が聞こえます。その都度私の心臓はビクッと急激にちぢむ思いでした。
それから30分の間、電車が駅で停車するたびに、私は一度電車から降りて呼吸を整えるということを繰り返しました。

仕事は仕事で楽なものではありませんでした。一番重いものでは20kgある商品を何十個もパレットに移し替える作業もありました。手のひらサイズのものとかもたくさんあったりするのですが、重量物のパレットだけほかの人が近寄らないんですよ、なぜか。

パトムはパトムで確実にその反応範囲を広げていました。反応の種類も大きさも人それぞれではありましたが、いつしかすれ違うだけでも反応を与えてしまうようになってしまいました。どうやら学校にいた時よりも悪くなっているようです。

帰りの電車内でもそれは感じました。あちらこちらから絶え間なく反応が起きている場合は、電車を乗り換えて帰るなんてこともしょっちゅうでした。電車以外の通勤方法を考えたことはありましたが、町田から厚木までの距離です。車もバイクも持っていない私には思いつきませんでした。


それでもなんとか毎日を乗り切り続け、ひと月が経ったころの仕事帰りでした。帰りの駅までの途中にある公園で、夏祭りが行われていました。私はお祭りの雰囲気が大好きだったので寄って何か買っていこうかと思ましたが、反応が頭をよぎります。
でも、どこまでも連なる提灯の明かり、バリバリと聞こえる案内の元気な音声、イカと醤油が焦げるにおいが、私の気持ちを少し軽くしてくれた気がしました。
買ったらすぐに公園の端っこの方に行けば大丈夫かな、と思い私は公園に入っていきました。中央でぐるっと出店を見渡し、ご当地ビールとフランクフルトに決めました。

先に誰も並んでいなかったご当地ビールの出店に向かい、1杯注文しました。600円はまあまあするなと思いながらも1000円を手渡し大きな紙コップに入った冷たいビールを受け取りました。その時、受け取った左腕に妙な違和感をおぼえたんです。しびれているというか、感覚がないというか、自分の腕じゃないような感じでした。まるで誰かが後ろから腕を伸ばしているのではないのかと思えるくらい。
すぐに店員さんがお釣りを渡してきました。それを受け取ろうと差し出した右腕にも同じ感覚が襲ってきて、私はとっさに左手に持っていたビールを置いて、両手で400円を受け取りました。
お釣りを渡した店員さんは不思議な表情で私を見ています。異様な光景だったと思います。

私はすぐにその場を立ち去りました。歩きながら両手でそれぞれの感覚を確かめます。両腕はすでにもうなんともありませんでした。
(なんだったんだ今のは・・・。)
困惑しながら歩いていると、
「ゲホッ、ゲホッ、」
「う、ん゛、ん゛」
むせる声が周囲から聞こえてきて、気が動転していた私はそのまま公園を後にしました。ビールを出店に置いたままにしてきたことは、電車に乗ってから気づきました。
この時は調子に乗ってバチがあたったんだじゃないかと思っていましたが、これは今でもたまに起きていて、詳細は不明ですが、おそらく人が怖く感じ始めたことが原因じゃないかと思っています。※1


契約期間が満了しました。
もう1か月延長してほしいと派遣会社から要望がありましたが、断りました。これ以上、この会社の人たちに迷惑はかけられません。かといってほかの誰かならいいのかといったらそういう事でもありません。
パトムには2種類というか2段階の迷惑があります。アレルギー反応を引き起こさせてしまうという事と、その原因となっている犯人は誰なんだと疑心暗鬼にさせてしまう事の2種類です。
私にも生活がありましたので、せめて、1段階目の範囲で姿を消しますので、なんとか働かせてくださいという気持ちでした。

辞めたもののまだ次の仕事は決まっていません。なので仕事を探しました。
条件は、最低2か月以内の短期間、公共交通機関を使わない、広い職場、人が少ない、人との距離が近くない、休憩場所が限られていない、電話を使わない(タイミングにより会話不能。最悪「折り返します」も言えない状態に陥るし、他人を陥らせる。)、雇用保険の加入。要はパトムの反応が起きにくいかどうかでした。起きなければそれに越したことはないし、起きても2段階目に突入することなく穏便に辞められることが条件でした。

しかしこんな条件まずありませんでした。そんな中、家で仕事ができれば万事解決なのではと思い、この時から在宅勤務を視野に入れ仕事を探し始めました。しかしそれも難しい問題でした。そういう募集もあるにはあるのですが、条件が満たせませんでした。
内職系でいうと、製品を会社まで引き取り&納品するのに車(私は無免)が必要だったし、募集でもっとも多いウェブ系やグラフィック系のお仕事は実務経験が必要でした。そのどれも持ち合わせていない今の私では手が届きませんでした。

それでも何かないものかと調べていくうちに、アフィリエイトというシステムを知ります。アフィリエイトとはブログや、解説サイトなどのウェブページに広告を載せて、広告代理店から広告収入を得るという仕組みです。
人気のサイトを作り、人々がそのページに表示されている広告を見て、そこに出ていた商品を買ったり、サービスを買ったりすれば、その売り上げの一部が収入になるというものです。
しかしライバルは多数におよびます。今時広告のないサイトなんて見かけることがありませんから。
どのように人気のあるサイト作るかは重要だし、また検索されやすくする工夫なんかも必要になってきます。
派遣とかの仕事と平行してやってみよう、私はそう思いました。


