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女性でつくる能『道成寺』で、リアル女の怨念を聞いた

令和6年3月2日は日本の能楽にとって、記念すべき日になったと感じました。
国立能楽堂で金春円満井会の特別公演として、女性のシテ、女性の地謡、囃し方も大鼓以外は全て女性奏者による『道成寺』が披露されたのです。

すでに活躍されている女性能楽師の方もおり、男社会で形成された日本の伝統芸能の中で能楽は最も女性に開かれた芸能になっていると思いますが、シテ=主役も、地謡・囃子方=バックバンドも女性という上演は初めてではないでしょうか。
特に『道成寺』は能を代表する曲で、テーマも女の執心と怨念なので、いつか女性のシテで観てみたいと思っていたのですが、思ったより早く念願がかないました。

『道成寺』の有名な見どころとして乱拍子があります。シテの舞と小鼓の一騎討ちにも似た緊張感のあるセッションでyoutubeにもいくつか上がっていますのでご存じない方は一度ご覧になることをお勧めします。道成寺の乱拍子を知らないのは、第九を知らないのと同じくらいもったいないことだと思います。
閑話休題、そこでの大山容子さんの小鼓がそれはすさまじいものでした。その気合、音は、辺りに放たれるようでいて、シテの白拍子の怨念を掴んで体内から引き擦り出すような、原始的な手術をみせられているようでした。そして後半、シテ柏崎真由子さんの蛇は、怨念を吐いて吐いて吐ききって、哀れ、空っぽになって、虚になって消えていくように見えました。
そう、女性だからどうというより、これらの能楽師による執心の哀しさをみることができました。
強いていうなら、地謡はもう少しボリュームもしくはエネルギーがあってもいいのではないかと思い、それは大きな声を出すという意味でもないのですが、あと4人ほどいるとなお良かったかなと思いました。

そして、この日は考えさせられる附録付きでした。
能は終わった後観客はすぐに拍手はせず、能楽師や囃子方、地謡が舞台から降りてから拍手するのが通例です。余韻を愉しむためと聞いたこともありますが、ほとんどのお客さんがそれに習っています。終わっていきなり拍手喝采ということはありません。初めて観る人が多かったり、外国の方が多かったりすると、「終わった」と思った瞬間に拍手をする方がいますが、ごく稀なケースです。
ところが、曲がほぼ終わりに近づいた時、僕の後ろの女性が大きな拍手を打ち鳴らしました。バチバチと主張するように。そして「いい時代になった」と声まで出しました。能では歌舞伎のように観客側から声が出ることはあり得ないので、みな一様に驚いたと思います。
『道成寺』は舞台にある鐘のつくりものを片付けるところも見応えがあるので、この段階ではまだ続きがあることを観客も知っています。釣られて拍手をする初心者は皆無で、さすがに彼女は一度拍手を止めました。
そして、附祝言が終わるとまた大きな拍手をしました。普通であれば、シテやワキ方の姿が完全に見えなくなり、囃子方が揚幕に近づいた頃に拍手が起こるので、このタイミングでも十分に「早過ぎ」で、釣られる人も数名でした。しかし、彼女は意図的、いやそれを堪えることができないようでした。そして、
「いい時代になったよ。拍手させてよ。応援してるよ。タンタカタン(はっきりと聞き取れず)」
と舞台に届くような声で発言しました。
僕は最初、とんでもない鬼婆が最後に現れた、迷惑だなあ、読後感が台無しだという風に思っていました。
しかし、「拍手させてよ」という言葉には、彼女がタイミングを間違えているのは知っていて敢えてやっているということが読み取れます。
そして、女性能楽師中心の公演日に「いい時代になった」というのは意味が明らかです。
彼女は観客席全体に向けて、こんなにも素晴らしく女性が活躍できる時代が来たのだとアピールしたとも言えます。同時にそれは、その婆さんが長い間女として生きてきて、不公平さを感じたり、嫌な思いをしたり、不遇だったり、いやそんな生易しいものではなかったのかもしれない、この日ルールを破ってでも、たくさんの人に顰蹙を買ってでも発散したかった、彼女の怨念のリアルな現れだと思いました。
女の怨念を描いた舞台の最後に、生々しい怨み節を浴びた気がして、それはやはり哀しくて、そして後味の悪いものでした。


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