責任追及って、生贄だよね

責任追及って、生贄(いけにえ)だと思うんだ。
ちなみに、僕はENTP-Aだから倫理観とか皆無。
その僕がどうして責任の追及を生贄だと思うかを考えてみた。

責任を感じる人って生きにくいと思うわけだよ。
「失敗したら周りに迷惑かけるかも」
「失敗したら自分はここにはいられなくなるかも」
そんなことばかり考えて生きているのは不健全だしね。

仮にだよ、5人の人間がいて、その中にリーダーが1人。
その集団が失敗したらリーダーが責任を取る。
謝るし、恥をかく。
「それでこそ人は成長できるんだ!」っていう精神論は横に置いておいて。
「果たしてそれは正当な判断なんだろうかね?」と考えてみたい。
5人のうちリーダーだけが責任を取る。
それって、他の4人が平穏に暮らしていくための儀式的な側面があるんじゃないか?ってことを考えたいわけです。

日本は明治時代に入って天皇を元首として国家の中心に置きました。
(もうちょっとで関係してくるから待って)
そのときのオモテ面は、天皇陛下に国の全権を委ねることでうんぬんかんぬん。
ウラ面は、生贄だったんだよね。
悪い意味じゃないですよ!(ネトウヨキレンナヨ)
誰かが先頭に立っているという図式を作らないと明治時代へスムーズに移行できなかったわけです。
ただ、天皇を元首とするこの構造には置き去りにされた天皇個人の感情や尊厳があります。

その仕組みを今の今まで維持し続けている日本。
根本は何一つ変わっていないとするならば。
その図式は僕たちの生活にまで落とし込まれているはずです。
一人の人間をリーダーとしてその人の言うことに従う。
その反面、何か問題が起これば責任を取ってもらって、その他大勢は平穏な暮らしに戻る。

矢面に立たされる人を尊敬したり、擁護したり、はたまた非難してみたり。
でも全部同じく儀式(責任追及)までの祭りを楽しんでいるようにしか見えないんだすな。
注目される人にも生活があり、大切な人がいるのにね。
その他大勢の平穏な生活のために今日もどこかで責任が追及されていますな。

そもそもへいおんなせいかつのどこがたのしいんだっけ?

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