ずっと自分の体調の異変に悩み、怯えた状態が続いていたので、ちょっと気分転換しようと考えた私は子供のころ毎年赴いていた東京の西にある秋川に行きました。高い建物もなく見晴らしがいいその川の水はとてもきれいで、大量で、懐かしいものでした。
岩に腰を下ろして膝まで流水に足をつけながら、流れる音にしばらく時間を忘れました。夏休みも明けた9月だったので、人の姿はまばらです。向こうには遊園地サマーランドの滑り台が小さく見えました。
この時に、こういう景色や情景を写真に納めてサイトに載せたら人気出るかなと考え始めました。

この数日後に派遣会社から紹介があり、10月から年末までの仕事の紹介を受けました。
もちろん、私にとって条件が厳しいのは何も見ないでもわかっていましたが、生活がありますので職場見学に行ってみることにしました。

通勤時間は約1時間、電車に乗る時間も前回とほぼ同様、約30分でした。しかし最寄駅から職場まで社バスでの移動になっていました。職場見学の日、その社バスが超満員になることを知りました。すべて人で埋まったシート、中央の通路には立つ人がギッシリ。運転手さんの「もう少し奥へ進んでくださーい」がしばらく続きました。ギュウギュウ詰めです。
人より少し背の高い私はバスのほぼ中央で、低い天井を向いて息を止めていました。5分ほどしてから私の隣の人、そして奥の方からも反応が出始めました。
(すいません・・・。)
心の中でお詫びをし続ける中、運行時間10分弱で職場に到着しました。もう帰りから乗れないなと、私は社バスをあきらめました。

小さなビルの中の印刷工場でのお仕事でした。常時オペレーターさんたちがそこで大型プリンターを使って印刷を行っていて、私の役割はそのプリンターに不具合が生じたらその対応をするという内容でした。
オペレーターさんの数もプリンターの数も多かったですが、人との距離は2,3mくらい保てそうでした。しかし反応は必ず、初日から起きるだろうとも思いました。

その日、営業さんには就業するかどうかの回答を翌日まで引っ張り、社バスには乗らずにとりあえず歩いて駅まで帰りました。
早く歩いて25分かかりました。帰りの電車内で周辺の地図をスマホでチェックし、お昼休みをしのぐ公園を探します。その時、その職場と自宅の大体の距離がわかりました。その距離は約10km。
(これなら自転車でいけるんじゃないか?)
通勤時間はさほど変わらないまま電車とバスのストレスは回避きできます。
私は仕事を引き受けました。

地図上空から見た距離は10kmでも起伏の多いこの地域はもっと長く感じました。2回のパンクを乗り越えたりしながら3か月、なんとか契約期間をまっとうしました。
パトムの反応は工場全体で起きていました。特に工場の社員さん2人に。この2人はほかのアルバイトのオペレーターさんたちよりもずっと長く職場にいるのでそうなってしまいました。最初の方はしていなかったマスクを、ずっと着けさせてしまうことになりましたし。
それでも2段階目になっている感じは伝わってきませんでした。アルバイトの人たちも期間限定の人たちだったんです。それでシフトはバラバラなのでそれぞれの人間関係は希薄でしたでしょうから、この現象について話をする機会がなかったんじゃないかと思っています。
でも就業中、初日から開け放たれたその工場の窓が、冬の12月下旬の最終日になっても、閉じられることはなかったので、それはとても悪いことしたと思っています。


年明け、すでに次の仕事は決まっていました。
業種は控えますが、大きな工場の中の大きな倉庫内です。体育館くらいあるその広い工場の中で25人くらいが同時に作業をします。シール貼りとかそんな感じの軽作業でした。期間は2か月、電車&バスで約50分でしたが距離は13km。自転車だと1時間半あれば着けました。肉体労働ではないし、座り仕事なので、通勤はかなり疲れましたけど体力は勤務中に回復できました。

休憩室としてプレハブの詰め所を用意してもらえましたが、私は必ず外に出ました。自転車で10分くらいのところに大きな公園があったのでそこまで毎日お昼を食べに行っていました。雨の日はその公園の東屋を使いました。
大雪の日がありまして、その時は歩いてファーストフード店まで食べに行きました。久しぶりでした、お店で食事をとったのは。これからはこういう仕方のない時じゃないかぎり、外食はできなくなったんだなぁと、同時に思いました。

責任者さんから発表がありました。
予定が変更になってこれからは暇になります。早く帰る日が多くなるとは思いますが、賃金は定時の分までちゃんとお支払いしますよ、と。
話によると、今回の仕事の発生の原因は提携している会社の責任で生じたらしく、我々の賃金もその提携会社が支払っているとのことでした。今回の予定変更も提携会社の都合なので、仕事が無いなら帰っていいし、でももらうものはもらっていいし、っていうことです。でもいつ暇じゃなくなるかはわかりませんとも付け加えていました。とてもラッキーでした。

それから一週間くらいは午後に2時間くらい作業をやったら帰るという日が続き、それ以降は午前中に終わるなんてことも珍しくありませんでした。
これは一度だけでしたが、出勤してタイムカードを押した後、何もしないで帰るということがありました。長距離を自転車で来て、休む間もなく帰ったので、その途中自転車をこぎながらバテてしまって休み休み自転車をこいで帰ったのを憶えています。

この仕事も期間を満了し、ここから雇用保険の申請に入りました。雇用保険に入っている期間が1年間で6か月以上あれば、雇用保険は適用され90日間の手当てが出ます。
私は申請を済ませ、在宅で生活できる環境を整える準備を始めました。

ホームページでのアフィリエイトの方向で行こうと、就業期間中もいろんな所で写真をたくさん撮っていましたが、まずYouTubeでお金を稼ぐ方法でいこうと思いました。盛り上がっていたし、始めるのがホームページのアフィリエイトよりも早く簡単にできたからです。
しばらくいろんな動画を見ていました。何が人気で儲かりやすいかを知りたくて研究しました。

そんな中、これならやれるかもしれないと思ったのが、ゲームの実況動画でした。私はゲーム機やマイクを購入して、音声を吹き込みながらゲームを録画していきました。その後に効果音を付けたりした編集を行い、ミスをしては消してやり直してを繰り返し、やっとできたものをYouTubeにアップしていきました。来る日も来る日もそれを続けました。人のいる場所に勤めに出るのが怖かったし、焦ってもいたので休めませんでした。そんな中、雇用保険の延長が決まりました。動画制作と平行して求職活動のもちゃんとしていたのでその実績を認められたのです。
しかし一行にYoutubeの再生数は伸びませんでした。登録者数は40人を行ったり来たりで、すべての動画を合わせても収益は3000円程度。
いつの間にか9月になっていました。


派遣会社から連絡があり10月からまた印刷工場の仕事があるからやってくれと言われ、それを引き受けました。
場所も内容も、かける迷惑の内容も一年前と同じでした。過ぎる時間のスピードは前回よりも早かったと思いましたが、自分がパトムであるという事を再認識した3か月でした。
何気なく流れていたシャープのプラズマクラスターのCMを見て、
(もしかしてこれ効くかも・・・。)
そう思ってすぐにネットで注文しました。届き次第、強風の設定で24時間つけっぱなしにしていました。暇さえあれば口を大きくかけて、出てくる風を吸い込み続けたりしたのですが、口の中がカラカラになるだけで、効果はありませんでした。


この仕事の後も間髪入れずに年明けからの仕事が決まりました。
深夜の仕事でした。契約期間は2か月。いろんな会社の情報を取り扱う内容でした。いくつかのチームが作られて、私はそのリーダーでやってくれということでした。
チームの6人がそれぞれ配置について、私はその作業の流れにミスがないかをチェックし続ける役割でした。何か不具合があればチームリーダーの社員さんに報告というそんな感じです。長い机が縦に並べられて仕切られた狭い場所を、チームの6人の背後を行ったり来たり移動します。反応はすぐに出ました。1人強めの人がいて、むせて仕事が中断することも何度かありました。

食事休憩中は、設けられた休憩スペースにみんなが集まってごはんを食べていました。もちろん私は混ざれません。真冬の夜中なので、外には出れませんでしたが、その職場がある事業所での仕事は初めてではなかったので、なんとかなりました。その当時使っていた別の休憩場所が使えたんです。当時は昼間に数人程度の利用でしたが、夜中の今、ほかには誰も利用していません。自販機の動作音しかこえないその場所は暗くて寒かったですけど、心は落ち着きました。

仕事が終わり、ロッカーに向かっている時、チームの中の数人の声が後ろから聞こえてきました。
「ねぇ、ねぇ、ティ(私)さんってさ、すれ違う時さ・・・。」
その後は何を言っているかわかりませんでした。でも検討はつきます。

行きも帰りも、駅と事業所の往復は社バスでした。自転車で通える距離ではありませんでしたので、この仕事は断ろうかとも思ったんですが、代わりの仕事がすぐに見つかるかどうかという不安の方が強くなって、引き受けることにしました。
夜中の社バスはその期間だけの臨時運行で行きも帰りも1本ずつしかなかったので、駅を利用する全員が乗り込みます。立つ人はいませんでしたが座席はほとんど埋まる状態でした。早く来て端っこに乗る方がいいのか、少しでも充満を避けるために遅く乗った方がいいのか、どちらも試しましたが反応は変わらずに出ていました。マスクに抗菌スプレーを毎日吹きかけていましたが、もちろんこれも効果はなかったです。
帰りの電車は早朝だったのですいていて、座席に座ることができました。電車内でうとうとと眠くなるたびに、普通をうらやましいと感じていました。

ちょうど1年前にしていた仕事と同じようにして、今後についての発表がありました。事業の成績が芳しくなく深夜の運用を終了するという内容でした。1か月で打ち切りということです。満額ではありませんでしたが、残りの日数の賃金は補償されました。派遣ですから仕方ありませんね。


次の仕事が見つかるまで1か月以上間が空きました。契約期間は1か月半、電車通勤です。仕事環境を選んでられる時間的余裕はもうありませんでした。
就いた仕事は樹脂製品の汚れをゴシゴシ落とす仕事でした。まな板ほどの樹脂製品をひたすらゴシゴシと立ちっぱなしでこすります。1日それだけをやります。1日何枚くらいやったでしょうか、憶えていません。
人との距離は1mほどで、かつ動き回れなかったので常に風下をキープするなんてことはできませんでした。

反応は起きました。咳、くしゃみ、鼻水、目を赤くしている人もいました。その仕事で多数在籍していた外人さんも反応していました。その様子を見て社員さんが窓を開けるようになりました。時は花粉の季節だったので部屋の中に花粉が流れ込みます。それまで咳が多めだった反応にくしゃみと鼻水の反応が増えていきました。花粉なんだかパトムなんだかゴチャゴチャした感じになってしまいました。いずれにしても、窓を開けさせたのは私が原因なので、心の中で謝罪でした。

電車通勤はやっぱりつらかったです。その中の10分はローカル線で比較的空いていたので、その辺は少し楽に来れました。そのローカル線には早朝ながらも老若男女が乗っていて、中、高、大、の学生が多く、次いで社会人、高齢者、という客層でした。そこで感じたのですが、パトムの反応はまず高齢者から起こっていました。そして次に社会人です。乗車中の約10分では、中、高、大、の学生には反応は見られませんでした。短い時間でしたのでそんなにはっきりとした結果とは言い切れませんが、私は高齢者の近くを避けるようになっていきました。※2

延長はなく仕事は終了しました。雇用保険の適用まで残り1か月です。端数は加算されませんのでそうなります。
就業中から次の仕事を探してはいたのですがなかなか見つかりませんでした。その間、職探しと平行してサイト運営に必要なレンタルサーバーの契約をしたり、サイト作成のツールであるワードプレスを勉強したりしてアフェリエイトの準備も進めていました。
そんな中ゴールデンウィークが明けてからようやくめぼしい仕事を見つけました。5月下旬から始まって6月いっぱいで終わる仕事でした。これで雇用保険の適用条件がぴったり満たせます。

健康診断会場の設営スタッフの仕事でした。午前中は搬入、午後は案内&搬出です。動きっぱなしのイメージだったので大丈夫そうだと思いました。ただ、通勤距離が問題でした。場所は江戸川区の各所。最寄り駅は葛西、西葛西、小岩、亀戸などなどです。駅からはいずれも徒歩圏内でしたが電車の乗車時間は1時間以上。担当さんにもこの通勤距離は大丈夫かと聞かれるくらいでしたが、仕事がない状態がこれ続くのが怖かったのと、雇用保険の背中が見えていたのもあり、私は問題ないと答えました。

自宅の最寄り駅から、朝8時前までの電車に乗れば間に合いましたがなるべく空いてる状態で通いたかったので、朝5時台の電車に乗ることに決めました。乗る車両はさらに空いている前後2輌目以内にし、毎回車両も時間も変えていくつもりです。

初日は5時半くらいの電車でした。ホームに人はまばらで、やってきた電車内もガラガラの状態でした。しかし実際乗ってみるとイメージとは異なっていました。小田急線新宿行き、もちろん徐々に人は増えていきますが、乗って15分ほどで肩が触れ合うくらいの混雑になるとは思っていませんでした。しかも早朝の電車のスピードは遅く、混雑したままドアが締め切られた状態での時間がプレッシャーでした。静かな車内、咳払いや鼻水をすする音にビクビクしながら新宿駅までの約40分、私は連結部分近くの座席の前に立ち、息をひそめて到着を待ちました。

新宿に到着。2時間にも3時間にも思えた乗車時間でした。ドアからホームに乗客が流れ出します。よくこれだけの人数が乗ってたと感じるその光景に、私は疲労しました。勤務日数は全部で20日。
残り19日、
(これ、無理かもしれない・・・。)
総武線のホームに向かいながら私はそう思いました。

新宿から離れていく総武線の方は空いていました。時折すれ違う総武線は真逆の状態でしたけど。
総武線では反応は起きませんでした。総武線のジョイント部分のドアは、一度開くとガチャンとはまって、強い力で引き直さないと閉まらない構造になってるので、開けっ放しになってることが多いんです。そのせいで窓を閉めていても車内は結構な風が流れていて、その換気が反応を防いでいたんだと思います。
総武線ではなく地下鉄に乗ってい行く現場もあるのですが、地下鉄は地下鉄で反応がとても少なかったです。朝の下りで乗客が少ない上に、その乗り換えが頻繁に行われていて、反応が出る前に人が入れ替わっていた状態だったのだろうと思います。とても助かりました。

集合時間よりも約2時間早く到着した私は、近くの公園のベンチで休んでいました。1匹のハトが近寄ってきました。
「ハト、速さ・・・。」
検索結果によると、ハトは時速60kmの速さで飛べるそうです。風次第では100kmを超すとも言われています。ハトをちょっとうらやましいと感じながら私は食べていたプリッツを1cmくらいに折って、そのハトに与えました。


リーダーを含め8人が現場に集合しました。簡単な自己紹介のあと、指示通りに作業に取り掛かります。公の会館の室内に何種類もの臨時検診ルームを作っていきました。椅子、机、ベッド、機材、看板などほとんどが重量物でした。エレベーターの使用が必須だったのでその辺は恐怖でしたが、開始前の検診会場に人はほとんどおらず、反応は身内に少し出る程度でした。

設置が完了し、借り切ったその会場の一室でお昼ご飯の時間を過ごします。みんながその畳の部屋に腰を下ろすのを横目に、私は置いておいた荷物を持つと、近くの公園に姿を消しました。

午後は案内の仕事から始まりました。人員配置場所は全て屋外で、駐車場、臨時自転車駐輪場、医師専用駐車場などの出入り口でした。・・・私以外は・・・。
「ティ(私)さん、採血でお願いします。」
リーダーにそう言われ、なにも知らない私は普通にわかりましたと返事をしました。
館内マップを見ながら採血ルームへ向かい、部屋に入ると10人ほどの女性看護師さんがずらり。部屋の中央に並べられたたくさんのパイプ椅子を囲むようにして置かれた机にスタンバイしていました。
「あのー・・・、手伝いに来ました。」
「はいはい、こっちこっち。」
その中のリーダーと思われる年配の人に手招きされ、私は看護師さんたちと同じ机の向こう側に回りました。
私の仕事は、採った血液が入った小さな瓶を番号順に専用ケースの中にしまうというものでした。看護師さんたちは血の入った瓶をそれぞれの傍らに置かれた箱に入れていきます。私は看護師さんたちの後ろをウロウロしながらそれを拾い集めて部屋の隅に置かれている専用ケースにどんどんしまっていくという作業です。
説明を受けて、私は嫌な予感がしました。年明けにやった深夜の仕事に環境がそっくりだったからです。

ほどなくして地域住民の人たちがやってきました。ものの5,6分で用意しておいたパイプ椅子が埋まってしまうくらいペースは早いものでした。
そして、咳が聞こえてきました。その女性はまくった腕を看護師さんに差し出した恰好のまま、むせていました。
「う、うんっ、ん゛、ん゛、」
看護師さんがその女性に穏やかに声を掛けます。
「大丈夫ですか?」
「ん゛、ん゛っ・・・!」
周囲の人たちがその女性をチラチラを見始めました。
「ちょっと深呼吸しましょうか。」
女性の腕にはまだ針は刺さっていませんでした。
「ん゛、ん゛ん。すいません、大丈夫です。やってください。」
女性の声はガラガラでした。
このあと、この女性の採血は無事に行われました。

健康診断はまだ始まったばかり、廊下から聞こえる声は賑やかです。
採血後はしばらく安静にしなければならない時間があり、その時間をすごす人と順番待ちの人たちで採血ルームはいっぱいでした。出入り口のドアも窓も開放してありました。看護師さんたちの後ろを忙しく移動しながらも、私は風で揺れるカーテンの動きに注視して呼吸を調節し、なんとかその場をしのぎました。

順番待ちの人が5人くらいにまで落ち着いた頃、年配の看護師さんに声をかけられました。
「じゃ、もうここはいいですよ。ありがとうございました。」
「はい、ありがとうございました。」
私は息を止めながら採血ルームを後にしました。

夕方、搬出が終わりその日は解散となりました。私はリーダーを追いかけて、配置転換を願い出ました。リーダーはそれを了承し、次回から私は採血担当から外れることになりました。

帰りの電車は朝来た時よりも空いていました。私は採血ルームでのことを振り返っていました。
あの時あの女性が反応で苦しんでいる最中、針が刺さっていなくてよかったと、私は思いました。でも針を刺す前だったのはたまたまそうであったというだけで、もし針が刺さっていた状態だったらと思うと私は怖くなりました。そのうち傷害罪とかそういうことに発展してしまうのではないかと。

9日目でした。朝、その日も5時台の新宿行きに乗りました。そこでいつもとちょっと様子が違うことに気づきます。人が多いと感じたんです。車内は20分くらいで満員になってしまいました。周囲からフツフツと反応が出始める中、私から3人挟んた場所にいる男性が著しい反応を見せていたんです。
「ゲホッ! ゲホッ! ゲホッ! あ゛! あ゛! あ゛!」
という感じで、怒鳴るように大きな声でした。人の乗り降りを繰り返していくうちにその男性は私のすぐ隣に来ました。
「ゲホッ! あ゛! ゲホッ! ん゛! あ゛!」
私は自分の顔がとても熱くなるのを感じながらスマホの画面をなんとなく見て時間が過ぎるのを待ちました。
「あ゛! ん゛! あ゛ぁ!」
声の大きさに前の座席で寝ていた人たちが目を覚まし始めます。
恐怖でした。
次の駅で降りよう。そう考えましたが、乗ってくる人ばかりで降りる人がいない満員電車の中、私が立っているのはドアから離れた車両の端の端。残りの乗車時間は約5分。
私は降りるのをあきらめて、ずっと心の中でスイマセンを念仏の様に繰り返していました。


最寄駅到着後、いつものように私は公園で集合時間になるのを待っていました。汗だくでした。電車での出来事が頭から離れません。新宿までは別の路線で行くこともできましたが、すでにそれは試していて混雑具合に変わりがないことがわかっていました。新宿行きなんて朝の通勤時だったら何時に乗っても混む時は混むでしょう。もっと根本的になんとかなる方法はないかと私は考えました。
違う乗り物。
持っている免許は原付のみ。選択の余地はありませんでした。
私はすぐに中古の原付バイクをネットで探し、その日のうちにジモティで売りに出されていた原付に決めました。15年前のスクーターです。58000円、家賃とほぼ同じ金額でした。
私はその月の家賃をあきらめて、中野区在住の売主と連絡を取りました。翌日に代金を振り込み、その翌日の仕事帰りに中野に寄って名義変更の必要書類を受け取り、その翌日の仕事休みに名義変更をすませ、ナンバーを胸に抱いてバイクを取りに行きました。

およそ15年ぶりの運転でした。中野区からスマホでなんどもなんども道を確認しながら自宅に付いたのは3時間半後でした。
自宅で明日からのルートを確認します。現場によって距離は変わり、約50kmから55kmといったところでした。余裕をもって片道3時間はみておこうと思いました。運転に不安はかなりありましたが、電車通勤のストレスとは比べれば全然マシでした。

翌朝、6時前に出発しました。こんな時間でも道路はなかなかの交通量でした。大型のトラックが横をすごい勢いで追い越していくこともありましたし、渋滞の脇を足をつきながらミラーに気を付けてすり抜けていくこともありました。
スマホを何回も確認しながら長い多摩川の橋を渡り、246をひた走って渋谷まではほぼイメージ通りに来れましたが、その先では何回も迷ってしまいました。築地近辺の道路は手ごわかったです。景色が同じで堂々巡りを繰り返しました。それでもなんとか墨田川を越えてスカイツリーを横目に目的地にたどり着いたんです。
9時を過ぎていました。もうちょっと早く到着するイメージだったので焦りました。そして疲れました。でも電車での恐怖を想像すると、原付を買ってよかったと感じました。
残りの勤務日数はあと半分、これで大丈夫だと思えました。


原付通勤5日目。仕事が終わって帰宅途中、葛西らへんの大きな交差点を右折した時でした。後方から白バイのけたたましいサイレンが鳴り響きます。
(あ、だれか捕まったな・・・。)
「はい、青の原付の運転手さーん、左に寄って停まってくださーい。」
捕まったのは私でした。警官に私は思わず、
「え、オレ??」
と聞き返すくらい身に覚えがなかったので、何かの間違えじゃないかと感じました。
「えっとね、原付はね、片側三車線以上の道路の場合、右折は二段階でやらないとダメ。」
・・・知りませんでした。原付は30km厳守、常に道路の左側を走る、くらいしか憶えていませんでした。実はもうひとつ違反があったと言われましたが、それは許してくれたみたいです。
3000円とゴールドが消えました。

警官が立ち去った後、かなりのショックを受けていた私はしばらくその場で休んでいました。自宅までまだ50kmはあります。交通規則もろくに知らないでここから先の複雑な経路を無事に捕まることなく進めるかどうか。今まではただ運が良かっただけ、いつも通り帰ろうものならこの先もまた捕まる、そう思いました。今月の家賃を見送っている状態で、さらなる反則金は致命的です。
雨が降ってきました。雨の運転は初めてです。こんな時に備えて、カッパはシートの中に入れてありましたが、大きな不安が心の中に芽生えていた私はホテルを検索。駅にほど近いカプセルホテルを予約しました。

【さらなる反則金の可能性&初めての雨の長距離運転での危険性】>
【宿泊代3500円&1往復分の長距離通勤カット】
心の中の天秤ではこうなりました。


私は途中で食べるものを買い込み、チェックインを済ませると大浴場に向かいました。すでにいた4,5人の人たちを避ける様にサッと入浴をすませると、買っておいたおにぎり2つとアジフライをもって飲食スペースに向かいました。
そのスペースは狭く、6人掛けのテーブルと自販機が余裕の隙間がないくらいに置かれていました。そこにはまだ誰もいませんでしたが、後から人が来た時のことを考えると座る気にはなれませんでした。カプセル内は飲食禁止でしたが、私は自分のカプセルに向かいました。

体をかがめて小さく頭をぶつけながらカプセルの中に入ると、私はカーテンを閉めました。とても静かで狭いそのカプセル内を、ひとつの小さなオレンジの電球が薄暗く照らしています。
袋からおにぎりと、持ち帰り専用エコ紙袋に入ったアジフライを取り出しました。紙袋からアジフライの端っこを一口分出した時に、ソースをもらい忘れていることに気づきました。仕方なくそのまま食べます。当たり前ですが味はあまりしません。
ふと、これまでのいきさつを振り替えっていました。
(なんでこんなことになっちゃったんだろう、)
そう思いながなんとなく目の高さにあった正面のテレビモニターを見ました。テレビはつけていなかったので画面は真っ暗です。自分の顔が映っています。笑ってみました。
「けっこうやせたな。」
そうつぶやいた瞬間、目の前が一気にゆがみ、涙がどぼどぼと流れてきました。しばらく涙は止まりませんでした。
あと残すところたったの5勤務だ。大丈夫、がんばろう。自分はひとりじゃない。自分には自分がついてる。大丈夫。
私はおにぎりとアジフライをお茶で流し込むようにして食べた後、すぐに眠る事にしました。


翌朝、ゆったりとした時間が流れていました。大浴場のお風呂の湯気が朝のまぶしい光を照らし返しています。浴場には私以外だれもいませんでした。のんびりとシャワーを浴びたあと、時間はたっぷりありましたが早めにホテルを後にし、次の現場へ向かいました。
いい天気でした。私は今日の現場会場にバイクを停めて、一番近くの公園まで歩いていきました。公園内を歩きながら、昨日を振り返ります。
たしかに、免許取り立てよりも弱い私が、この辺の複雑な道路を使うのはかなり無理があったと思いました。そして新宿駅から先の電車は自分にとって環境がよかったことを思い出し、次からバイクは渋谷までと決めました。

1日休みを挟んだ雨の朝、カッパを着てバイクを飛ばしました。途中までは今までと同じルートを進み、渋谷に入ったあたりで予定の場所に向かいました。千駄ヶ谷駅の近くにある大きな体育館の駐輪場にバイクを停めます。ここから先は電車です。

到着したのは完全バイク通勤よりも少し早い程度でした。駅から歩いているのでそんなに差はありませんでした。その日はこの仕事をしている中で、一番気持ちが落ち着いていました。残りの勤務は4つ。こなせば雇用保険が適用となります。今度はアフィリエイトに的を絞って頑張るつもりでした。


それから江戸川区の仕事は終了し、私は滞りなく書類のやり取りを進め、管轄のハローワークへ向かいました。受付の男性に書類の全部を渡し、指示を仰ぎます。
「ん? え、あれ? これは・・・。」
男性は顔をしかめていました。
「これで全部ですか?」
「はい。そうですけど・・・。」
「これもしかしたら・・・。」
「え、どの部分ですか?」
私がきょとんとしていると、
「すいません、これを持って雇用保険の窓口に行ってください。」
と男性は書類を私に突き付けてそう言いました。私は不思議に思いながらも言われた通り窓口に行き、そこで書類を提出しました。
20分後に名前を呼ばれ、失望の説明を受けることになります。
「月数が0.5か月たりませんね。」
働いていた期間は単純にたし算すると優に6か月は超えているのですが、書類上は5.5か月ということになっていました。10月の印刷工場での契約が、10月1日からであれば大丈夫だったのすが、勤務初日の4日からとなっていたのが、ダメという理由でした。4日からでも十分な勤務日数の場合は0ではなく0.5となるらしいです。紙面上4日が1日になってればOKだった・・・ということですね。

その後の職探しは難航し、次の仕事が見つかったのは江戸川区の仕事が終わった6月下旬から2か月後のことでした。家賃の代わりにバイクを買っていたのもあり、相当マズイ状況になっていました。
次の勤務地は自宅から片道約30km。健康食品などを作る工場での仕事でした。
面接の待ち合わせでは私を含め4人の男性が集まりました。一人は営業担当なので、実際に勤務するのは3人。職場見学が始まり、課長による仕事の概要と建物の簡単な案内がありました。作業場所の天井は高くそこそこの広さはありました。ただ、健康食品の生産工場なので完全に密室状態で換気に不安がありました。座りっぱなしで移動はほとんどありません。今回は原付を手に入れているので通勤は問題なさそうでした。※3
最終的な確認を個人面接で行う中、お相手の課長が見事にむせていたので気が滅入りましたが、もう崖っぷちで片足踏み外している経済状況なのでイエス以外の答えはありえませんでした。

翌週から、仕事は始まりました。その工場の更衣室は男女がパーティションの壁一枚で仕切られていて、声は筒抜けでした。
「なんかさ、ノドが変じゃない?」
「そうそう、みんな言ってるよね。」
契約期間は2か月。勤務時間は昼過ぎから夜までの時間帯でした。食事をとる時間には昼勤務の人たちはほとんど退社していて、食堂は私たち3人以外誰もいませんでした。2人が仲良く食事をとっている中、私は一人すみっこに座り、距離を取っていました。暗い変な奴だと思われていたでしょう。

前ほどではないものの遠い通勤距離でしたが、経路がシンプルでほとんど直線を走っている状態でしたので運転は楽に感じました。途中、夜にライトが切れたり、出勤前にスピードが20km以上でなくなったり(修理費15000円くらい。)、ガソリンスタンドで500円硬貨が使えなくて一か八かで帰るなんてこともありましたけど・・・。

パトムの反応は相変わらず出ました。やはり同じ部屋で作業していては避けられないですね。換気がよくなかったのもあると思います、同僚への反応は後半に連れて徐々に強くなっていく状態でした。

そんな中でも、新しい情報はないかと自分の体の事をネットで調べていました。すると、誰かの書き込みにワサビがパトムに効くとあったんです。チューブの先を直接口に入れてワサビを全部しぼり出し、1本全てを飲み込むというものでした。
私は子供のころからワサビやカラシが大の苦手でしたけど、パトムに効くならと思い、チューブタイプのワサビを大量購入し、それをそのまま実行しました。
チューブ一本分飲み込んですぐに後頭部あたりがビリビリとしびれ始め、その直後、同じ場所をバチンと平手でたたかれたような衝撃が走りました。吐き出しそうになりましたがパトムに効くなら耐えなければいけないと思い、我慢しました。すぐに胃が痛くなって、たまらず大量に水を飲んだ後、そのままトイレでリバースという結果になりました。
残りは少しずつ食事に取り入れて我慢しながら食べ続けましたが、改善の兆はありませんでした。

契約期間が終了し、私は今度こそ雇用保険の適用を受けることができました。その説明会で、給付の延長がその年からなくなったことを知りました。ですので、笑っても泣いても期間は90日のみとなってしまいました。
仕事が終了してすぐ、すでに着手を始めていたアフィリエイトのサイト制作に集中しました。その年の12月にそれが出来上がるとSNSや、観光サイトなどで宣伝を始めました。それからも新しい写真を撮りに出かけては持ち帰り、それを選別。同じ写真やボケやブレの画像をはじいて、斜めってるものとかがあれば修正し、色補正を施して、サイト名をスタンプ。最後にナンバリングを行ってサイトにアップします。
途中、使用していたワードプレスにアクセスできなくなり、サイトが完全消滅して別のやり方でサイトを再構築するロスもあったりしました。

そんなこんなで翌年の3月、サイトを立ち上げてから丸3か月が経過しました。収益は約700円。ゼンゼンでした。サイトには維持費がかかります。年間で約7000円。レンタルサーバーの更新はできそうもありません。雇用保険の最後の給付はすでに終わっていました。

仕事を探さないといけません。しかし今までお世話になっていた派遣会社の案件に、できそうなものはありませんでした。アルバイトの求人誌も見ていました。パトムでもできる仕事はなかなか見つかりませんでした。それでも2か所応募してみました。保険証を持っていない、保証人がいない、という理由で断られました。

いよいよギブアップです。いい加減、死が頭をよぎりました。不思議と心は落ち着いていました。苦しみながらは避けたいと思いました。ほかの人はどうやって命を絶つんだろうと思い、検索してみました。
”一人で悩まないで、0570-〇〇〇〇〇〇”
こんな感じの検索結果がありました。電話番号はナビダイアルです。自分の携帯の契約ではフリーダイアルとナビダイアルにはかけることができません。
なんとも自分らしい、そう思うと笑えてきました。

ここまでが、私がパトムを発症してからの3年間です。

現在でも私はパトムの改善はみられないまま、身寄りがないなりになんとか生活している状態です。※あの世ではありません。

私がPatom(パトム)であると言うことがわかったのは、自分の体についてネットで調べていた時に見つけたブログ記事でした。
外国の女性教師がパトムを発症し、職場を追われてしまうという事例が、テレビで取り上げられたという内容でした。
違うサイトでは、腸の不調によるアレルギー反応で治療法はまだないという事と、パトムを研究している医者がいるということも知りました。しかしその検査も、治るかどうかわからない治療法も保険適用外で高額だという事でした。

衝撃的な事実でしたが、なんとなく心のどこかで、このくらいの困難に直面しているんだろうとは思っていました。人生でこんな体の異変今までなかったので。

これまでの話の中でもありましたが、やっぱり自分で仕事を持つ、もしくは在宅勤務ができればパトムの問題はほとんど解決と言えると思います。そのほかにも恋愛や結婚などもありますけど、まずは自立しないといけないので。仕事を持つか、在宅勤務ができるか、ですね。

学生の場合は準備をできるだけ早くした方がいいでしょう。将来の目標を考えている段階で、在宅でも勤務が可能な仕事を探しておいた方がいいと思います。そしてその仕事に見合うスキルを身に付けることも忘れずに。

すでに働いている人は会社に相談して、在宅勤務を希望した方がいいと思います。隠し続けることはまず不可能ですので。最近は新型ウィルスの影響で在宅勤務が注目されています。リモートワークとかテレワークとか言ってますよね。なので会社は意外に柔軟に対応してくれるかも知れません。

私みたいに社会に出てからもスキルが乏しく、派遣とかバイトとか不安定な状況でパトムになった場合は、どうすればいいのか。やっぱりそれでも在宅勤務が可能な仕事を探していくしかないと思います。実務経験を要求されてしまった場合、手も足もでませんけど。

それでもやっぱり一人では相当無理があるので、他者のサポートは必要だと思います。家族がいる人は家族に相談、それ以外に相談できる人がいればその人に、私の様に身寄りがいなくて誰にも相談できる人がいない場合は福祉関係に相談してみてください。

そこでもし信じてもらえないようなことがあったら、これを読んでもらってください。信じてもらえると思います。

パトムの方々やその家族の方々同士でフォローし合えるようなネットワークが生まれたらいいですね。パトムの方々やその家族の方々でNPOを作って仕事や寄付を募り、それをシェアしながら自立を目指す活動できたら心強いと思います。

問題が立ちはだかったとき、一人では無理でも団体ならその中の誰かしらが突破口を開けられると思いますし。
実務経験の壁だって、誰かが実務の経験をしていたならその人が仕事をもらって、分割してみんなでこなしていく。そのうち大きなボリュームの仕事でも受けられるようになれば、団体は潤い、安定していくでしょう。

しかしそのスタートを切るのは一人では到底できません。
NPOだって頭数最低10人が必要ですし、手続きに必要な重要書類を作成するのにもその知識が必要です。その知識を持ち合わせていない場合はプロに依頼することになります。費用も必要になってくるということですね。

今でも私は孤独なりになんとか生活している状態です、といっても自立できているとは言えない状態なので、なんとかしないといけない状況であることには変わりありません。
この文章で収益が見込めた際には、自立と自分以外のパトムで苦しんでいる人たちの救済活動に向けて力を注ぎたいと考えています。

できれば応援よろしくお願い致します。読んでいただいて、ありがとうございました。

- 了 -



※1(おそらく人が怖く感じ始めたことが原因じゃないかと思っています。)
今でもレジなどでの現金精算時、この感覚に襲われる時がたまにあります。
当時は買い物はすべて現金精算だったので、買い物がとても怖かったです。デビットカードでも作ればよかったのにと思われるでしょうが、その時はそこまで考えが回らない心理状況だったんだです。

とにかくお釣りがないように買い物しようって決めて、ポケットには必ず小銭999円が入っていました。銀行ATMではわざと9999円でおろしたり、飲み物はなるべく自販機を使ったり。

現在はデビットカードを使用していますが、100均や八百屋さんなど現金支払いが発生する場面では未だに不安になります。そんな時はあきらめて、後日また来店して、大丈夫そうならレジに向かうし、不安があるならまたあきらめる、というようにしています。わかるんですよ、あ、今日はヤバイかもって。胸のあたりがザワザワしたり、頭がフラフラしてくるんです。


※2(私は高齢者の近くを避けるようになっていきました。)
なぜかはわかりませんが高齢者に対しては特に反応を強く与えてしまうので気を付けた方がいいです。病院の待合室なんかでは離れて待っていた方がいいですね。
まだ最近の話ですが、少し大きめの病院の待合室で呼ばれるのを待っていた時がありました。気を付けて端の端の椅子に座っていたんです。
そうしてたら腕に点滴の針を刺したお婆さんと、そのお婆さんに寄りそう男性がこちらに向かって歩いてきたんです。ほかは空席だらけなのになぜか一番隅っこに座っている私の前に座ったんです。
なんで? って思っていると、ものの数十秒でお婆さんが激しくむせて、男性が背中をさすり始めたんです。すぐに立ち去るべきだったんですが、その咳がイヤで立ち去ったと思わせてしまったら申し訳ないと思って、
(早く自分の名前呼んで! 立ち去る理由を作って!)
って願ってたんですけどお婆さんのむせるのが全然止まらなくて、息できてないなって思ったのですぐに立ち上がって走って受付の方に逃げたことがあります。
病院は特に注意ですね。


※3(原付を手に入れているので通勤は問題なさそうでした。)
原付通勤2か所目の職場の時は、相当調べました。絶対捕まりたくなかったので。地図も細かく見ましたけど、実際に管轄の警察に電話して、この陸橋は原付OKか、この車線は2段階右折じゃなくても大丈夫か、とか確認もしました。
今思うとこのスペックの原付で58000円って高いの買っちゃったんだなぁと思います。同じ型のが3万円台で売られているのを知りましたから。その後の修理代も入れると73000円になりますね。
あの時はワラにもすがる思いだったので、仕方なかったと思うようにしてます。


- おわり -


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